幼馴染の二人
今回の作品は、ミステリーです。初のミステリー作品です。
ある幼馴染のカップル。その彼氏が殺された。
一体、誰に殺されたのか? その動機は?
五月の中頃であった。
その日、警視庁捜査一課の松田一磨刑事は東京の三軒茶屋にあるアパートへ来ていた。
今朝、このアパートで男性が死んでいるのを目撃したと連絡があり、松田刑事は殺人現場まですっ飛んできた。
その男性は腹部を刺されていた。その横には血の付いた包丁が落ちていた。その包丁は料理でよく使うようなものだった。凶器はこれで間違いない、と松田刑事は確信した。
事件を目撃したのは二十代前半の女性だった。名前は風間真央というらしい。彼女はその男性の友人だという。
被害に遭った男性は大谷宏樹だという。歳は二十四歳らしい。このアパートはどうやら彼の自宅らしかった。
「彼はここで一人暮らしを?」
松田刑事は近くにいた佐藤という大家の男性に訊いた。
「いえ。大谷さんには彼女さんがいました」
「彼女さんですか?」
「ええ」
「そのお名前というのは?」
「何と言ったっけな? ああそうそう。早見さんといったな。早見瑞希さんですよ」
「早見瑞希ですか」
「ええ」
「彼女はどこへ?」
松田刑事がそう訊くと、「そういや今朝は見かけていませんな」と、その大家は言った。
「今朝ですか?」
「ええ。いつも朝の八時過ぎくらいに、彼女は仕事へ行くんですよ。その後、八時半頃に今度は大谷さんが家を出て行くんです」
「そうなんですね」
「もしかしたら、今お仕事に行ってらっしゃるかもしれない」
それから、大家がそう言った。
「なるほど。ところで、彼女は、お仕事は何されていましたか?」
「さあ。そこまでは分からないですな」
「そうですか……。どうもありがとうございます」
「いえ」
そう言ってから、大家はそこを離れて行った。
その日の午後、その事件を目撃したという風間真央が警視庁へとやって来た。松田刑事はそこで彼女に話を聞いていた。
彼女の話によれば、事件前日に大谷宏樹に話があって、彼の携帯に連絡したのだという。しかし、その夜、彼に電話が繋がらなかったのだという。寝てしまったのかもしれないと思った真央は、翌朝、再び彼に電話を掛けたらしい。けれど、それでも彼と電話が繋がらなかったので、真央は彼の会社に連絡をしたという。すると、電話に出た相手が彼は今日まだ会社に来ていないと言った。
そこで不思議に思った真央は、その後すぐに彼の自宅へと向かった。
真央がその部屋のインターフォンを押したが、誰も出てくる様子はなくその家には誰もいないようだった。もしかしたら、彼は先ほど家を出て、今になって会社に向かっているのかもしれないと真央は思った。彼が真央に電話できないのは仕事が忙しいからなのかもしれないと思った。
そう考えると、今までの自分の行動が馬鹿馬鹿しいと思った真央は諦めて帰ることにした。
真央が帰ろうとした時、その部屋の二つ先の扉が開いた。一人の若い男性がそこから出ていくところだった。その男性はそこの住人のようだった。その男性は部屋の鍵を掛けると、一度真央にぺこりと頭を下げて、階段を降りていった。
それから、ふと真央はあることに気付いた。
宏樹の家は鍵が掛かっていたか。
真央はインターフォンを押しただけで、そのドアノブに手を掛けていなかった。
早速、真央は宏樹の家のドアノブを回した。すると、その扉は鍵が掛かっていなかった。
その後、すぐに真央は宏樹の家に入った。真央がその部屋へ入ると、そこに彼が倒れていた。
それから、真央はうろたえながらも警察へと連絡したという。
「大谷君は確かに付き合っていたわ」
風間真央が証言をする。「確か瑞希ちゃんって言ったっけ?」
「早見瑞希さんですか?」
「ええ。確かそうだったと思う」
「あなたは早見さんとお会いしたことがありますか?」
その後、松田刑事は彼女に訊いた。
「いえ。彼から聞いたことはあるだけで、実際に会ったことはないわ」
「そうですか。あなたは、その早見さんのことを恨んでいたなんてことはありませんか?」
「恨む? 私が? いや、恨むなんてそんなことを思ったことはありませんわよ。それよりも羨ましいとは思っていましたけれど」
「羨ましい? というと?」
「だって、あの二人は幼馴染らしいんですよ。彼からそう聞いたことがあったんです」
「幼馴染ですか」
「ええ。幼馴染同士が付き合って、同棲していたみたいなんですよ」
「はあ、そうだったんですか」
「ええ。それってなんだか可愛らしくないですか?」
「確かに可愛らしいかもしれません」
「ところで、風間さん、あなたは早見さんがどんなお仕事をしているかってご存知ですか?」
その後、松田刑事は彼女にそう訊いた。
「彼女のお仕事ですか?」
「はい」
「知っていますよ。これも彼から聞いたことあります」
「そうですか。じゃあ、それというのは?」
「美容師です」
それから、松田刑事は風間真央の話を聞いて、早見瑞希がいる美容室へ行ってみることにした。三軒茶屋にあるBlue Angelという美容室らしい。早速、松田刑事は車に乗って、その美容室へ向かった。
松田刑事が中へ入ると、受付にいた若い女性が「いらっしゃいませ」と、挨拶をした。
「お客様はご予約の方ですか?」
その後、その女性にそう訊かれて、松田刑事は胸ポケットから警察手帳を取り出し、それを見せた。それからすぐに松田刑事は、「こちらに早見さんは、いらっしゃいますか?」と、彼女に訊ねた。
「早見ですか……。少々お待ちください」
彼女はそう言って、奥の方へと行ってしまった。
それから、しばらくすると、奥の方から先ほどの女性と一緒に一人の男性がやって来た。その男性は、その女性に比べると年上くらいに見えた。
「警察の方ですか。私、店長の今井と申します」と、その男性が言った。
「はあ、これはどうも。それで、こちらに早見瑞希さんという方はいらっしゃいますか?」
「ええ。いました。昨日まではここに」
「じゃあ、彼女は急に来なくなったんですか?」
「はい。今朝、電話で急に辞めたいと彼女が言ったもので……。彼女にそう言われて、僕としては困りましたよ。なんせ彼女はうちの店の人気の美容師でしたから」
「はあ、そうですか。それはお気の毒に」
「ええ……。」
