第一章 十一時五十九分三十秒の少年(1)
第一章 十一時五十九分三十秒の少年
1.
九月も残すところ数日、ようやく夏休みの余韻が消え秋の空気が漂い始める時期。
残暑とは名ばかりの猛暑は先日峠を越えたようで、今ではさわやかな風が吹き空一面には心地の良い秋晴れが広がっていた。
田舎という形容詞がしっくりくる都道府県、その中心街からほど近い場所に位置する私立夜ノ島学園。可もなく不可もなくという学力の生徒たちが平々凡々と通い青春を謳歌する舞台である。
そんな学園の一年一組の教室。時刻は昼休み。
「長針、何かいいことでもあったの?」
突然の指摘に指針川長針は箸を止めた。
「はぁ、なんのことだよ?」
弁当箱につけていた口を離し可能な限り平静を装い答えた。我ながら隠し事が下手だなぁ、そう思いつつ顔を上げた長針は一眼レフの巨大なレンズと対面した。
「……とりあえず、ファインダー越しに人を見るのは止めてくれないか?」
長針が半眼を作りながら訴えると巨大なレンズの向こうからメガネをかけた凛々しい顔のクラスメイト、岡持出前がひょっこりと現れた。
ラーメン屋の息子にして夢はプロのカメラマンという大層親泣かせな小学生時代からの友人である。常に首からカメラを下げ校内でシャッターを切っては盗撮と揶揄される日々を送っている。
「シャッターチャンスがいつ来るかわからないのに……」
「食事中の野郎を被写体にして何がシャッターチャンスだ」
「まぁ、それはそうと何かいいことあった?」
岡持は名残惜しそうにカメラを机の上に置くと話を戻した。
「いや、だから何のことだよ?」
「何のことって、朝からそんなに嬉しそうな顔していたら誰でもわかると思うけど? 今だって足取りならぬ箸取りが軽快極まりない」
岡持は購買のパンをかじりながら肉団子を玉入れのように口に放り込む長針を見て苦笑する。
「む、」
岡持の指摘に周囲にわかるくらい自分は単純なのかと少々落ち込んでしまう長針である。
「長針さー、今日の授業中ずっと起きてたでしょ? 何か楽しみなことがあって寝付けないみたいに」
岡持は長針の不審さの裏付けとして続けた。普段から授業中は寝て過ごすことが多い長針。それが今日に限ってである。(授業を聞いているかは別)
岡持の鋭い指摘に思い当たる節があるため言い返せなかった。事実、現在進行形で遠足の前日のようにそわそわと落ち着かない。普段から近くで長針のことを見ている岡持がその様子に気づかないはずがない。
弁当を食べ終えた長針は割り箸を二つに折り弁当箱に収めると、悟り顔の友人に向けて重い口を開いた。
「……実は」
「まぁ、言いたくないなら無理には聞かないけど」
急に引き下がる岡持に長針は肩透かしを食らう。
「って、ええ!?」
長針の驚きを無視して岡持は興味の矛先を変えた。
「そうこうしているうちに、時雨ちゃんの涎付き寝顔ゲット」
岡持はカメラのリードを絡め取ると素早く調整を済ませ、新たな被写体である隣席の女子生徒へとレンズを向けた。なんだか獲物に銃口を向ける狩猟者みたいだなぁ、長針がそう思っているとカメラを向けられる気配を動物的な勘で感じ取ったのか居眠りをしていた女子生徒が慌てて顔を上げた。
「コラー、何女の子の寝顔盗撮しようとしているんだー!」
目じりの涙と口元の涎をまとめて拭うとクラスメイトの時雨は抗議の声をあげる。
前髪を額の前で結んだ奇抜なヘアースタイルの少女である。小柄な体躯と丸目の顔が相まってプチトマトのような印象を受ける。
「これは失敬。寝顔があまりにかわいらしかったもんで」
岡持は紳士的な謝罪を述べると薄く笑みを浮かべながらカメラを下した。
「かわいいとか言われてもごまかされないんだぞー! って、言ってるそばからどこにカメラ向けとるんだー!」
カメラに密かに狙われていた薄い胸をかばいながら時雨は岡持に叫ぶ。しかし、満更ではないらしく頬は赤い。その姿はまさしくプチトマトである。
「時雨ちゃんは被害妄想が激しいなぁ~(カシャカシャ)」
「言いながらシャッター切るなー! イケメンだからって何をしても許されると思うなよー!」
それだけ言うと時雨は再び顔を伏せた。茶筅のような髪が机の端からはみ出ている。
「話の最中に二度寝するか普通?」
「時雨ちゃんは高校生活を寝過ごしそうだね」
からからと笑う岡持の言葉があながち間違えに聞こえなかった。
