初恋はかえらない
よく晴れた日の午前中はこっそり部屋を抜け出して、裏庭の木陰でかくれんぼ。幼い頃は日常だったそれは、16になった今はもう数えるほどしかできない。おてんばにも年齢制限はあるのだ。
けれども、今日は特別だった。あんまりにも空が青いから、と言い訳できる気がして、使用人の目を掻い潜って外に出た。足音を立てないようにそおっと裏庭に回る。
主人の好みに仕上がっている庭は私の大切な場所だった。小さい背丈を隠してくれた木々たちは、今や私の方が頭ひとつ分大きい。懐かしくなって、なんとか陰に入ってみようとかがんでみる。
「なにやってるんですか、お嬢様」
呆れた声が背後から聞こえた。そろりと振り向くと、声色と同じように呆れた顔のギルベルトが立っていた。お目当ての人物の登場に、少し緊張しながら挨拶する。
「ご、ごきげんよう、ギル。いい天気ね」
「確かにいい天気ですが、ベアトリクス様はそんな理由で外に出れるような立場じゃないでしょう」
叱るような口調にちょっとむっとして、むくれた表情を装ってすかさず言い返した。
「なによ。雇い主が気分よく庭に出てるのよ。庭師冥利に尽きるとか思わないわけ」
「生憎ですが、俺の主人はお嬢様のお父様ですので」
ばっさりと切り捨てられて、余計にふくれてみせる。膨らんだ頬が可笑しかったのか、ギルの呆れた顔が苦笑に変わった。
「変わりませんね、ベアトリクス様は」
あなたは随分、変わったわ。
言いかけて開いた口は、ひゅっと息を吸っただけにとどまった。取り繕うための無難な言葉を探したが、思い付かなくてぎこちなく笑う。
ギルは私のぎこちなさに気づいただろうに、よくできた庭師はそのことには触れなかった。
「それで、どうしてこんなところに?」
先程より幾分か柔らかい声で尋ねられる。
「ちょっと外に出たかっただけよ」
用意していた答えは思ったより白々しく聞こえた。誰が聞いてもなにかを隠しているような、固い声になってしまっていた。
追い返されたらどうしよう、と急に心配になったが、それは杞憂だったらしい。
ギルはにこりと微笑んで、近くのベンチを示した。
「それじゃあ、少しだけお話していきませんか」
*****
日向に置かれた木製のベンチは、ふたり分の体重にぎしりと鳴った。ぽかぽかの陽気と清々しい空気が心地いい。
「懐かしいですね」
唐突にギルが呟いた。
「お嬢様はよくレッスンを抜け出して、ここでかくれんぼをしていました。使用人がひいひい言いながら探してる間、木の後ろに隠れたりして」
「そうね。勉強なんて退屈で、大嫌いだったもの。外で遊ぶ方がよっぽど有意義に思えてたわ」
「思えてた、って今は違うんですか?」
皮肉まじりの問いかけに、あら失礼ね、と笑ってみせた。
隣からも控えめな笑い声が聞こえた。
「いつもちっとも見つからなくて、最終的に俺があちこち庭を探して」
「いっつも見つかるのはギルにだったわ。他の人からは見つからないのに、ギルにはどうしても見つかっちゃってた。でも、」
小さく息を吸い直した。
「見つかるなら、ギルがいいって思ってたわ。ずっと」
隣でギルが固まるのがわかった。意味を測りかねているようだった。なにかを含んでいるのか、そうでないのか。
私が続きを話し始めようとするのを見て、ギルは話をそらした。作ったような笑顔と口調で昔話を続ける。
「あの頃は使用人みんな、おてんば娘にもほどがあると思ってましたよ」
そのとき、言葉の続きが予測できて、私は耳を塞ぎたくなった。
「そんなお嬢様がお嫁にいかれるなんて、月日が経つのは早いですね」
相槌を打つことすら難しかった。ひくりと喉が震えるだけで、声はなにも出ない。
黙ったままの私に気づかないふりをして、ギルはにこやかに続けた。
「どんな人なんですか。旦那様が選んだ人なら間違いないでしょうね」
