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  作者: あおいさかな
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悪夢 2

 水面で、魚が跳ねるような音がした。驚いて目を向けると、風もないのに湖が波立っていた。雷は反射的に立ち上がった。

 まずい。ここから離れないと……。

 しかし、林にかかる深い霧に、一瞬足が止まる。背後では、湖がザワザワと騒いでいる。目を向けると、さっきより少しだけ波が高くなっているような気がした。

 だめだ。迷っている暇はない。雷は一人、首を横に振ると、霧の中へと走り込んだ。

 林の中に一歩踏み込むと、あっという間に周囲が見えなくなった。前後も左右も、下手をすると上下さえもわからなくなりそうな感覚だ。下を見ても、自分の足が見えない。地面も見えないせいで、宙に浮いているような錯覚に襲われる。

 とにかく、湖から離れないといけない。

 雷は一歩、前に踏み出した。途端に霧の中から、大きな木が現れる。一歩進むたびにまるで雷の邪魔をするかのように、次々に木々が立ちふさがる。ぶつからないように、両手を前に突き出し、手探りをするように小走りに進む。

 地面には落ち葉が積もっているのか、がさがさと派手な足音が辺りに響いた。

 しまった。

 雷は慌てて立ち止まる。足音は止んだが、夢に潜んでいるモノに聞かれたかもしれない。不安に心臓がばくばくと鳴った。もしかしたら、この心臓の音さえも聞かれているかもしれない。

 雷は神経を研ぎ澄ませて、辺りの様子を探ろうとした。しかし、自分の鼓動が邪魔で、他の音が聞こえない。どこからか、強い視線を感じた。気がした。

 とにかく、身を隠さなくてはならない…。

 雷は必死で辺りを見回した。この霧では、どちらに進んでいいのかわからない。第一、足音を立てずに枯葉の上を進むのは、凡人の雷には不可能だ。

 そのとき、先ほどまで自分の行く手を邪魔していた木々が目に入った。あれこれ考えるよりも早く、雷は木に登り始めていた。梢の枝の間に身を隠したとき、遠くから枯葉を掻き分ける音が聞こえてきた。

 雷は荒くなった息を必死で押し殺しながら、地面に目を向けた。

 がさり。がさり…。

 音の主は少しずつ、ゆっくりと雷に近付いてくる。その遅いスピードが、更に不安を掻き立てる。夢の中だというのに、緊張で汗が噴出すのを感じた。思わず、これが夢だったらいいのに、とくだらないことを考えてしまう。夢だったら、ではなく、これは夢だ。史上最凶の、最悪の夢。逃れる方法もわからない。

 いっそのこと、見つかってしまえばいいかもしれない…。

 ふいにそんな考えが頭をよぎった。いっそ、この夢を徘徊している何かに見つかってしまえば。そいつに出会って、やられてしまえば、もしかしたらこの夢は終わるんじゃないだろうか。

 必死で木の幹にしがみついていた腕が、わずかに緩んだ。音はゆっくりと、近付いてくる。

 がさり。がさり。がさり…。

 相変わらず続く不気味な音に、雷は我に返って、幹から離れそうになっていた腕に力を入れた。

 だめだ。あれに見つかったら、夢が終わるどころか、ゲームオーバー。最悪の事態が待っているだけだ。

 根拠はないが、なぜか、そう思った。

 そのとき、雷の眼下に音の主が姿を現した。

 ほんの少し先も見えない、深い深い霧の中だというのに。地面からずいぶん離れた梢の上だというのに。雷の目にはなぜか、地面を這うようにして進むモノの姿が、はっきりと見えた。

 それは、サルのような生き物だった。血にぬれたような、真っ赤な、サル。ただし、人と同じくらい大きくて、不気味なほどに痩せていた。

 その化け物が、辺りを見回しながら、霧の中を這い回っている。化け物は、やがて雷の真下にさしかかった。早く通り過ぎてくれ、という雷の願いとは裏腹に、化け物は木の根元で何かを感じたのか、足を止めた。

 まさか、登ってきたりしないだろうな。恐怖で手が震える。悲鳴が出そうになるのをなんとかこらえながら、雷は見つからずに済むことを祈った。

 化け物はしばらくの間、訝しげに木の周りを探っていたが、やがてゆっくりと進み始めた。安堵の息をつきそうになって、雷は慌てて息を飲み込んだ。

 がさり。がさり…。

 来た時と同じ速度で、音が遠ざかっていく。少しずつ、少しずつ、音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 やっと、行ったか。雷はほっと息をつく。しかし、あの化け物が戻ってくる可能性は捨てきれない。