「でさ、さっきの続きなんだけど葉書坂アテナって知ってるだろ?」
長針は流されるのが癪だったので話を戻した。しかし、その名を出した途端、岡持の顔が強張った。
「もしかしなくても、それが今朝から妙にご機嫌な原因?」
「他に何があるんだよ」
「そういうところ相変わらずだね」
岡持は言って肩をすくめた。まるでつまらない手品のタネを知った後のように。
「長針、妙な期待しているなら今のうちに追い払っておいた方がいいよ?」
岡持は老婆心からそう言ったが、長針は不思議そうに首を傾げる。
「なんでだよ? 面白そうじゃん?」
長針は神妙な面持ちの岡持に嬉々とした声で答える。
「マジで言ってんの?〝あの〟葉書坂アテナだよ?」
「そうだろ?〝あの〟葉書坂アテナが俺を個人的に呼び出してきてるから面白いんだろ?」
知ってなお楽しそうな笑みを絶やさない長針を岡持は信じられないといわんばかりの顔で見続けている。同時に思い直してはくれないかと祈るように。
――葉書坂アテナ。
容姿端麗、頭脳明晰、周囲を引き付ける資質を多数持ちながらにして付きまとう奇妙な噂が後を絶たないこの学校でもトップクラスの有名人。
なんでも、郊外の屋敷に使用人と二人で住んでいて、はっきりとした素性を知る者はいない。
大小数えればきりないほどの憶測が飛び交い、その相乗効果で彼女の周囲には普通の人物は寄り付かない。
ある人曰く、霊能力者。
ある人曰く、預言者。
ある人曰く、死霊使い。
とにかく話題に事欠かない人物である。
「ふぅ、付き合いきれないよ」
比較的変わり者の部類に属する岡持も葉書坂アテナには関わりたくないらしく、冷めたようにそう吐き捨てると長針の言葉を待たずに離席した。
「おい、どこ行くんだよ!?」
話はまだ終わってないと訴える長針の声に岡持は振り返りこそしたが、
「今週の新聞に載せる写真でも撮ってくる」
とだけ言い残すとそれ以上は何も言わずに教室を去った。岡持の言う新聞とは新聞部から毎週発行される校内新聞のことなのだが、今の長針にはどうでもいいことだった。
「んだよ、付き合い悪いなぁ」
岡持が去ったのを見計らって長針は鞄からそれを取り出した。今朝下駄箱に入っていた白い便箋。
表側には『to指針川長針様』
裏側には『from葉書坂アテナ』
その中に入った二つ折りの紙にはただ一言こう書かれていた。
『放課後屋上で待っています』
長針も岡持の言い分は理解できる。葉書坂アテナのうわさも知っている。下手すると前科のある他人の方が安全とさえ思えるほど数多の噂で装飾された人物である。
逆を言うと何一つ事実に基づいた事柄はなく誇張された噂にとらわれた悲劇のヒロインという可能性も往々にありえる。
(あ、こういう考え方のことか)
岡持に指摘された『そういうところ』の意味を理解した長針は内心でその慧眼に感嘆する。
長針は自他ともに認める頑固者である。
特に他人の評やレッテルというものは根本的に信用しない。どんなことでも自分で確認しなければ納得できないのである。
葉書坂アテナの噂や酷評を耳にする度いつか本人と話をしてみたい、そう思っていた。長針からすれば向こうからコンタクトをとってきてくれたのは渡りに船といえる。
いつだったか岡持にジャーナリストになればと言われたことがあったがそれが皮肉からきた言葉ではなかったのだなと今更になって気付いた。
怖いもの見たさ以外の理由としてこの手紙に嬉々としているのは純然たる男子として不思議なことではない。
放課後に女の子からの呼び出し、これで期待するなという方が難しい。
例え相手が曰く付き物件のような女子からだったとしても。
そして、仮にどういう方向に転ぶことになったとしても変化に乏しい日常を嫌う長針はいい刺激になると思っていた。
――少なくともこの時までは。
「んー? 指針川、それはなんだー?」
二度寝を始めて数分と経たぬ間に起床した時雨が手にした便箋を興味深そうに見ていた。
「おお、もう起きたのか。これはな、いうなれば非日常への招待状だな」
長針は冗談交じりで言ったつもりだった。
「非日常への招待状……指針川、それは案外間違いではないかもしれないな」
時雨はトーンの低い声でぼそりと言うと再び顔を伏せた。
「何回寝起きを繰り返すんだよ……」
呆れたようにつぶやく長針には取り合わず、時雨は寝息を立て始めた。