「ところで、今彼女はどちらにいるかってご存知ですか?」
「いえ……。」
「あなたは?」
それから、松田刑事は受付の女性にも訊ねた。
その後、「私も分からないです」と、その女性が言った。
「そうですか」
「何かあったんですか?」
それから、店長の今井が訊ねた。
「ちょっと彼女に関わる事件があったもので……。」と、松田刑事は答えた。
「事件ですか……。まさか彼女の身に何かあったとかじゃないですよね?」
「その可能性もありますね」
「うそ!?」
「しかし、まだ詳しいことは捜査してみないと分かりませんので……。」
「そうですか……。彼女が無事だといいんですが……。」
「そうですね……。ああ、すみませんお忙しいところを。では、私はこれで失礼いたします」
松田刑事はそう言って、その美容室を後にした。
その翌日、松田刑事は駒澤大学駅の近くにある風間真央の家を尋ねた。インターフォンを押して、しばらくしてから彼女が出てきた。
「どうぞお入りください」
彼女にそう言われて、松田刑事は家の中へ入った。
「刑事さん、お話というのは?」
「昨日、早見さんの美容室へ行ったんですよ。そこで店長さんに彼女のことを聞いたら、昨日、あの美容室を辞めていたんです」
「え!? 本当ですか?」
「はい。確かに昨日は早見さんと思しき女性はあの美容室にいませんでした」
「それじゃあ、彼女はどこかへ消えたということでしょうか?」
「そう言うことになりますね」
「どこへ消えたんでしょう?」
「風間さん、あなたはどこに行ったかご存じないですか?」
「私が知るはずありませんよ。もしかしたら、実家か誰か知り合いの家にでもいるんじゃないですか?」
「ははあ、そうかもしれませんな。ところで、彼女のご実家をお知りですか?」
「いえ。分かりません」
「じゃあ、彼女のお知り合いの方はどなたかご存知ですか?」
「知り合い? そこまでは分からないわ」
「そうですか……。それは失礼」
「話ってそれだけですか?」
「ええ。まあ」
「もう用がなければ、帰ってください!」
「ではこれで」
松田刑事はそう言って、玄関の方へと歩いた。「あ、そうそう!」
その後、松田刑事は思い出したように言った。
「何ですか?」
「あなた、もしかして妊娠されていますか?」
それから、松田刑事が彼女の顔を見てそう言った。
「ええ。そうですけど……。」
「やっぱり」と言って、松田刑事はにやりと笑った。
「でもどうして?」
「前お会いした時よりもお腹が大きくなった気がしたので」
「はあ」
「実にめでたいですね。ご主人は今日、お仕事ですか?」
「ええ。そうだけど」
「そうですか。ご主人も幸せだ。ところで、あなたは亡くなった大谷さんとは本当に友達であったわけですね?」
「ええ……。本当にただの友達です」
「そうですか。分かりました。じゃあ、私はこれで本当に失礼させていただきます」
そう言って、松田刑事は彼女の家を出ていった。
その日の午後、松田刑事が警察署に戻ると、鑑識が彼に話があると言った。
殺害現場にあった包丁を調べたところ、それに指紋が付いていないと言った。それを訊いて、松田刑事は驚いた。
指紋が付いていない。となると、犯人は大谷宏樹を殺害した後、すぐにその包丁の指紋を拭き取ったのだろう。だとすれば、犯人はその指紋を拭いたハンカチかタオルか何かを所持しているに違いない。
しかし、その犯人がもしそのハンカチか何かを洗濯していたら、見つかるはずの指紋もないだろう。他に何かついていればいいのだが、それがなければ……。
それから数日後、警察署にある夫婦がやって来た。それは早見瑞希のご両親であった。午後一時半を過ぎた頃だった。早速、松田刑事はその夫婦に事情を聴いた。
その二日前、大谷宏樹の葬儀があったという。二人も彼の葬儀に参加したと奥さんが話した。
「まさか宏樹君が亡くなるとは思わなかったわ……。」と、奥さんが落胆するように言った。
「本当だな」
それから、旦那さんも呟くように言った。
「二人は幼馴染と聞きました」
その後、松田刑事が口を挟んでそう言った。
「ええ。そうなのよ。幼稚園の頃からなんです」
「そうですか。それはずいぶん長いお付き合いだったんですね」
「そうね」
「二人がお付き合いしたのは、いつ頃ですか?」
「付き合い始めたのは、二、三年前だったかしら?」と、奥さんが言った。
「割と最近なんですね」
「ええ」
「となると、二人が同棲を始めたのも最近、ということになりますね?」
「はい。大学を卒業してすぐでした」
「なるほど。そうですか」
「ところで、数日前の話になりますが、宏樹さんの葬儀の日に、瑞希さんは来ていましたか?」
その後、松田刑事がそう訊くと、「ええ。いましたよ。男性と一緒に」と、奥さんが答えた。
「男性……ですか?」
「はい。私たちは見覚えのない方でした。ですから、その時、娘にその人が誰なのかを聞きました。確か……吉沢さんと娘は言いました」
「吉沢さん?」
「ええ」
「下の名前は?」
「さあ?」
「その方と娘さんのご関係は?」
「大学でのお友達らしいのです」
「なるほど。その時、娘さんと他に何かお話しされましたか?」
「いえ、何も。あの日、娘は焼香を終えた後、すぐにその男性と一緒に帰っていきました」
「そうですか……。因みに、瑞希さんは、今ご実家ですか?」
「いえ。帰って来てないです」
「そうですか」
「はい」
その後、松田刑事はちらりと時計を見た。午後二時になろうとしていた。そろそろ切り上げようと松田刑事は思った。
「本日はこの辺で結構です。貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
それから、奥さんがそう言った。
「またこちらでお話を伺うかもしれませんので、その時はよろしくお願い致します」
「分かりました」
「何か分かりましたら、いつでも何でもいいので、ご連絡いただければと思います」
「はい」
「本日はご足労頂き、ありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい」
松田刑事がそう言った後、二人は松田刑事に一度ぺこりと頭を下げて、その部屋を出て行った。松田刑事も頭を深く下げて、二人を見送った。
その翌日、松田刑事は早見瑞希が働いていた美容室へ行った。
