四話
†
そこには、懐かしい光景が広がっていた。
アンナ・フェデリカとしてでなく。
アンナ・クロイツとして生きていた頃に目にした筈の光景がそこにあった。
……ただ、間違ってもそれは良い思い出ではなかった。それどころか、それは人生で一番悔いた瞬間だったかもしれない。
男の子が泣いていた。
赤色の髪の男の子が、表情を歪ませて泣いていた。
その事実を認識すると同時に襲い来る既視感。
がむしゃらに。
何を差し置いてでもと手を伸ばそうと試みる。
……試みている、筈なのに、その手は無情なまでに何も掴んではくれなくて。
それどころか、本当に伸ばせているかすら曖昧で、男の子の頭を撫でる事すら出来なかった。
声は何一つとして聞こえない。
ただ、ただ無音。
葉擦れの音すら鼓膜を掠めない無音の中、赤色の髪の男の子は此方を見詰めて何かを言っている。
だから、唇を読む。
そして理解が及んでいく男の子の言葉。
それは謝罪の言葉であり、懇願であり————それらが、幼子が手の届かないものを強請るように、何度も何度も繰り返される。
目は真っ赤に泣き腫らしていて、次第に言葉は減ってゆき、「嫌だよ」って、壊れた機械のようにただただ繰り返されるだけになっていく。
でも、その時の私は嘘でも「大丈夫」なんて事は伝えられなくて。
「最後の最後でドジっちゃったなぁ」って、痛みに表情が歪んでいた事もあって、笑っているような、痛みに苦しんでいるような表情で答えていた。
本当に、最後の最後だった。
あと少しで、二人一緒に隣国に逃げられるってところまできた直前で、失敗した。
男の子を守る事こそ出来たけど、お陰で当の本人は重傷を負う羽目になった。
自分の身体の事は自分がよく分かる。
とはよく言ったもので、確かに、こういったいざという時に恵まれた時、あぁ、ここまでなんだなって実感が強く湧いた。
だから、「大丈夫」とは言えなかった。
どうにか誤魔化そうと、回らない頭で適当にはぐらかすのが関の山だった。
『————聞いてよ、クロ。わたしさ、元々家では、〝要らない子〟って言われてたんだよね』
喋らなくていいから。
もう少しで人が来るからって、男の子は必死に私の命を繋ごうと考え、言葉をがむしゃらに洩らし続けていた。
でも、私の口は止まらない。
何より、止めるわけにはいかなかった。
『うち、元々騎士の一家でさ。でも私、そっちの才能は全くなくて、家での居場所も何処にもなくて、おまけに、側室の子だ、家の恥晒しだ、ってもうさんざん』
普段ならば、己の過去は死んでも語りたくない。
なんて言うところだったけれど、その時は不思議と私の口の紐は緩んでいた。
『で、もうたった一つの選択肢を除いて利用価値がないって判断された私はさ、政略結婚に出される事で話が進んでたんだ。でも、その相手がまたひどくて。性格は陰湿で、顔も性格と同様に歪んでて、女の人をいっぱい侍らせて、げへげへ笑ってるようなやつだった。ほん、っと、その時は死んでやろうかとか本気で思ってた』
両親の憂さ晴らしか。
って思う程に酷い不良物件だった。
それも、一応それなりに家格の高い御家の令嬢だったのに、殆ど愛人扱いのレベルになるとかなんとか聞かされていた。
だから、公衆の面前で父親の後ろめたい事を叫びながら死んでやろうかとかは本当に思っていた事であった。
でも————。
『だけど、死んでやろうって思ってた直前になって、なんだろう。全てがバカらしくなってさ。こんなにたっぷり苦しんだ私が、なんで最期まで苦しんで死ななきゃいけないんだって』
それはただ単に、臆病風に吹かれただけだったのかもしれないけど……それでも、あの時私はそう思えて良かったって心底思ってる。
そう、言葉を続けた。
『で、何もかもを捨てて家を飛び出したの。それから紆余曲折あって、血の繋がりはないけど、本当の家族と呼べる人や、私に魔法の才能があるって教えてくれた魔法使いの人。勝手に娘扱いしてくる酒臭い親父に、偶然知り合った優しい貴族の方。いろんな人と出会えた。何より、ちょっとした功績をあげて、宮仕えを始めた時とか、本当にあの時死ななくて良かったって思えた。本当に、あれは最高だった。宮中で偶然出会した時の、あの生みの親の表情は本当にね』
