第二章 終末へと至る日々(3)
3.
長針はトイレには行かず、人気のない校舎裏に来ていた。
この場所に用などない。単に一人になりたかっただけだった。
教室を出た後のことはよく思い出せなかった。気付けば駆け出していて何かから逃げるみたいに無我夢中で走り続けていた。どこをどう走ったかも覚えていないし、周囲の目を気にしている余裕もなかった。不審に思われたかもしれないがどうでもよかった。
とにかく遠くに行きたかった。いくらもがこうと学校と言う世界からは抜け出せないし、離れられてもせいぜい百メートル程度が限界である。
それでも、無心になって掻き消したかった。この理解できない感情を。
「は、はぁはぁ、ここまでくれば……」
ここまでくればなんだというのか。ただ逃れられた気になっているだけではないか? 自分の中の冷静な部分が言う。
長針は荒い息を吐きながら地べたに座り込む。数度深呼吸して、最後に一呼吸。
校舎の外壁に背を預け、勢いで持ってきてしまった進路調査票を虚ろな目で眺める。
「進路……か」
調査票をもらった時はあまりに遠すぎる未来に雲をつかむような気持ちになった。路上で配られるティッシュをなんとなく受け取ったような感覚、それに近いかもしれない。
先日までの未来は形のない曖昧な物だった。
けれど今の未来は届かない明確な物になった。
授業開始のチャイムが聞こえたがどうもここから動く気がしなかった。
「なにやってんの? チャイム鳴ったよー?」
「っつ、おわぁ!?」
長針は真横からの声に素っ頓狂な声を上げながら反対側に仰向けに倒れた。
「ちょりーっす!」
見上げた先にいたのはアテナ――にそっくりな別人。昨日の夕方とは違い今日は同じ学園の制服に身を包んでいた。
日の光をきらきらと反射する雪のような白い髪を押さえながら長針の手から滑り落ちた進路調査票を拾い上げる。
「進路調査票かー、いいねいいね~学生っぽいねぇ~」
雪色の髪を揺らしながら楽しそうに独り言を言う。
「またお前か……挨拶くらいちゃんとしろよ」
長針は体を起こし、服の土を払いながら言う。
「えー、『ちょりーっす』は万国共通っすよ?」
彼女は調査票をしげしげと見つめながらとても昨日が初対面とは思えない親しみの込められた笑みを浮かべる。
「せんせー、ここに嘘つきがいまーす」
長針が調子を合わせて軽口で答えると「へへ、バレたか」と言って舌を出してはにかむ。その顔がアテナと酷似しているせいか本物のアテナが笑ったような錯覚に陥った。
(アテナも笑うとあんな風に可愛く見えるんだろうな……)
無表情がデフォルトと化している彼女の顔を思い浮かべながら白アテナ(仮称)の顔を眺めていた。
「ん? どったの? もしかして、私に見とれてた!?」
「――ぶっ! バカ、そんなんじゃ……それよりそれ返せよ」
割と的確な指摘に長針は早口で言いながら進路調査票を奪い返した。
「図星? ごめ~んね♪ でも彼女とクリソツな顔ならしゃーないっすよ?」
「な!?――お前っ何でそれを!?」
思いがけない言葉に長針は完全に虚をつかれた。長針自身、あまり秘密が多い方ではない。けれど、目の前の少女は自分とアテナしか知りえないトップシークレットをさも当然のように口にしたのだから。仮に今 朝二人で登校してきた姿を目撃して邪推することはできても断言はできないはずだ。
「あ、そうそう、自己紹介がまだだったね」
長針の質問を妨害するタイミングで白アテナは言葉をかぶせた。
「私はアルト。だからお前なんて言う呼び方は止めてほしいな?」
完全に手玉に取られていた。
薄気味悪さを通り越した悪寒がざわざわと這い上がってくるのを感じながら、とても簡単な仮説に辿り着いた。
「アルトはアテナの姉妹なのか?」
「お、なかなかいい線行ってるね~でも今は教えてあげない」
思わせぶりな笑みを浮かべるとこちらが聞き返す間もなく話を打ち切った。焦らされてばかりでフラストレーションばかり溜まっていく。まるで猫じゃらすに飛びつく猫の気分だった。追求しようか迷ったがはぐらかされるのが目に見えたから止めた。大方、アテナが自分には伝えていないだけで二人姉妹なのだろうと半ば強引に結論付ける。
