悪夢 3
あんな恐ろしい目にあったのだから、当分は夢を見たくはないと思うのは当たり前だ。しかし、疲れが溜まれば溜まるほど、眠気に襲われるのも当然のことだ。全速力で疾走した短距離マラソンの威力は絶大で、雷はあっという間に眠りについてしまった。
もはや見慣れてしまった湖のほとりに、雷は立っていた。
湖は、今は静かで、波一つ立っていない。林の中もしんとして、何の気配もない。けれど、それでも夢の中は充分不気味だった。
身を隠すべきか…。
一瞬迷ったが、下手に林に入るのは危険だ。そう考え直して、雷は首を振った。
大丈夫だ。ここでじっとしていれば、いつか朝になって、この不気味な夢から抜け出すことができる。
雷は、湖が穏やかなことをもう一度確認すると、いつものように、水際に腰を下ろした。何か変化があれば、すぐにでも対応できるように、神経を尖らせる。
しかし、集中力は長くは続かなかった。気がつけば、いつの間にかいろいろなことを考えてしまっていた。どうして、こんな夢を見るのか。こんな夢を見る原因は何なのか。それから、彰のこと…。
いろいろな考えに気をとられ、雷はつい、ぼんやりしてしまっていた。
かさり、と枯葉の擦れるような音がした。雷ははっとして立ち上がり、辺りを素早く見回した。湖にも林にも、何の変化も見られない。気のせいだろうか。雷は、再び腰を下ろし、目を閉じた。
大丈夫。何も起こりはしない。何もないまま朝が来て…。
その時だった。
雷の望みを裏切るかのように、夢に変化が起きた。
目を閉じて、身動き一つしなかった雷の耳に、今度こそはっきりと、物音が聞こえたのだ。音は規則正しく、一定のリズムで、徐々に大きくなってくる。
足音だ。気付いた途端、背筋が凍りついた。
雷は素早く立ち上がり、霧に隠れた林の奥を睨みつけた。
足音は、林の奥から聞こえてくる。ゆっくりと、確実に、雷に向かってくる。それは、疲れきった老人のような、重苦しい足音だった。
その足音に混じって、何かを引きずるような音が聞き取れる。木々の根にぶつかって、からんからんと軽い音を立てるそれは、紛れもなく金属製の何かを引きずる音だった。
逃げるべきか、身を隠すか。
しかし、恐怖で体が動かない。雷は息を殺し、足音が遠ざかってくれることを祈った。だが、足音はまっすぐに雷に向かってくる。まるで、この霧の向こうから、雷の姿を見ているかのように。
足音は少しも乱れることなく淡々と雷に近付き、やがて真っ白な霧の中に、ぼんやりと黒い人影が浮かび上がった。人影は、ゆっくりと霧の中から姿を現した。
林の中から出てきたのは、真っ黒な外套に身を包んだ大柄な人物だった。足元まですっぽりと包む外套の裾は、擦り切れてぼろぼろ。あちこちに泥や、血のようなシミができている。フードをしっかりとかぶり、下を向いているせいで、顔は見えない。そして。
雷の目は、男の手の中の、長い棒状のものに釘付けになった。長い、艶のある柄の先に、大きな金属の刃が取り付けられている。大鎌だ。
林から出てきたのは、誰の目にも明らかな、死に神だった。死に神が、ゆっくりと顔を上げた。外套のフードの陰から、凶悪な光を放つ目が、雷を見た。
雷は息を呑んで、思わず一歩、後ずさった。湖の中に足が入り、かすかな水音が立った。
次の瞬間、何かが足首に絡まるのを感じた。
「……ひっ!!」
恐る恐る足元を見ると、真っ赤に濁った水の中から、赤く染まった人の腕が何本も伸びて、雷の両足を掴んでいた。
死に神が、笑った気がした。
「うわあぁぁァァアアァァアアアっ!!」
雷は必死で叫ぶと、足を掴む手を振り切って走り出した。
林の中に逃げ込み、前も見えない霧の中を無我夢中で疾走する。
後ろからしゅるしゅると音を立てて、あの腕が雷を追いかけてくる。死に神も、先ほどまでの重い足取りが嘘のように、軽やかに地面を蹴って追いかけてくる。その口から、獲物を見つけた嬉しそうな声が上がる。
赤い腕が雷の肩にかかった。それを振り払った瞬間、別の腕に足首を掴まれ、雷は顔面から地面に突っ込んだ。必死で足に絡みついた腕を振りほどこうともがくが、湖から伸びた赤が次々に雷の動きを封じていく。
ずるり、と湖の方に引きずられる感覚がした。
目の前には、振り下ろされようとしている大鎌。
死ぬ…。
そう思った瞬間、視界の端に、赤でも黒でもない色彩が映った。林の霧の中から、ベージュ色の何かが飛び出して、死に神の腕に噛み付いたのだ。
それは、犬のぬいぐるみだった。薄茶色の、布でできたぬいぐるみ。大きな目と、短い手足。茶色の尻尾も短い。
死に神は、鎌を振り下ろすのを中断し、噛み付いた犬を必死で振り払おうとしている。どうしてぬいぐるみが動いているのか謎だが、これは夢なのだ。何が起きたって不思議ではない。
雷は急いで絡みついた赤い腕を払いのける。
ちょうど同じタイミングで、死に神がぬいぐるみを地面に叩きつけた。
雷は、ぬいぐるみを拾い上げ、林の中を必死で走り出した。後ろから、死に神と赤い腕が、まだ追いかけてくる。
「しつこいなッ」
雷が毒づいた途端、ぬいぐるみの犬が、後ろに身を乗り出した。
「おい…」
落ちるぞ。そう言おうとした瞬間、ぬいぐるみが何かを吐き出す仕草をした。途端に、ものすごい風が起こり、辺りの霧を吹き飛ばしながら、追跡者たちに襲い掛かった。