中へ入ると、以前来たときにいた受付の女性と店長がいた。松田は事情を説明し、以前そこに来たお客さんで吉沢という瑞希と同い年くらいの男性がいたかどうかを聞いた。
それから、店長が「確認してみます」と言って、受付の奥へと入っていった。しばらくして、その店長が黄色いファイルを持って戻って来た。
「この方でしょうか? ヨシザワ……ユウマさんという方が以前、何回かこちらにいらしてますね」
「ヨシザワユウマですか」
「はい。あ、この方、担当が早見さんになっていますね」
その後、店長がそのカルテを見ながらそう言った。
「本当ですか!?」
「はい。カルテにそう書いてあります。あ、そういや、確か僕も一度や二度、見たことありますよ。この人を。そうだ、確かいつも早見さんを指名していましたね」
「はあ、そうですか」
「はい」
「ところで、彼と早見さんはどういった関係だったかってご存知ですか?」
「関係ですか? あ、えっと、そうだ、確か大学時代の友人だったとかって、彼女が話していた気がします」
「そうですか。分かりました。突然押しかけてしまい、どうもすみません」
そう言って、松田刑事は帰ろうとした時、「あ、そうだ」と、思い出す。
「もう一つだけよろしいですか?」
「はい?」
「その彼のカルテを一度、見せていただくことってできますか?」
それから松田刑事がそう訊くと、「本来であればダメなんですけど、捜査ということでしたら特別に……。」と、店長がそう言って、そのカルテを見せてくれた。
「どうもすみません。じゃあ、ちょっと失礼を」
松田刑事はそう言って、そのカルテを拝借した。それから、吉沢悠馬という名前と彼の住所を自分の手帳に書きなぐり、すぐにそれを店長へ返した。
その美容室を出た後、松田刑事は車を止めた駐車場へと戻った。
瑞希の両親が話していた宏樹の葬式に来ていたというその男の名は、吉沢悠馬だと言うことが分かった。その吉沢の自宅は池尻大橋にあるらしかった。それから、松田刑事は車に乗り、彼の自宅のあるその住所へと向かった。
しばらく車を走らせると、目的の所へと到着した。
目の前にはアパートがあった。どうやら彼はここに住んでいるらしかった。それから、松田刑事は車を止め、そのアパートに向かった。
彼が住んでいるのはそのアパートの二○七号室であった。松田刑事は彼の部屋の前に着くと、早速インターフォンを押した。しばらくして、その部屋から若い男が出てきた。
「はい」
「私、警視庁捜査一課の松田と申します」
松田刑事はそう言って、警察手帳をその男に見せた。
「警察? 何の用ですか?」と、その男は松田刑事に聞いた。
「あなたは吉沢悠馬さんでお間違いないですか?」
「そうですけど。一体何なんですか?」
「それは良かった。実はとある事件であなたにお聞きしたいことがありまして、署までご同行願いたいのです」
「事情聴取ですか?」
「はい。そうです」
「一体僕が何をしたって言うんですか? 第一、その事件ってなんなんですか?」
「大谷宏樹さんという方はご存知ですか?」
松田刑事がそう訊くと、「いや。知らないです」と、彼は答えた。
「じゃあ、早見瑞希さんを知っていますか?」
その後、松田刑事がそう訊くと、吉沢悠馬は意表を突かれたのか黙ってしまった。しばらくして、彼が口を開いた。
「彼女のことは知ってます。大学の時の友人です」
「そうですか」
「はい。彼女がどうかしたんですか?」
「いや、彼女は問題ありません。いや、少々問題が……。」
「問題?」
「はい。今、彼女は行方不明なんですよ。彼女は急に仕事を辞めてしまったらしい」
「仕事って、あの美容室を?」
「ええ。そうみたいです」
「うそ!?」
吉沢悠馬はそれを聞いて、驚いているようだった。
「吉沢さん、あなたは最近、彼女を見ませんでしたか?」
その後、松田刑事がそう訊くと、「いえ。最近は全く見ていないです」と、彼は言った。
「本当にそうですか?」
「本当ですよ」
「あなた、三日前に、大谷宏樹さんの葬式に行きましたよね?」
「え? だから、その大谷ってやつ知らないって。さっき言いましたよね?」
「そこであなたを見たと言っている人がいるんです」
松田刑事がそう言うと、吉沢悠馬ははっと驚いたようで、そのまま押し黙ってしまった。
「あなたを見たというのは、早見瑞希さんのご両親なんです」
松田刑事は話を続けた。
「二人の話ではあなたの他に、もう一人見かけた人物がいました」
「それが瑞希だろ?」
その後、吉沢悠馬がぶっきらぼうに言った。
「そうです。あなたと瑞希さんは彼の葬式で焼香を上げた後、すぐにいなくなったそうですね。一体あなたたちはどちらへ行かれたんですか?」
「俺ンチだよ」
「こちらのアパートにですか?」
「ああ」
「どうして?」
「他に行く場所が無かったからだって」
「どうして彼女は実家に戻らなかったんでしょうね?」
「さあな? 戻りたくなかったんじゃないのか?」
「戻りたくなかった……。ということは、今もこちらに住んでいるんですか?」
「いや、彼女は二、三日、ここにいただけで、しばらくしたらこのうちを出て行ったよ」
「そうですか……。吉沢さん、あなたは最近、彼女に電話しましたか?」
「彼女が出てってから一回電話したんだけど、結局出なかった。それきりですね」
「そうですか……。ああ、そうだ。今回、こうして話を聞いたので、署に来ていただかなくて結構です」
「はあ、分かりました。瑞希は? 瑞希は見つけて下さるんですよね?」
「はい。もちろんです」
「良かった。じゃあ、よろしくお願いします」
「急きょ押しかけてしまい、申し訳ありませんでした。では、失礼……あ、吉沢さん、お手洗いだけお借りしてもいいですか?」
「あ、はい」
その後、松田刑事は靴を脱いで、部屋の中へと入った。
「すみません。えーっとお手洗いはどちらで?」
松田刑事がそう言ってうろうろしていると、「違います。こっちです」と、吉沢がトイレへと案内をしてくれた。早速、トイレに入って用を足す。
それを終えた後、松田刑事はすぐに玄関へと向かい、「では失礼しました」と言って、彼の家を後にした。
その翌日、松田刑事は再び車で吉沢悠馬の住むアパートへ行った。
松田刑事が吉沢の部屋を訪ねようとした時だった。彼の部屋から一人の女性が出てきたのが見えた。
