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  作者: あおいさかな
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悪夢 1

「なぁ、雷神」

 彰が、ぽつりと呼んだ。

「何?」

「オレ、何か最近、変な夢ばっかり見るんだ」

 ボールペンを動かしていた手を止める。就職活動進行調査。真っ白なプリントには、見ただけで気分が重くなる文字が印刷されている。手元から、彰の顔に視線を移した。

「変な夢?」

 彰は、無言で頷く。目の下に、真っ黒なクマができている。大丈夫か、コイツ。少しだけ不安になる。

「おう。悪夢だな。毎日、同じ夢」

「どんな夢だよ?」

「……」

 彰は一瞬黙り込む。そのまま、真面目な表情で言った。

「母ちゃんがさ」

「は?母ちゃん?」

「母ちゃんが、E評価のついたレポート片手に追いかけてくるんだよ」

 彰が、人差し指を突きつけてくる。

「あんた、早く就職先決めなさいよって」

 マジで怖くてさぁ。言いながら、彰は書きかけの履歴書をつまみ上げた。

「なんだ…。冗談かよ」

 彰は、けらけらと笑った。しかし、すぐに真面目な表情に戻る。

「母ちゃんは冗談だけどさ。悪夢はほんと」

「どんなだよ?」

 聞き返すと、彰は顔をしかめた。

「どんなっつーか…」

 彰は言いよどんだ。

「なんか、不気味な夢なんだよな」

「だから、どう不気味なんだよ?」

 歯切れが悪いな。いつもの彰は、なんでもすっぱり言い切るやつなのに。

「ただ、不気味なだけの夢なんだけどさ。何かがいるような気がするんだ」

「何かって?」

「わかんね」

「……おい」

 わかんねーもんはわかんねーの。彰は、少し困ったように笑った。

「でも、その何かに見つかったら、まずいような気がするんだ」




 群青色の空に、巨大な赤い満月が浮かんでいる。足元には、月より赤く濁った湖。それを囲むように、白い霧に覆われた林が広がっている。辺りは薄暗く、風が吹かないせいで、ひどく空気が淀んでいる感じがする。

 気がつくと、らいは湖のほとりに立っていた。

「まただ……」

 呟いた声が、ずいぶん大きく響いた。

 また、この夢だ。このところ毎日、同じ夢を見ている。眠りにつくたびにこの夢が、この場所が、現れる。

 毎晩同じ夢を見るからといっても、始めのうちは少しも気にしなかった。疲れているんだろう。そんな風に思う程度だった。

別にゾンビと戦うわけでもなく、化け物から逃げるわけでもない。ただ赤い月と赤い湖、霧に覆われた林が出てくるだけの、中途半端で不完全な悪夢。しかし、血のような色に濁った湖と、踏み込めば少しも先の見えない林を何度も訪れるたびに、この不気味な夢に対する恐怖心は募っていった。

突然、林の中で物音がした。木々の間に積もった枯葉を、踏み分けるような音だった。

 雷は息を殺し、林の奥を食い入るように見つめた。けれど、いくら目を凝らしても、霧の向こうは見えてこない。林の中はしんとしていて、それ以上は何も聞こえてこない。しかし、不安を拭うことはできない。

 この夢は、危険だ。根拠も理由もないが、そう感じる。

 何か。そう、恐ろしい何かが、この夢のどこかに潜んでいる。そして、雷を捜し回っている。居場所を悟られてはいけない。見つかったら、終わりだ。

 確信などではない。直感的に、本能的に、そう思うだけ。しかし、その曖昧な感覚が、気のせいだとは思えなかった。

 雷は無言のまま、水際に生えている木々の一本に背中を預け、その場に腰を下ろした。湖の赤や霧の白から目を逸らすように、強く瞼を閉じる。

 もう二十二歳だというのに、ただ怯えながら目が覚めるのを待っている。それが、どうしようもなく無様だと感じた。けれど、他に何もできなかった。逃げ出したいと思うのに、自分の意志では夢の中から抜け出すことはできない。

 カッコ悪い……。

 そう思った瞬間、遠くで目覚まし時計のアラームが聞こえた。ゆっくりと意識が現実に戻っていく。夢の世界が薄れていく感覚がした。

 鳴り続けているけたたましい電子音を止めて文字盤を見ると、デジタル時計は朝六時を告げている。カーテンを開けると、初夏の太陽は既に昇っていた。いやな夢を見た後だからだろう。光を見ると、妙に安心感を覚えた。

 普通の大学生なら、こんな時間に起きてるはずがないな。そんな風に思いながら着替えをする。居間に入ると、朝食を作っていた母が不審そうな顔をした。まだ寝ていてもいいのに、という声に適当に返事をする。

 大学生といえば聞こえはいいが、要はただのヒマ人だ。一日のうちのせいぜい数時間を勉強にあてれば、後は自由に過ごすことができる。今日だって、朝九時からの九十分間、退屈な講義に出席するだけで、他には何の予定もない。

 学校までは歩いてせいぜい三十分。自転車を使えばもっと早く着くのだから、こんな朝早くから起きる必要はないのだ。母が首をかしげるのも当然だ。しかし、今の雷にとっては、眠っている時間が苦痛だった。

 母の小言はまだ続いている。色々言われるのが面倒くさくて、雷は逃げるように洗面所に向かった。

 鏡を覗き込むと、充血した目と真っ黒なクマが気になった。不愉快な夢を見るのが嫌で、ここ数日、睡眠時間を削っていたせいだ。顔を洗っても眠気は覚めず、自然とあくびが出た。

 早く起きたおかげで、学校に着いたのも早かった。授業開始まで、だいぶ時間がある。校内にはまだ人の姿は少なかった。清掃員のおばさんたちと事務員、講師が数人歩いている程度。生徒の姿はほとんどない。

「ま、いいか」

 雷は肩をすくめて呟くと、教室に向かった。

 誰もいないだろうな。

そう思っていたのに、教室には人がいた。オレンジ色の髪の小柄な男が一人、後ろの方の席についている。友人の、吉川彰だ。

「おはよ、彰」

 雷が彰の隣に座ると、彰は無表情のまま、顔を向けてきた。ぼーっとした目をしている。コイツも寝不足なのかな、とぼんやり思った。そういえば、少し前に彰もおかしな夢ばかり見ると言っていた。

「おはよう」

 彰は抑揚のない声で、挨拶を返してくる。

 彰のやつ、何か変わった。いつも陽気で、ふざけた色の頭が似合うやつで。髪とかピアスとか服装とか、妙に不良ぶっているくせに、本当は良心の塊みたいな性格で。小さなことに細かくて、いつも子どもみたいに笑ってるようなやつだったのに。

 最近の彰は始終ぼんやりしていて、まるで人が変わったようだ。

「彰、何かあったのか?」

 気が抜けたように黒板を見つめている彰のことが心配になって、雷はもう一度声をかけた。彰が再び無表情な顔を向けてくる。

「別に」

「別にって…。おまえ、最近変だぜ?」

 彰はぼんやりした目で、身動き一つせずに雷の顔を見ている。口を開こうとはしない。雷は困った表情を浮かべて肩をすくめた。

「まぁ、いいんだけどさ。何かあったら言えよ」

 彰は何も言わずに、雷から視線を逸らした。


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