————くひひっ。
痛みのせいでうまく笑えなくて、若干、引き笑いのような感情の出し方になってしまったけど、限界まで口角を吊り上げながら笑うその様子こそが、何よりもアンナ・クロイツらしいと他でもない私は思った。
そして、そんな人生を歩んでいた私だからこそ。
『だから————死にたいって思わないで。死のうとしないで。そんなの、勿体無いよクロ。降り掛かる理不尽を全て仕方がないって受け入れて死ぬなんて……勿体なさ過ぎるよ、クロ。クロはもっと、幸せになるべきだ』
これまで苦しんだ分————尚更に。
『……あぁ、クソ。視界が霞んできた……まだもっと、もっと言いたい事があるのに』
手にべっとりと付着した鮮血。
あまりに流し過ぎているソレが、意識を今にも遠のかせようとしている原因だと知り、歯噛みする。
『私もね、昔はクロみたいに全く笑えなかったんだ。でも、今は違う。ばっかみたいに笑える。今もほら、笑えてる』
痛みに慣れてないせいで、引き攣ったような表情だけど、それでも一応笑えてる、はず。
『生きてれば、いつか、今よりももっと、もっともっと幸せだと思える日が来るかもしれない』
実際に、私がそうだったように。
『生きてて良かったって、自己満足を得られる日がやって来るかもしれない。……ううん。違う。くるよ。そんな日が、クロにも絶対にやって来る』
だから————生きるべきなんだよって伝える。
けれど、大粒を目の端に浮かべながら紡がれる言葉は、承諾とも拒絶とも取れる返事だった。そしてそれは、無性に私の胸の奥を掻き乱すものでもあった。
————ならおれは、アンナさんと一緒がいい。
『…………。ぁあ、うん。そうだね。一緒に、世界でもぶらぶらとまわりたかったよね』
結構波瀾万丈な人生送っていた事もあって、私の知り合いは世界のいろんな場所にいる。
だから、名前を変えて、隣国で準備を整えてからほとぼりが冷めるまで一緒に旅でもするつもりだった。
世界はこんなに綺麗なんだよって、私よりも窮屈な人生を送らざるを得なかったクロに伝えたかった。
彼を見ていると、無性に過去の自分と重なっていたから、特に。
……でも、それが無理である事は私が一番よく分かってる。ひたひたと迫る死の感触が、それは無理だと憂慮なんてものをしてくれる様子を欠片すら見せずに告げてきていた。
『……ごめんね』
何に対しての「ごめんね」なのか、自分でも分からなかった。
謝る事がありすぎて、分からなかった。
だけど、気がついた時には私はそう口にしていた。
丁寧に一つ一つ、「ごめんね」の理由を語るにはあまりに時間がなかった。霞む視界に続いて、身体の感覚までが薄れていく。
『ごめんね、クロ。何も、してやれなくて』
『それは、ちがう。おれは、おれはあんたに。アンナさんに救われ————』
『そう、思ってくれるんだ。優しいね、クロは』
望んで放り出すわけじゃない。
けれど、助けるだけ助けておいて、それを最後まで貫き通せないなら、それは助けた奴が一番悪い。私はそう思っていたから、クロの言葉に、優しいなって感想を抱いた。
そして、そう思ったからこそ湧き上がる感情。
感覚の薄れた手で握り拳をつくり、ぎゅうと握りしめる。
『……あぁ、くそ』
それは、怒りだった。
それは、申し訳なさだった。
それは、自責であり、悔しさであり、悲しみであった。
『くそ。ほんと。ほんっ、とうに、しんどいなぁ……』
身体が、ではない。
心がしんどかった。
胸の奥が、どうしようもなくしんどかった。
こんな年端のいかない子を、念の為に。
なんて理由で殺そうとする奴らに勿論腹が立つ。今すぐ殺してやりたいくらいに腹が立つ。
そして、散々同情して、自分に重ねて、助けるからって大口叩いておきながら、途中で放り出そうとしている自分にも、また。
ただ、こればかりは言ってもどうしようもないという事は分かる。分かるけど、感情はそれに追いついてはこなかった。