それは早見瑞希であった。
松田刑事はすぐに車を降りて、彼女に接触しようとした。
しかし、それから彼女は赤い自転車に乗って、どこかへ行ってしまった。
彼女はどこへ行くのだろうかと松田刑事は思った。その後、すぐにある場所を思いつく。
彼女はきっとあそこに向かうに違いない、と松田刑事は思った。すぐに松田刑事は車を走らせた。
松田刑事は三軒茶屋のアパートまで来ていた。宏樹や瑞希が以前まで暮らしていたアパートである。松田刑事は早見瑞希がここにいるだろうと思った。
松田刑事は車を降りて、そのアパートの部屋へと向かった。
その部屋へ向かう途中、松田刑事は駐輪場を見つけた。その駐輪場には数台の自転車が止まっていた。その中に、先ほど瑞希が乗っていたであろう赤い自転車がそこにあった。間違いなく彼女のだろう。彼女はここにいるに違いない。
それから、松田刑事は宏樹が殺されたその部屋まで行き、インターフォンを鳴らした。二回目を鳴らすと、しばらくして、その部屋から早見瑞希が出てきた。
「早見瑞希さんですね?」
「そうですが……。」
「私、警視庁捜査一課の松田です」
それから、松田刑事はいつも通りの挨拶をした。
「事件のことですか?」
「ええ。大谷さんが殺された事件で捜査をしていまして、あなたにお話を聞きたくて伺ったところです」
「そうですか。それで、お話って?」
それから、瑞希が訊いた。
「事件当時、あなたはどちらにいましたか?」
「事件当時ですか……。私、三軒茶屋にある美容室にいました。こう見えて美容師なんです」
「そうですか。今もそちらで?」
「ええ、まあ、そうよ」
「そうですか? 実は、事件の後、そちらの美容室にお邪魔したんですが、そこの店長さんからあなたが辞めたとお聞きしました」
「そう……。ええ、辞めたわ」
「どうしてですか?」
「宏樹が死んじゃったからよ……。」
彼女が呟くように言った。
「大谷さんが亡くなったから?」
「ええ。宏樹が死んじゃって、私、仕事もプライベートも手に付かなくなっちゃって、どうしたらいいのか分からなくて。それで、仕事にも行く気になれなくて、しばらくお休みするつもりだったんです。けれど、その後、やっぱり辞めてしまおうって思って……。それで、仕事を辞めたんです」
「そうだったんですか。それはそれはお辛いでしょうね」
「ええ、辛かったわ……。」
「その後、あなたのご両親の情報で、後日、大谷さんの葬儀であなたを見たと聞いていますが、あなたはその葬儀に行かれましたか?」
松田刑事がそう訊くと、「ええ。もちろん行ったわ」と彼女は答えた。「だって、自分の大切な彼氏だもの」
「そうですか。その時の話なんですが、あなたは吉沢悠馬さんと一緒に居たそうですね。大学時代のご友人だとか?」
「ええ、そうです」
「その彼とはどういうご関係なんですか?」
「ただの友達ですよ」
「恋仲だったとかってことはありませんか?」
「いいえ。本当にただのお友達なだけですよ」
「そうですか。あー、そうそう、これは彼から聞いた話なんですが、事件の後、二、三日、彼の家に泊めてもらっていたらしいですね?」
「ええ、そうよ。それが何? 悪いの?」
「いえ。別に悪くはありませんよ。ただどうして、彼の家に泊まり込んだのかなと思いまして」
「それも宏樹が亡くなったから。私の居場所も無くなっちゃったのよ。それにね、実家にいても居心地が悪いだけだろうから帰れなくて、どうしようって考えた時にね、たまたま彼のことを思い出したの。それですぐに彼に連絡したら、いいよって彼が承諾してくれて、私はしばらくそこに居候することにしたわ。彼の他に頼る人がいなかったのよ……。」
「なるほど。その後もその彼の家に?」
「いえ。それからはここにいました」
「本当にそうですか?」
「そうだけど?」
「今日、私は吉沢さんの自宅アパートに行ったんです。彼を訪ねようとして行きました。そしたらちょうどその時、あの家からあなたが出てきたのが見えたんです。その後、あなたは自転車で逃げるようにどこかへ行ってしまった。おかしいと思いませんか?」
「おかしいってどういうこと? 私はただ今日、彼んちに忘れたものを取りに行っただけよ」
「昨日、彼の家に行った時は彼しかいないような感じでしたが、もしかしてあなたはあの部屋にいて、あの時、どこかに隠れていたんじゃないですか?」
「そんなことするはずないですよ! 第一、もしそうしていたなら、その証拠は?」
「証拠はありません」
「何よ? ただの憶測? だったら、そんなこと言わないでちょうだい」
瑞希は怒ったようにそう言った。それから、彼女は黙ってしまった。
「刑事さん」
その後、しばらくして瑞希が口を開いた。「宏樹を殺した犯人はもう見つかったんですか?」
「いえ、それがまだで……。今も探しているところですよ」
「まだ見つかっていないんですね……。亡くなった彼や彼のご両親のためにも早く見つかるといいんですが……。」
「そうですね。それと、もちろん早見さん、あなたのためにも、すぐにでも見つけるつもりですよ」
「どうかお願いします」
「ところで……。」
その後、松田刑事が口を開いた。「早見さん、あなたは風間真央さんという方をご存知ですか?」
「風間真央……。」
「知っておりますか?」
「いや、分からないです」
「そうですか」
「誰なんですか? その風間って人?」
その後、早見瑞希がそう訊いた。
「彼女は大谷さんの知り合いだと言っていました。彼女が第一発見者なんです」
「宏樹の知り合いですか?」
「ええ」
その後、松田刑事は風間真央の自宅へ向かうことにした。彼女の自宅の前で呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてから彼女が出てきた。
「刑事さん!」
真央は松田刑事が来ていたことに驚いたようだった。
「どうなさったんですか?」
「突然、お伺いしてすみません。風間さん、今少しお時間ありますか?」
「ええ。大丈夫です」
「お聞きしたいことが何点かありまして」
「そうですか。良かったら中へ」
彼女はそう言って、松田刑事を部屋の中へと案内した。
「それで? 聞きたいことというのは?」
それからすぐに彼女が聞いた。