振り返ると、死に神も赤い腕も、湖の方へ吹き飛ばされていくのが見えた。ものすごい威力だ。
「ナイス」
今のうちに、逃げないと。雷は、ぬいぐるみの頭を撫でると、再び全力で走り出した。ガサガサと、枯葉が大きな音を立てる。
霧はどこまでも続いているようだった。しかし、雷の足元の大地は途中でぷつりと途切れていた。
走り続けていた雷の目の前から突然地面が消え、代わりに霧の中から崖が現れる。雷は慌てて足を止めた。
ぎりぎり、まさにがけっぷちのところで、何とか止まることができた。もう少し反応が遅かったら、まっさかさまに落ちるところだった。
「あっぶね……」
崖の下は霧が立ち込めていて、どのくらい高いのかはわからない。しかし、落ちたら間違いなく命はなかっただろう。
そのとき、後ろから再び足音が聞こえた。死に神だ。もう、追いかけてきたのか。
どちらに逃げたらいいのかわからず、雷はきょろきょろと辺りを見回した。そのとき、声が聞こえた。
「あっち、あっち」
声は、雷の腕の中から聞こえた。雷が視線を向ける。ぬいぐるみの口が、声にあわせて動いている。
ぬいぐるみが、喋っている。
「おまえ、喋れんのか?」
「あっち、あっち」
ぬいぐるみは、短い右腕を必死で動かしている。右に行け、という意味だろう。
「あっちに行けば助かるんだな!?」
雷はぬいぐるみの示す通り、崖沿いに右の方向へ向かった。
相変わらず、前方は霧と突然現れる木ばかりだ。またいつ崖に突き当たるかわからないせいで、走る速度は自然と遅くなる。後ろから足音と、しゅるしゅるという物音が追いかけてくる。
「本当にしつこいって」
雷が前をみたまま、叫ぶように言った。ぬいぐるみが慌てたように、両手を振り回している。
「早く、早く」
「わかってるって」
そう言った瞬間、再び腕が足元に伸びてきた。
「同じ手ばっかだぞ」
足をとられる前に、飛び上がってかわす。しかし、別の腕が雷の抱えたぬいぐるみを取り上げた。
「あっ」
思わず足を止めて振り返った瞬間、後ろから迫っていた手に、再び捕まってしまった。
しまった。
反射的にそう思った。今度こそ、絶体絶命だ。もう、助けは期待できないだろう。
死に神が、嬉しそうに近付いてくる。ゆっくりと雷の前に寄り、大鎌を振り上げる。刃がぎらりと光った。
そのとき、赤い腕に捕まって、宙吊りにされているぬいぐるみが、嬉しそうに声を上げた。
「みずは、みずは」
「みずは…?」
雷が呟いた瞬間だった。
突然、雷とぬいぐるみを掴んでいた無数の腕が、途中からすっぱりと切れて、赤い霧となって消えた。ぬいぐるみが地面に落ちた。
死に神は突然の事態に戸惑ったように、鎌を振り上げたままの格好で固まっている。
気がつくと雷の目の前に、人影があった。
雷と同じくらいの年齢の、女の子。長い黒髪の下で、赤い瞳が光っていた。体のラインにぴったりと合う黒いコートに、黒いパンツ。その右手に握られているのは、なぜか日本刀。
「みずは」
ぬいぐるみが嬉しそうに言った。みずはって、彼女のことか?
そのとき死に神が、我に返ったように、みずはに向かって鎌を振り下ろしてきた。みずはは地面を蹴って飛び上がり、死に神の背後に降り立った。すごい跳躍力だ。普通の人間ではあんなふうに跳べない。
死に神は、振り下ろした鎌をすぐさま自分の背後に向けて振り回した。
みずはは、それも後ろに跳ぶことで回避した。死に神は引き際を感じ取ったのか、身を翻した。地面の上を滑るように走って、やがて霧の中に消えた。
雷は疲れきって、その場に座り込んだ。情けないな、と思ったが、それ以上何もできなかった。
「みずは、みずは」
ぬいぐるみが、みずはの元に駆け寄っていく。彼女はそれを抱き上げると、雷の元に歩み寄った。
へたり込んでいる雷を見て、口元を緩める。
「……大丈夫?」
落ち着いた感じの、静かな声だった。雷は口を開くが、言葉がなかなか出てこなかった。頭が混乱して、何も考えられなくなっている。
「大丈夫。ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
そのとき、遠くで聞き覚えのある電子音が鳴り始めた。目覚まし時計のアラーム。
ようやく、夢から抜け出すことができる…。
「…これ、あげるわ」
みずはが、何か、紙切れのようなものを差し出した。
「……?」
それを受け取った瞬間、雷は目を覚ました。
ベッドの上に跳ね起きると、いつものように、晴れた朝だった。しかし、夢の内容があまりに印象的すぎて、目を覚ましたという実感が沸いてこなかった。雷は、ベッドの上に座り込んだまま、ぼんやりと宙を見つめていた。
眠っている間に、手にはじっとりと汗をかいていた。頭がひどく痛む。さっきまで見ていたものが、本当に夢だったのか、疑わしく感じた。どこまでが夢で、何が現実なのか、判断がつかない。
とにかく、顔でも洗って来よう。そう思って立ち上がったときだった。足元に紙切れが一枚、ひらりと落ちてきた。拾い上げてみると、貘という文字が目に入った。雷は、紙に書かれた文章を、口に出してみた。
「あなたの悪夢、解決します。占い館、貘」