 雷は、木の上から降りることもせず、不安定な木の上で、朝が来るのを待った。




 目覚まし時計のアラームは、それほど待たずに雷の耳に届いた。気がつくと、いつものようにベッドの上にいた。朝を迎えることができたのが奇跡のように感じた。

「雷、大丈夫?顔色、悪いわよ」

 昨日と同じように朝食の支度をしていた母が、心配そうに声をかけてくる。

「夢見が悪かっただけだよ」

「夢見が悪いって……。疲れているんじゃないの?」

 俺も最初はそんなふうに思ってたんだけどさ。ぼんやりと考える。ここまで来ると、あの夢は、疲れのせいだとは思えない。もっと別の原因があるような気がする。

 授業には、全く身が入らなかった。寝不足で、頭がぼーっとしている。あくびが何度も出て、講師に何度も睨まれた。机に頬杖をついて、黒板に書かれていく内容に、何とか集中しようと努力する。眠ってはいけない。しかし、少しでも気を抜くと、黒板の文字が歪んで消えていく。

 眠りたくはなかったのに、いつの間にか目の前にあの湖と林が広がっていた。どうやら、机に突っ伏したままで、眠りについてしまったようだ。授業時間はあと何分だっただろうか。

 ふと、湖に目を向けると、水面がゆらゆらと波立っていた。波の間を、指のようなものが浮いたり沈んだりしている。

 まずい、逃げなきゃ…。

 雷は迷わず、林に逃げ込んだ。湖から離れたところで足を止め、近くの木に登る。辺りは相変わらず濃い霧に覆われて、見えない。

 がさり、がさり。

 また、あのサルだ。ゆっくりと、ゆっくりと音が近付いてくる。雷は、しっかりと目を閉じ、必死で息を殺した。

 大丈夫だ。見つかったりはしない。あのサルの化け物は、下を通るだけだ。息を殺して、物音さえ立てなければ、見つかることはない。

 がさり、がさり。

 赤いサルが、近付いてくる。

 がさ…。

 物音が、止まった。辺りがしんと、静かになる。化け物が、木の下にいる。目を開けることもせず、雷は、化け物が早く立ち去ってくれることを祈った。しかし、足音は聞こえない。

 まだ、木の下にいるのだろうか。不安が募ってくる。

 何か、強い視線を感じる。

 目を閉じていることが、だんだん不安になってくる。周りの様子が、気になる。化け物がどうなったのか、確認せずにはいられなくなる。

 雷は、そっと目を開けてみた。

 途端に、木の下にいた化け物と目が合った。真っ黒な、濁った目が、まっすぐに雷のことを見ていた。

 見つかった…。

 そう思った瞬間、聞きなれたチャイムの音が聞こえた。一気に目が覚める。周りを見ると、既に講師の姿は教壇から消えていた。生徒たちもそれぞれ荷物をまとめて、教室から出て行くところだ。

 悪夢のせいで、ひどく動悸が激しい。手が震えた。

「雷神、どうした?授業、終わってるぜ?」

 突然、声をかけられた。驚いて振り返ると、クラスメイトが立っていた。

「何でもない…。ちょっと、居眠りしてて」

 雷はそう言って、教科書や白紙のルーズリーフをかばんに詰め込む。ならいいけど。相手はそう言って、教室を出て行く。

「彰、行こうぜ」

 そう言って、隣の席に目を向ける。しかし、そこには、誰も座ってはいなかった。あれ、彰のやつ、授業出なかったのか。雷は首をかしげた。体調不良や何かの理由なしに彰が授業をサボることなど、今まで一度もなかったのだ。

「何かあったのか…?」

 雷は一人で呟くと、教室を出た。

 授業はもう終わりだ。学校にいても、何もすることはない。かといって、家に帰ってもやはり何もない。

 気分が晴れないまま、雷は屋上に向かっていた。気晴らしにでもなればと思ったのだ。ゆっくりと階段を上り、鉄製のドアノブに手をかけたときだった。誰かの、笑い声が聞こえた。

 どこか不気味な、けれど、聞き覚えのあるような笑い声だった。

 誰か、屋上にいるのか…?そう思いながら、静かにドアを開け、そっと外をのぞいてみる。

 人影が見えた。オレンジ色の髪が、目に入る。彰だ。

 なんだ、学校には来てたのか。雷は一歩、屋上に踏み出した。

「あき……」

 しかし、声は途中で出なくなった。彰の様子がおかしかったのだ。

 彰は右手を顔の前にかざし、笑っていた。右手からは、チェーンのついたキーホルダーのようなものがぶら下がっている。チェーンの先に付けられた円錐形の銀色の飾りが、太陽光を反射している。

 彰は雷にも気付かず、キーホルダーをじっと見つめたまま、不気味な笑い声を立てていた。それは今まで聞いたことのないほど、ぞっとするような声だった。恐怖に鳥肌が立つ。雷は震える足を無理やり動かし、急いでその場を離れた。

 学校を飛び出し、家まで必死で走る。

「雷、どうしたのよ?」

 居間で緑茶を手に、のんびりとテレビを見ていた母が、驚いた表情を向けてくる。

「な……なんでも、ない」

 何とかそれだけ答えて、部屋に駆け込んだ。

 必死で走ってきたせいで、息が上がっている。今頃になって、疲労感が押し寄せてきた。雷は、壁に背中をもたせ掛けたまま、ずるずると床に座った。

「……どうしたんだよ、彰のやつ」

 ぼんやりと宙を見つめたまま、雷は思わず、声に出して呟いた。


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