「あなたは早見瑞希さんをご存知でしたよね?」
「ええ。大谷君からよく話を聞いていたから」
「そうですか。実は、さきほどその早見さんに会ってお話をしていたんです」
「瑞希ちゃんと? 彼女が見つかったんですか?」
「ええ。そうなんですよ」
「どこにいたんですか?」
「三軒茶屋のアパートです。二人が住んでいた」
「へー。あそこにね」
「はい。それで、彼女にあなたのことを聞いてみたんです。彼女はあなたのことを知らないと言っていたんです」
「そうですか。でも、当然じゃないですか?」
「どうして?」
「私も大谷君から彼女のことを聞かなければ、知らなかっただろうから」
「大谷さんは、彼女である瑞希さんにあなたのことを話していなかった。そう言うことになりますかね」
「ええ。別に話す必要もなかったんじゃない? どうせ赤の他人だし」
「そういうものか。風間さん、これは私の推測に過ぎないのですが、あなたと大谷さんは愛人関係にあった。そうじゃありませんか?」
松田刑事がそう言うと、真央は驚いたような顔をした。それから、すぐに彼女が口を開いた。
「刑事さん、本当にそう思ってるの?」
「いや、ただの推察ですよ」
松田刑事がそう言うと、「そうよ」と、彼女が言った。
「大谷君と私は付き合っていたわ。瑞希ちゃんに内緒でね」
「ああ、そうでしたか。それで、いつから?」
「一年前からよ」
「一年前ね……。」
「ええ」
「そういや、風間さん、あなたには旦那さんがいらっしゃったはずじゃないですか?」
「旦那? あー、そんなこと言ったかしら? でも、本当はいないわよ」
「そうですか。しかし、たしかあなたは妊娠されていますよね?」
「ええ。そうだけど……。」
「それって誰の子どもなんです?」
松田刑事がそう訊くと、「ねえ、刑事さん、誰との子だと思う?」と、彼女が言った。
「もしかして、大谷宏樹さんだったりしませんか?」
「そうよ」
その後、真央は黙ってしまったが、しばらくして、彼女が口を開いた。
「私は彼に子どもができたことを話そうと思っていたの。それから、早見さんと別れてもらいたかったの。それであの日、彼に電話をしたの。けれど、彼は電話に出なかった。その後は、前に話した通りよ」
「はあ、そうでしたか。それは実に可哀想な話です」
「刑事さん、私ね。中絶しようと思っているんです」
その後、真央がそう言った。
「中絶……ですか」
「ええ。今お腹にいる子供には申し訳ないんですけど、父親がいないのも可哀想だと思うんです」
それから、彼女がそう言った。
「はあ」
「それに、正直、今の私に子どもを育てる自信もなくて……。」
「そうですか。お辛いでしょうが、あなたにとって賢明な判断だと私もそう思いますよ」
「そう言っていただけるだけで、私は嬉しいです。どうもありがとうございます」
その翌日、松田刑事は再度、早見瑞希のいるアパートへ向かった。彼女と話がしたいと思っていた。
インターフォンを鳴らしたが、瑞希が出てくる気配がなかった。その後、松田刑事はドアノブを回したが、どうやら鍵がかかっているようであった。
どこへいったのだろうと、松田刑事は考えた。それから、もしかすると彼女は実家にいるのではないかと思い、すぐさま彼女の実家へ向かった。
そこから車で五分程の所に、彼女の実家があった。
松田刑事はその家のインターフォンを鳴らした。しばらくして、「はい」と、瑞希の母親の声がした。
「私、警視庁捜査一課の松田です。瑞希さんはいらっしゃいますか?」
松田刑事がそう言うと、「瑞希はこちらには戻って来てないです」と、インターフォン越しに彼女の母親がそう言った。
「そうですか。分かりました」
松田刑事はそれを言うと、すぐに車に乗った。
実家にも帰っていないとなると、彼女はどこへいったのだろう。もしかすると、吉沢悠馬の自宅に行ったのかもしれない。そう確信すると、松田刑事は急いで車を走らせた。
それから五分程車を走らせて、吉沢の自宅アパートへ着いた。松田刑事は車を降りて、彼の部屋へと向かった。インターフォンを鳴らすと、すぐに吉沢悠馬が出てきた。
「刑事さん」
「これはどうも」
「どうかしたんですか?」
「こちらに早見さんは来ていますか?」
その後、松田刑事がそう訊くと、「いや、来てないけど」と、吉沢は言った。
「本当ですか?」
「はい」
「ちょっとお邪魔させてもらってもいいですか?」
「え? あ、ちょっと」
それから、松田刑事はすぐに彼の部屋の中に入った。早見瑞希がいるかもしれないと思い、松田刑事はその部屋を色々と見て回った。けれど、彼が言った通り、そこに瑞希の姿はなかった。
「言っただろ? 来てないって」
「ええ」
彼女はどこへ行ったのだろう。
ふと、松田刑事はある一人の女性を思い出した。
風間真央だ。
まさかと、松田刑事は思った。本当のところ早見瑞希は風間真央のことを知っていたのではないのか。それで、もしかすると、彼女はそこへ行ったのではないか。
すぐに松田刑事は風間真央の自宅へと向かった。
「風間さん!」
風間真央の自宅へ着いて、松田刑事はすぐに彼女の家の扉を叩いた。
「風間さん、いますか? 松田です。そちらに早見さんは来ていませんか?」
松田刑事がそう言ったが、誰もいないのか返事がなかった。
しかし、その後すぐにその部屋の中でキャーという叫び声が聞こえた。
何だろうと思った松田刑事はすぐにそのドアノブに手を掛けた。ドアノブを回すと、その扉は開いていた。松田刑事は彼女の部屋へ入った。
部屋に入ると、そこに風間真央がいた。
それから、そこに早見瑞希の姿もあった。
見ると、瑞希は床に倒れていた。
それから、真央が包丁を持って、呆然と立ち尽くしていた。
その後、松田刑事はすぐに救急車と応援のパトカーを呼んだ。五分程してから、救急車がやって来た。早見瑞希はその救急車で近くの病院へと搬送された。ちょうど同じころに応援のパトカーもやって来て、真央を警察署へと連れて行く。松田刑事も自家用車で警察署へと戻った。
警察署に着いて早速、真央は取調室へと通された。そこで、別の男性の刑事がその時起きた出来事を彼女に訊いた。松田刑事はその部屋で彼女の話を聞いていた。
真央の話によると、一時間ほど前に、早見瑞希が彼女の家にやって来たのだと言う。どうやら瑞希は真央の自宅を知っていたらしかった。