「んで、話し戻すけど、教室帰らなくてもいいの?」
「ああ、サボる」
無意識に即答していた。
「わぁ、不良だー。せんせー、ここに悪い子がいまーす」
本当はもう少ししたら教室に戻るつもりだったが、この場を去ることが自分にとってもったいないような気がしたのだ。それどころか間違いな気がした。
「んで? 何をくよくよしてるの? 悩み事?」
ニコニコと、心を丸ごと引き抜かれてしまいそうなほど不気味で綺麗で無邪気な笑みで尋ねてきた。
「大したことじゃねーよ」
「大したことないのにこんな所まで走ってきて授業サボってるの?」
寸分の狂いもない指摘だった。
表情から読み取られたというより予め知っていたみたいに。そうでなければこの白々しいまでの笑顔に説明がつかない。
「なんでそこまで知っているんだよ……」
「お姉ちゃんの目は誤魔化せないっす~えいっ!」
「むごぉ!? なんだ……チョコレート?」
「こういう時はチョコレートきゅんに限るっす」
そう言って長針の隣に腰かけて自らもチョコレートを口に放り込む。
「ん~おいし~」
幸せそうにチョコレートを頬張るアルトの横顔を眺めていると肩から力が抜けた気がした。
アルトは不意に目を細めた。まるで目標を達成したみたいに。その面影と言うか、雰囲気が再度アテナと重なる。
「アルト……そう言えば苗字は何て言うんだ?」
だから再確認の意味を込めて何気なく聞いた。
「ないよ」アルトはあっけらかんと答え「生前の私にはそんなものは与えられなかったから」全く色のない顔で言った。
「え、」
余りにさりげなく投下された爆弾に長針は理解が追い付かない。口の中のチョコレートの甘い余韻が消えても意味が分からなかった。
軽く放心状態の長針を置き去りにしてアルトは立ち上がる。
「最後に一つ。ぶっちゃけ好きなことやっちゃえばいいっしょ? いっそ開き直ったら? その方が楽になることもあると思うよ?」
それだけ言い残すとアルトは長針の目の前から忽然と消えた。瞬きをしている間に姿を晦ましたとかいうレベルの話ではない。見ている傍から唐突に透過したのだ。アルトと言う存在そのものが幻だったみたいに。
「なんだよアルトって……まさかアテナの姉妹の幽霊なんてオチじゃねーだろーな」
ぼやきながら気づく。さっきまでの鬱蒼とした気持ちが晴れていることに。
「もしかして励ましに来てくれたのか……? まさかな」
可能性を考え、打ち消した。アルトにそんな風にされるいわれがない。が、事実はどうあれ気が少し楽になったことには変わりなかった。
とにもかくにもとんでもない出来事の渦中に立たされている気がしてならなかった。
結局ロングホームルームの間ずっと校舎裏で過ごした長針を教室で出迎えたのはもの言いたげに眉をハの字にした岡持だった。
「ずいぶん長いトイレだったね? で、どこ行ってたんだよ?」
どういう風に釈明するか考える間もなくあっさり見抜かれた。
「いや、将来のこと考えると急に不安になってさ、それで校舎裏でぼんやり考えていたら今になってた」
長針は嘘偽りなく、しかし、余計なことは口にせず答えた。岡持は肩を竦めると渋面を作り言った。
「もしかして、僕が原因か?」
「……っ」
岡持の鋭い質問に長針は言葉を詰まらせた。教室を離れたくなった原因は何かと言えば岡持が原因だ。それとは別に身の内で渦巻く収拾のつかない感情の正体が掴めなかった。
「――焦ってたのかもな」
「え?」
ややあって口から出た言葉にも自信がなかった。果たして本当にそうなのか。未来のない自分が来るはずもない未来に焦燥感を抱き、あまつさえ取り乱したりするのだろうか? 抱いた疑問に答えを見いだせないままの長針に岡持はやはり眉をハの字にしたまま言う。
「先生には腹の調子が悪いからトイレにこもっているとは言ったけど後でちゃんと謝っとけよ?」
「ああ、サンキューな」
岡持の気の回る性格にはとことん頭が上がらない長針だった。




