『水越歩』‐完‐
途絶えていた意識が覚醒していくのを私は感じていた。遠くで高い電子音が定期的に鳴っている。
瞳を開けると見たことのない天井だった。
視界の隅に点滴がぶら下がっているのが見える。
起き上がろうとしたが、体を動かす事が出来ない。
動くのは瞼と目だけだ。
それにしても、ここは何処なのだろう?
案内人さんは人間界に送ってくれたはずである。
ならば、と最大限に頭を捻ってここが何処なのかと考えて、十中八九病院にいるんだろうなって思った。
静かね。病院の看護師さんやお医者さんは走り回っているんだろうけど、患者になるとこんなに静かなのね……。
「歩!!」
やることが無くてぼんやりと白い天井を見上げていると、お母さんに名前を呼ばれて視線を向けた。
「良かったぁ、歩ぅ……」
お母さんが瞳に涙を浮かべて私を見つめてると、力強く抱きしめてきた。
「このまま目を覚まさなかったら、私は……、私は……、お前を撃った男を八つ裂きにしてやるところだったよ」
お母さんは、私を抱きしめたままで瞳を爛々と輝かせて口の端を吊り上げ、悪魔の鳴き声のような低い声で恐ろしい言葉を吐いてきた。
「ああ……、そうだ! 先生を呼ばなきゃ!!」
お母さんはナースコールを鳴らすと若そうな看護師さんに私が起きた事を伝えている。
あんなに嬉しそうにしているお母さんを見ていると、帰って来れて良かったと思える。
親より先に死ぬより親不孝はないって、使い古された言葉があるけど、本当なのかもって思えてくる。
私が生きているだけで、お母さんがこんなに喜んでくれる。それは凄く嬉しいことだった。
普段はただただ口煩くて、好きだなんて思えないし、私の事を好きでいてくれているのかも分からないけど、本当に好きでいてくれているんだなぁ、と実感が出来る。
私は勝手に死んで、お母さんを悲しませようとしていたのだなと思うと、酷く申し訳なくなってきた。
「お父さんに電話してくるからあんたは寝てな」
看護師さんと話を終えると、優しく髪を撫でてくれた。
私はそれが心地よくて目だけで頷くと瞳を閉じた。
「水越さん、目が覚めたと聞きましたかお加減はどうですか?」
私はそのまま眠ろうとしたけど、お母さんと入れ違いにお医者さんがやって来て私に声を掛けてくれたけど、舌も喉も上手く動かすことが出来ずに話せない。
「痛みもないようだし、まだ麻酔が切れてないのかな?」
お医者さんは微笑みながら言うと私の検査を始め、結局眠れなかった。
あれから数日後、私は退院して海岸にいた。
退院したと言っても、まだ車椅子がなければ痛くて歩く事も出来ないが、傷も順調に塞がっているし、自分の足で歩ける日も遠くはないだろう。
遠くで香と桂心がシーグラスを集めている。
「ほいよ、香」
私の背後で車椅子を押してくれているお母さんが、私に缶のオレンジジュースを手渡してくれた。
「ありがとう」
私は微笑みながら受けとると、微笑みを返した。
春の海は人が疎らで、波の音がやたらと大きく聞こえてくる。押しては寄せる波の音は心地よく鼓膜を撫でる。
「ねぇ、お母さん。お母さんの幸せのために私ができることっなぁに?」
案内人さんは、私が死んでお母さんが傷ついた事は教えてくれたけど、幸せになる事は教えてくれなかった。
だから、思いきって聞いてみる。
「なんだい? 突然……」
お母さんは驚いたように聞き返して来たけど、小さく笑いを洩らした。
「そうだねぇ、あんたが結婚して可愛い孫の顔を見せてくれる事かな? 在り来たりかも知れないけれどさ、やっぱり親は自分の子にも幸せになって欲しいのさ。
そして感じて欲しい。生まれてきてくれてありがとうって言う、子供に大して感謝する気持ちを……」
『まぁ、暫くは戦争だけどね』と冗談を付け加えてお母さんは締め括った。
「うん……」
私は微笑んだままで頷いた。
ここまで育ててくれた感謝をそんな事で返せるのなら、私はそうするしかないと思った。
その為には、絶対に死んではいけない。
死ねない……。
生きていこう。
私は水平線を見つめて、そう誓った。