瑞希が自分の自宅を知っていたことで、真央は怖いと思った。その後、瑞希は大谷宏樹のことで話があると真央に言ったという。真央も彼のことで瑞希に聞きたかったことがあったので、ちょうどいいと思った真央は瑞希に話を聞く。
「二人で宏樹のことを話していた時よ。彼女が急にね、台所に行って、包丁を持ってきたの。それから、私にそれを突き付けて、殺すわよって言ったのよ」
「殺すと」
「ええ。私は怖くなって、辞めてちょうだい! って叫んだの。そしたら、彼女が本当に包丁を振り回すものだから、私は急いでそれをやめさせるために腕を掴んで、捻るようにしたの。すると、彼女は力が尽きたようで、その手から刃物をするりと落としたわ。今度、私がそれを拾って、彼女に突き付けたの。彼女が『殺せるものなら、殺してみなさい』って言ったもんだから、私も同じように刃物を振り回した。ちょうどその時よ、松田刑事が来たのは。松田刑事が扉を叩いて、声がしたの。その後、彼女がキャーって叫んだ。それから、松田刑事が部屋に入って来たってわけ」
「なるほど」と、その刑事が言った。なるほど、と松田刑事も思った。
「風間さんは、早見さんを殺そうと思っていたのですか?」
その後、その刑事がそう訊いた。
「いえ。私は瑞希を殺そうと思っていたわけじゃないんです。包丁を持っていたのは、正当防衛のためなんです」
「そうですか」
「はい」
その後、しばらくしてから再び彼女が口を開いた。
「彼女は私のことを恨んでいたと思うんです」
「あなたを? どうして?」
それから、松田刑事が彼女に訊いた。
「だって、私は彼女に内緒でこっそり彼と付き合っていたんです。彼は浮気をしていたんですよ。それに、前にも話したかもしれませんが、私のお腹の中には彼との子どももいたんです。付き合っていた彼氏に他の愛人がいるなんて、ひどい話じゃないですか。その上、愛人に彼の子どもがいるとなれば、許せない話ですよね」
彼女はにこりと笑いながらそう言った。
「ええ。本当に可哀想な話だと思います」
松田刑事がそう言うと、「そうよね」と、真央が言った。
「でもね」
それから、真央が再び口を開いた。「彼女もひどいのよ」
「彼女も?」
「ええ。彼女も彼と付き合っているにもかかわらず、別の男と浮気していたみたいなの」
「浮気? 別の男って?」
松田刑事がそう言うと、「松田刑事も知っている人よ」と、真央が言った。
もしかしてと思い、「吉沢悠馬か?」と訊くと、「ええ」と、真央は答えた。
翌日、松田刑事は早見瑞希の様子が気になり、彼女の居る病院へ行くことにした。
彼女の病室へ入ると、彼女はベッドから体を起こしていた。それから、そこには彼女の両親がいて、どうやら面会に来ていたようだった。
その後、松田刑事に気づいた二人が挨拶をしたので、松田刑事も二人に挨拶をした。
それから、今度、松田刑事は起きている瑞希に今の体調を訊いた。
「今はだいぶ落ち着いています」と、彼女は答えた。
そうか。なら良かったと、松田刑事は思った。
「瑞希さん、退院したら、事件のことでお話があります」
帰り際、松田刑事がそう言った。
「事件のことですか?」
「ええ」
その後、すぐに瑞希は「分かりました」と返事をした。
それからその二日後、瑞希は退院をしたらしい。「今は実家にいます」と、彼女の母親から連絡があった。早速、松田刑事は車を飛ばして、瑞希の実家へ向かった。
「刑事さん、それで事件のことでお話しというのは?」
リビングのソファに座って話を聞こうとしている瑞希の父親がそう訊いた。その隣に瑞希と彼女の母親も座って、松田刑事の話を聞こうとしていた。
「ええ、それなんですが。もう少し待っていただけますか?」
その後、松田刑事がそう言った。
「もう少し待つって?」と、再び彼女の父親が訊いた。
「この話をするために、ここへ後二人の人物をお呼びしているんです」と、松田刑事が言った。
「二人? 誰なんだ?」
「風間さんという女性と吉沢さんという男性です。もうすぐ来ると思います。奥さん、もし二人が来たら、中へ入れて下さい。全員が揃ってから、お話をさせて下さい」
松田刑事がそう言うと、「ええ。分かりました」と、瑞希の母親が言った。
それから、五分後に風間真央が瑞希の実家にやって来て、それからもう五分してから、吉沢悠馬がそこへやって来た。
「これで全員揃いましたね。それでは、今回の事件についてお話させていただきます」
松田刑事はそう言って、話を始めた。
「まずは事件当時のことから。この事件の第一発見者は風間さん。あなたでしたよね?」
松田刑事は風間真央に訊ねた。
「はい」と、真央は答えた。
「その時、そのアパートには誰もいなかったんですよね?」
「そうです」
「そこに住んでいたのは大谷宏樹さん。彼には彼女がいた。瑞希さん、それがあなたですよね?」
それから、今度、松田刑事は早見瑞希にそう訊いた。
「ええ。そうよ」と、瑞希は答えた。
「風間さん、あの日、あのアパートにはどうやって入ったんですか? 管理人さんに鍵を借りて入ったのでしょうか?」
「いえ。そうじゃありません。あの日、ドアが開いていたんです」
「ドアが開いていた。じゃあ、鍵がかかっていなかったということですね?」
「そうだわ」
「その後、中へ入ったら、大谷さんが倒れていたのを目撃したということでお間違いないですか?」
「そう言ったでしょ?」
「ええ。では、その時、その部屋は他に誰かいましたか?」
「いいえ。誰もいなかったわ」
「じゃあ、大谷さんが倒れていただけということになる」
「ええ。そうね」
「では、今度、瑞希さんに質問です。あの日、どちらへいたんですか?」
「どこって、仕事で職場にいましたよ。あの日、店長もいたから、店長に訊けば『いた』と証言してくれるはずよ」と、瑞希が答えた。
「ええ。店長さんから聞きました。あなたはあの日、出勤していたと」
「そうでしょ?」
「ええ。じゃあ、朝はどちらへ?」
「朝? 朝ならあの家にいたわ。その日も仕事だったから、いつも通り朝起きて仕事へ行く準備をしていたのよ。あの日、私が準備していた時、宏樹はまだ寝ていたわ」
「本当ですか?」
「本当よ!」
「瑞希さん、実は毎朝、あなたをお見かけしている人がいるんです」
「毎朝? 誰です?」
