第五章 生者の夢、亡者の悪夢(2)
2.
また一人自分の前から去って行った。
茫然自失の時雨の意識を回復させたのはノックの音だった。
「――はいっ! お嬢ですか?」
他の住人がいないのにそう聞いたのは他の誰かを期待したからなのか。
「時雨? どうしました?――明かりもつけずに」
一人自室にこもっていた時雨に主人であるアテナは声をかけた。
葉書坂の屋敷に帰宅してから自分のことはおろか、主人への給仕さえ忘れていたことに気づかされる。
アテナの問いに対し侍女としてではなく、時雨として答えた。
「また一人、知人が亡くなりました」
岡持のことを理由に使いたくはなかったが、そんな余裕はなかった。自分の屍時計が発現してすでに半世紀以上が過ぎている。今日までの何十人と知人の死に直面し、別れを告げてきた。それでも全く慣れることができず、一人で悲しみに耐えることしかできない。
そんな時雨の姿をアテナは黙って見守っていた。
アテナは一見して時雨の身を案じているかに見えて違っていた。
術後の患者の容体を見回りに来た執刀医のような、傷を負った時雨の様子を見に来ているだけだった。
「……岡持出前ですか」
「!」
全く熱を感じない声だった。しかし、時雨が反応したのはそこではない。
岡持の事故があったのはつい数時間前。まだニュースにさえなっていない。基本的に外交との接点のないアテナに他から連絡が入るとは考えづらい。唯一の可能性が長針だが、好き好んで言いふらすとは考えられないし、そんな余裕が今の彼にあるとは思えなかった。
辿り着いた答えは簡単だった。
「……知っていたのですか?」
絞り出した声は震えていた。
寒気や恐れではない。
行き場のない怒りで震えていた。
初めて主人に、静観していただけで何の罪もないアテナに、殺意と言う物を抱いた。
運命に殺されたのだと、淡白に見ることができなかった。アテナに非がないと言い聞かせても抑えられなかった。
「時雨……その殺意をぶつける場所を差し上げましょうか?」
アテナは変わらぬ無表情で逆撫でするように言う。
主人であるアテナは侍女である時雨に言う。
時雨を訪ねた本当の理由を。
「時雨、私を――――」
先刻と変わらない声で――言った。
刹那抱いた殺意は驚愕によって打ち砕かれ、霧散した。