わざとらしいくらい明るい声だった。
わざとだって、思いたかった。
「むかしね、」
いつもより大きめの声を意識して出す。
目だけでギルの様子をうかがい、話してもいいか確認する。ギルは黙って聞くようだった。心の中で一息ついて、話し続ける。
「昔、ギルの髪は紅茶みたいなきれいな色ね、って言ったの覚えてる?」
「....ええ、覚えていますよ。こんな中途半端な赤茶色を褒めていただけて、嬉しかったですから」
「私、それから紅茶を飲むたびに、ギルのことを思い出したわ」
ギルが相槌に戸惑ってるのがわかった。
それでも、私は続けなくちゃいけない。
私は今日、これを言いに来たのだから。
「部屋に飾られた花瓶を見て、花の匂いを嗅いで、夕焼けの茜色を見て、雨が降っても、風の音がしても、そういうちょっとしたこと全部に、ギルのことを考えたわ」
「、お嬢様」
「クッキーが美味しいと一緒に食べたいって思ったし、新しい勉強も大変なのよって愚痴を言いたかったし、ピアノを弾くのも聞いてほしかった」
「ベアトリクス様」
「私の頭の中ね、いつも、ギルのことばっかりだったの」
わずかに震えた涙声は、ギルにどう伝わっただろうか。
出来る限りの告白のつもりだった。明確な言葉を言えない、私のせいいっぱい。
「以前からお嬢様の瞳は、はちみつみたいな色だなと思ってたんです」
かすれた小さな呟きは、私に聞かせるものだっただろうが、独り言のようでもあった。
「お屋敷の裏口からはちみつの仕入れをするんです。手のひらくらいの瓶に小分けされてて。それが運ばれてくるのを、裏庭からよく見てました。はちみつの瓶に、太陽の光がきらきら当たって、いつもお嬢様の瞳みたいだなって思ってたんです」
咄嗟に、私と同じ気持ちだと思った。
嬉しさよりも驚きが先行して、びっくりした顔で、ギルを見た。
ギルは、笑っていた。とても、さみしい表情で。
「でも、」
ねえ、なんでそんな顔をするの。なんで、だって。
「でも俺は、そのはちみつに、ただの一度も触れたことがないんです。つまりは、そういうことなんだと思います」
なにを言われたか一瞬、理解できなかった。
そういうことってどういうことなの、と問いかけたかったが、それが意味のない問いだということは私が一番よくわかっていた。
「そろそろ仕事に戻りますね」
ギルは何事もなかったかのように、極めて朗らかだった。ベンチから立ち上がり、軽く背伸びをしてみせる。
そのまま立ち去ろうとする様子に、私は思わずギルの服の裾を掴んでいた。
自分でも訳がわからなくなって、衝動のまま口を開いた。
「まって、」
私、と言いかけた口をギルの指が優しく塞ぐ。
「それ以上はだめだよ、ビー」
たしなめる口調は懐かしいものだった。
焦がれてた愛称の響きは昔よりも低い男の人の声で、変わらずにはいられない現実を突きつけられた気がした。
唇に触れていた指が、頬を掠めて離れていく。
「幸せに、しあわせになってください。お嬢様」
ギルは、やっぱりさみしそうに笑って、使用人らしい口調で別れを惜しむ。
「なによ、さらってくれないの」と軽口に見せかけた本音は言えないまま、心に浮かんで消えた。
*****
端に寄ったひとり分の体重は、片寄ってベンチを軋ませた。
大きく息を吐いて、思いきり空を見上げた。
あの頃は対等だと思っていた。
言葉遣いも、呼び方も、態度も、なにもかも今と違っていて、対等のような気がしていた。でも、本当は全然そうじゃなかった。
私の紅茶と、ギルのはちみつは同じだと思った。けれど、本当は全然違ってた。
「それでも、ほんとに、ほんとうに、」
すきだったのよ、とそれだけは声に出せなかった。
小さな声は風に流されていく。
相変わらず空はばかみたいに青く晴れてて、涙が出るのは青空が目にしみるせいだ、と自分に言い訳をした。