「あのアパートの大家さんです。普段、その大家さんは朝、お仕事に行くあなたを見ていたそうです。しかし、事件当時の朝、いつもの時間にあなたを見なかったと仰っているんです。どちらにいたのでしょう?」
「それは……。事件前日の夜、私は友達の家に泊まりに行っていたわ。宏樹にもそれは言ってあったわ」
「そうですか。じゃあ、前日まで宏樹さんは生きていたということになる」
「ええ。宏樹と話したわ」
「あなたが外出する際、宏樹さんはいつも鍵を開けっ放しにしているんですか?」
「いいえ。鍵は閉めていると思います」
「そうですか。しかし、翌朝、事件があったあの日、あの部屋の鍵は開けっ放しになっていた。ということは、誰かがあの部屋の鍵を開けて、彼を殺したと考えられます。すると、あの家の鍵を持っているのは、瑞希さん、あなたくらいでしょう」
「待って。私は鍵を持っているけど、違うわ。だって、あの日、私はあの家へ戻っていないもの。そのまま職場へ行ったわ」
「はあ、そうですか。となると、瑞希さんが仕事へ行った後に宏樹さんは誰かしらに殺害されたということになる」
「ええ、そうだわ」
「それともう一つ。大家さんの話によれば、いつも朝は宏樹さんより、あなたの方が先に出るそうですね?」
「ええ。そうよ。私が先に出るから、鍵は最後に宏樹が掛けるの」
「そうですか。風間さん、あなたは宏樹さんが最後に鍵を掛けるってことご存知でしたか?」
それから、松田刑事は風間真央にそう訊いた。
「いいえ。初めて聞きました」と、真央は答えた。
「そうですか。ところで、吉沢さんはこのことは知っていましたか?」
今度、松田刑事は吉沢悠馬に訊いた。
「いえ。全く知らないです」と、吉沢は答えた。
「そうですか。となると、瑞希さん、あなたしか知らないことになる」
「嘘よ! この二人、絶対はぐらかしてるわ」
「どうしてです?」
「だって、私が仕事に行っている間に宏樹が殺されているんですから、私ができるはずないじゃないですか?」
「ええ。そうとも考えられます」
「となると、ふたりのどっちかよ!」
「ええ。そうとも言えます。しかし、二人にもアリバイはあります」
「アリバイ?」
「まず吉沢さん。あの日のあの時間は会社にいたそうですね」
「はい。そうです」
「会社の方が証言してくれています」
「そうですか」
「次に風間さん。風間さんもあの日、宏樹さんの会社に電話をしたと言っていましたね?」
「ええ。彼が来ているかどうか確認するために電話したのよ」
「そうでしたね。あなたが電話したのも彼の会社の電話にその通話記録が残っていました。それに会社の方もあなたと話したことを覚えていました」
「良かった」
「となると、残るのは瑞希さん、あなただけです」
「そんな……。」
「瑞希さん、あなたは先ほど、事件当日に職場にいたと仰っていましたね? しかし、あなたは仕事を辞めていましたよね? だから、あの日、職場にいないはずです。本当はどちらにいたんですか?」
それから、松田刑事がそう訊くと、瑞希は「吉沢くんの家よ」と、あっさりと認めた。
「吉沢さんの自宅ですか?」
「ええ」
「その時、どうやって彼の家へ入ったんですか? 彼はお仕事で家にいなかったはずですよね?」
「合鍵です」
その後すぐに吉沢悠馬がそう言った。
「合鍵ですか?」
松田刑事が訊くと、「そう」と言って、瑞希がその鍵を見せた。
「彼からこの合鍵を借りていたの。たまに私ね、彼の家に泊まりに行っていたんです。あの日、私が事件のことを話したら、彼がしばらく家にいてもいいって言ってくれたのよ。だから、その日は彼の家にいたのよ」
「そうですか」
「話は代わりますが、瑞希さん、あなたは以前お話しした時に、風間さんのことを知らないと言っていましたよね?」
「ええ」
「では、どうしてついこの間、彼女の家に行ったんですか? あなた、本当は知っていたんじゃありませんか?」
松田刑事がそう訊くと、彼女は黙っていたが、しばらくしてから「ええ」と頷いた。
「知ってたわ……。知っていたというより、調べたと言う感じよ」と、瑞希が言った。
「どうやって?」と、松田刑事が訊いた。
「宏樹の携帯に風間真央という女性から着信が入っていたのを見ちゃったの。それで、私は彼がいない所で彼の携帯を覗いたの。そしたら、携帯のメモにその名前と住所も書いてあった。私はそれを見つけて、その女に会いに行くしかないって思ったの」
「それで、風間さんの家に行ったんですね」
「そうよ。本当は彼女を殺すつもりだったわ」
「殺すって、本当に言ってますか?」
「本当よ」
「どうしてです?」
「だって、宏樹の浮気相手だもの……。」
「そうなんですね。私も風間さんから直接聞きました」
「本人から? 直接?」
「ええ。本人も認めています」
「そう……ですか」
「そうなると、これは私の推理なんですが、あなたは宏樹さんが風間さんと浮気をしていたために、それに嫌気が差して宏樹さんを殺してしまった、そうではないですか?」
松田刑事がそう言った。
「刑事さん、ちょっと待って!」
その後、風間真央が口を挟んだ。「瑞希が家にやって来たあの日、彼女に吉沢くんのことを聞いたら、瑞希、彼と付き合ってるって言っていたわ」
「あれ? そうなんですか?」
「ええ。そう聞いたわ」と、風間真央が言った。
「瑞希さん、それは本当ですか?」
松田刑事がそう訊くと、「いいえ」と、瑞希は頑なにそう答えた。
「おい、瑞希!」
しばらくして、吉沢悠馬が口を開いた。
「刑事さん、実は僕たち付き合っているんです」
それから、吉沢が正直にそう言った。
「悠馬、何言ってるのよ!?」
その後、瑞希は吉沢にそう言った。
すると、吉沢は「本当のことだろ? 正直に言わせてくれ」と、瑞希に言った。
「分かったわ。ええ、私たちは付き合っていたわ。宏樹に内緒で」
その後、瑞希がそれを認めた。
「そうですか。因みに、宏樹さんにそのことはばれなかったのでしょうか?」
「ばれなかったといったら、嘘になる」
「となると、あなたも宏樹さんもどちらとも浮気をしていたということになる」
「そうね」
「そうなると、瑞希さんが殺したとも言い切れない……。」
「証拠はないの?」
その後、風間真央が松田刑事に訊いた。
「決定的な証拠は一つだけあります」と、松田刑事は言った。