『私が、私、が、助けたかったのに。助けて、逃げて、旅をして、ばかをして、世話を焼いて、』
本当は、そんな顔をさせるつもりなんて、毛頭なかったんだよって、伝えたくて継ぎ接ぎの言葉を口にする。
『それで————最後に、楽しかったって言ってもらいたかった。あの時、死ななくて良かったって、思ってもらいたかった』
私自身も、いろんな人に世話を焼かれて。
助けられて、そんな縁に恵まれて生きてきた人間だから、それらの恩も含めて返したかった。
どうか、返したかったんだ。
『クロ……、クロ、あのね、クロ。生きていれば、きっといつか、あの時死ななくて良かったって思える日が来るから。だから、生きて。それと、私が言えた義理じゃないけど、自分を責めないで。クロは、何も悪くないから。だから、だから……だから、〝ごめんね〟クロ』
もし。
もし、あの時、私は最後の最後で刺客にちゃんと気付き、ドジを踏まなかったならば。
今頃、二人で世界でも回ってたのかなって、何度目か分からない感想をまた私は抱き————そして、回想は終わりを迎えた。
今度は俺が、あんたを救ってやる。
そんな台詞が言えれば良かったんだけどな。
ただせめて、〝恩返し〟くらいはさせてくれ————アンナさん。
不意に聞こえてきたそんな呟きのような言葉を目覚ましに、私の意識は覚醒に向かった。
†
————夢を、見ていたらしい。
十数年近く前に別れを告げた筈の、懐かしい出来事。その思い出であり、記憶。
頭の中からすすす、とゆっくり潮が引いていくように一瞬前まで鮮明に思い出せていた筈のイメージが私の中から遠のいて行く。
「おはよう」
鈴を鳴らすような、優しい声音。
未だ夢と現実の区別がちゃんとつく程、目が完全に覚めきってなかったのだろう。
「……クロ?」
鼓膜を揺らした声音に対し、考えなしに反射的に私がそう口にすると、私の視界に映り込んでいた青年は、満足そうに笑った。
そこで私の思考が停止する。
つい先程、己が口にした「クロ?」という発言を胸の中で何度か反芻した後、ゆっくりと事態が把握出来てゆく。
「よく眠れたか?」
「…………ぇ、ぅ、あ、は、はい。そ、それなりに?」
どうしてクロがここにいるんだ。
と、思ったのも刹那。
そういえば昨日、薄情過ぎる両親と姉から、陛下の側仕えなんて大抜擢は滅多にない!
がんばれ!!
などと言われ、半強制的に置いてきぼりにされたんだっけかと思い出しながら、昨日急遽与えられていた部屋を慌てて見回す私を横目に、
「その様子だと、体調不良、というわけでもないか」
「……体調不良?」
「もう昼過ぎだというのに姿が見えないから、不躾とは思ったが入らせて貰った」
言われて窓へと視線を向けてみると、確かに曙光にしてはやけに明るいというか、お日様は見る限り真上にいそうな感じである。
そこで、どうしてこうなった。
と、悩みつつ、慣れない場所で中々眠りにつけず、朝方までこれからどうしようと悩んでいた事を思い出す。
そりゃ、朝起きられないのも仕方がないと言える就寝時刻であった。
「それに、昨日は色々と突然だったからな」
中々寝付けないのも無理はない。
と、申し訳なさそうにクロが言ってくる。
「体調不良でないなら、問題はない。執務室の場所は……分かるよな?」
本当に、昼になっても姿を見せない私を心配してやって来てくれたのだろう。
手間を掛けてしまった事に対して申し訳ないと思いつつも、その言葉に首肯する。
執務室の場所は————庭園が見えるあの場所の事だろう。
「落ち着いたら、訪ねてくれるか。側仕えについて等、色々と話しておきたい事がある」
そういえば、側仕えしろとか言われはしたものの、具体的な説明はおろか、明日まとめて話すから今日はゆっくりしていてくれとしか昨日は聞いていなかった。
やがて、それなりに近くにいたクロの姿は伝える事は伝えたと言わんばかりに気づけばドアの付近へと移動をしていて。
「花でも眺めながら、話そう」
理由は分からないけど、何故かやけに上機嫌なクロは、それだけ告げて部屋を後にした。