「その証拠って?」と、瑞希が言った。
「鑑識の調査によると、殺害現場にあった包丁には指紋が付いていなかったようなのです。ということは、犯人が宏樹さんを殺害した後に、その指紋を拭き取ったと言うことになる」
松田刑事は淡々と説明した。
「風間さんと吉沢さん、持ってきたハンカチかタオルをお見せ頂けますか?」
それから、松田刑事がそう言った。二人には今日、最近使ったハンカチかタオルを何枚か持ってくるように言ってあった。
「それから、瑞希さん。あなたもお願いします」
その後、松田刑事がそう言った。
「分かったわ」
瑞希はそう言って、部屋からカバンを取りに行った。
瑞希がリビングに戻って来た後、風間真央がカバンから一枚のハンカチを取り出した。それは、白と黒の猫が四、五匹いる茶色いハンカチだった。
その後、瑞希がカバンからハンカチを取り出した。ピンクの花柄のハンカチだった。
それから今度、吉沢悠馬がポケットからそれを取りだした。見ると、それは青いチェックのハンドタオルだった。
それから、松田刑事は一人一人のそれを借りて、じっくりと見た。血痕のようなものはあるかを見たが、全てそれらしきものはなかった。
「この一枚だけですか? 他にカバンなどにはないですか?」
松田刑事がそう言った後、三人は他にあるかどうかを探した。
それから、風間真央はなかったようで、「ない」と言った。吉沢悠馬も持っていないようだった。
瑞希はカバンから一つ一つものを出して探していた。その時、そのカバンの中から黒色のタオルが出てきた。
松田刑事は、一度それを見せてもらった。見ると、そのタオルに血痕のようなものが付いていた。指紋を拭き取ったのは、おそらくこのタオルで間違いないだろうと松田刑事は思った。
「このタオルは瑞希さんのもので間違いないですか?」
「ええ。そうよ」
「そうですか。犯人は、瑞希さん、あなたで間違いありません」
それから、松田刑事がそう言った。
「証拠は?」
「証拠はこちらのタオルです。あなたは宏樹さんを殺害した後、このタオルで包丁の柄の部分の指紋を拭き取った。そうじゃありませんか?」
「どうしてそうだと思うの?」
「こちらのタオルに血痕があるからです。指紋だけ拭き取ったつもりが、包丁に着いた血まで拭き取ったのでしょう」
「それが宏樹の血だと言うの? 別の人の血かもしれないでしょ?」
その後、瑞希がそう言った。
「そうかもしれませんね。ですから、後日、こちらのタオルに着いた血痕を鑑定します。もし宏樹さんの血液と同じなら、間違いなく指紋を拭き取ったタオルと言えるでしょう。こちらのタオルを一度、お預かりしてもよろしいですか?」
「別にいいけど……。」
「犯人は瑞希さん、あなたで間違いないでしょう」
それから、松田刑事がそう言った。
「どうして?」
「事件前日の夜、あなたと宏樹さんはいつものようにあのアパートにいた。普段どおり生活していたはずです。その日、最初は普通に話していた。しかし、その後、宏樹さんにこういわれたんじゃないですか? あなたは浮気をしていると。彼にそのことが見破られてしまったあなたは困ってしまった。その後、あなたはしていないとずっと言っていたかもしれません。しかし、彼も絶対しているだろと言ってくる。それから、あなたは一人の女性を思い出したはずです。それは風間真央という女性です。彼女は宏樹さんの浮気相手だということをあなたも知っていた。だから、あなたも彼に言ったんじゃないですか。あなただって浮気をしているでしょと。当然、彼もしていないとはぐらかしたかもしれません。そのうちに、そのことで喧嘩になった。その後、彼があなたを殺したいくらいの気持ちになってしまい、包丁を手に取った。あなたは殺されると思い、その包丁を奪おうとした。しかし、いくら頑張って取り返そうとしても、中々彼からその包丁を取り上げることができなかった。だから、彼を止めるためにも殺してしまおうと思った。正当防衛として。その後、あなたは鍵も掛けずにそのままあの家を出ていった。そして、その夜、あなたは吉沢さんの家へ行って、一晩泊めてもらった。だから、翌朝、大家さんがあのアパートからあなたを見かけなかった。そうじゃありませんか?」
松田刑事がそう話すと、「ええ。その通りよ」と、瑞希が言った。
「事件前日の夜よ。あの日、最初は宏樹と話をしていたわ。けれど、その後、急に彼がその話をしたのよ。それで口論になったわ。その後、宏樹がキッチンから包丁を持ってきて、私を殺そうとしたの。宏樹がそんなことをするから、怖かったわ。私は殺されると思った。宏樹が私を刺そうとした時、私は反射的になったの。気づいたら私、彼を殺していたの。彼を殺すつもりはなかった。自分の身を守るためよ。アパートの鍵が開いていたのは、私がそのまま出たからよ。その後は、悠馬に電話して、その日、一晩泊めてもらったわ。その後、結局何日かその家にいさせてもらっていたわ」
「やはりそうでしたか」
「ええ」
「早見瑞希さん、詳しい話は警察署でお聞かせ願いますか?」
「はい」
その後、松田刑事はパトカーを呼んだ。五分程して、一台のパトカーが彼女の家にやって来た。
「さあ、行きましょう」
松田刑事はそう言って、玄関に来ていたパトカーに早見瑞希を乗せた。
「皆さん、今回の事件で色々とご心配をお掛けしました。もう結構です」
その後、松田刑事はそこにいた早見瑞希の両親や風間真央、そして、吉沢悠馬に声を掛けた。
そこで瑞希の母親が泣いていた。その隣で父親が彼女を慰めるようにして寄り添っていた。風間真央と吉沢悠馬は松田刑事が話し終わると、そそくさと帰ってしまった。
松田刑事は、少しの間、彼らの様子を見ていた。その後しばらくしてから、外に止まっていたパトカーに乗り込んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
幼馴染カップルってなんか羨ましいですよね。
今回、初めてミステリーを書いてみました。作者はミステリー小説が好きです。今回、初めてということで、正直に書くのが難しかったです。ミステリー小説としてはまだまだだと思います。どうぞお手柔らかにお願いします。それでも、楽しんでいただけたのなら幸いです。
感想やコメントなどお待ちしております。