008 イベント『婚約破棄』
★★★
「みんな……。えへへ、ピーチもね『ピーチの事が大好きな』みんなが大切な存在だよ!」
『ピーチ』
『愉快な逆ハー達』は感動にうち震えて、頬を紅く染めている。
(ひっでーー! ピーチ様に惚れてなきゃ無価値みたいな言いザマ。さすが『ヒロインんん』)
(っていうか、何してやがる! ヨソでやれヨソで!)
(『ヒロインんんと愉快な逆ハー達』が悪役令嬢の腹筋を割りにきている件について)
(笑える……! いや、ちょっと待って。腰痛い腰痛い! 腰にくる!)
ローズは思わずすがり付くように、添え木を布で巻いて固定している右腕を伸ばすが、誰かに届いたわけではない。
ただ、ほんの少し重みの増した音を、リンデンが拾い上げて、ローズの方を振り向く。
この時のローズは痛みに耐えて、笑いを堪えるのに超・必死だった。
結果、リンデンが目にしたのは――涙目で上目遣い、小刻みに震えながら自分に救いを求めて伸ばされた腕、やや乱れた薄手のネグリジェ、ほんのり赤く上気した胸の谷間――誘っているとしか思えない、ローズのあられもない寝姿だった。
ローレル、カメリア、ホーリー、メイプル――そしてローズは、リンデンの咽が「ゴクリ」と鳴る音を確かに拾った。
(リンデン王子?)と、内心で首を捻るローズ。
他の四人の気持ちは、
『ヤベェ……。リンデン、待て!』
と、意訳する事が出来るだろう。
「……よって、フォレスト王国の未来の国母に相応しいのはピーチだ。おお、私を甘い香りで誘い、蜜の王城に捕らえるとは、この罪作りちゃんめ。私の妻に相応しいのは、可憐に咲き誇り、たわわに実っているピーチしかいない! ローズ! 貴様との婚約はただ今この時をもって破棄する。どこぞなりとも消え失せろ!」
(決め台詞、乙?)
(……アコナイト殿下がずっと何かを喋っていたようだけど、こちら側のメンバー、っていうか、肝心な私が全く聞いていなかった件について)
(「消え失せろ」とか言った? いや、ここ私の家。むしろお引き取り下さい)
当人には安静を言い渡されているのにも関わらず、ローズの部屋は混沌としていて騒がしかった。
そんな中、周囲の喧騒など「我関せず」とばかり、目の保養に全身全霊を捧げていたリンデンが、ついに動き出す。
二歩、三歩と、平時の、第一王子としてのリンデンとはかけ離れた覚束無い足取りに、ローレル、ホーリー、メイプルが、いつでも飛び掛かれるように身構える。
「痛むのですね、ローズ嬢。おいたわしい」
優美な手付きで、ローズの目尻に溜まっていた涙を拭うリンデン。それから、青く発光する魔力を両手に纏い、右腕と腰の骨折部分に手をかざす。
ひんやりとした心地いい魔力に目を細めるローズ。直ぐに、春の討伐時に治療してもらった、水属性の痛みを和らげる魔法だと気が付く。
「お加減は如何ですか?」
「痛みがすっと引いて、気持ちがいいです」
「そう、良かった」
リンデンはローズに微笑み掛けて、かざしていた手を伸ばし、患部に直接触れて、じわりじわりと手を動かしていく。
リンデンの護衛の近衛騎士として、往診に付き従う事の多いローレルは気が付いていた。
痛みを和らげる魔法は本来、直接患部に触れて掛ける事はないのだと。触れるという刺激が、痛みを増すきっかけになっては、本末転倒である。
なんてことはない。おさわり成分を補充したかっただけの兄の行動が哀れで、目から零れそうになる汗を堪える為、ローレルはきつく目を閉じるのだった。
★★★
「聞いておるのか!!」
場の空気を停める程の一喝。先程まで騒音を発する空気扱いだったアコナイトが、業を煮やして放った自己主張だ。
リンデンの魔法の心地よさに身を委ね、油断しきっていたローズは、ビクリと体を震わせる。
ローズ自身が持つ魔力が不意に乱れた為、反射的に魔法の行使を打ち切るリンデン。
「この偉大なる私の話も満足に聞けないとは、これだから、ピーチ以外全ての女は劣っていて嫌なのだ。愚かなる貴様の為にもう一度だけ、言ってやろう。カーティス公爵令嬢ローズ! 貴様との婚約を今この時をもって破棄する」
一方的に捲し立てられたアコナイトの言葉に、顔を見合わせて僅かに首を振るカメリアとホーリー。ローズの為に……、導き出した答えは同じだ。
リンデンは、自らの手とローズとを未練がましく交互に見詰めながら、アコナイトのセリフを背中で聞いていた。それから徐に立ち上がると、窓辺へと移動し、人差し指でコツコツと軽いノックをする。
兄の行動を見ていたローレルは立ち上がり、リンデンが合図を出した窓を僅かに開ける。
何かを感知したホーリーが、窓の外を見遣る。その動きを受けて、手に持った扇子を数度振るカメリア。
後から闖入した、アコナイト殿下御一行には聞こえなくする風属性魔法だ。察したリンデンが苦笑を浮かべる。
「“手”を」
短く要望を発するリンデン。直ぐに、くぐもった声が隙間から流れ込む。
「カーティス公爵家に仕える執事が、宰相閣下へ向けてすでに要請を済ませております。ご帰宅に合わせて。もう間も無くでしょう」
くぐもった声が、そう言い終えるのに合わせたかのように、複数の馬や馬車の走る音が、近付いて来ているのがわかる。
「そう。“固めて”」
「御意」
短い返答を受けて、アコナイトの元へ歩き出すリンデンと、窓を閉めて後を追うローレル。
カメリアとホーリーも立ち上がり、アコナイト達に対峙する為に動き出す。
四人に視線で指示を受けた侍女のメイプルは、すぐそばでローズを守る為の位置に着く。
「アコナイト殿下」
扇子を手で弄びながら声を掛けるカメリア。
『ヒロインんんと愉快な逆ハー達』と向かい合った四人は、非常に今更ながら、自国の皇太子に対して臣下の礼を全く取っていなかったと思い当たる。
もちろん、最早これから先も取る事はない。
敬う気持ちはとうの昔に失せてしまった。なら、敬う必要をも無くしてしまえばよいだけだ。
★★★
「アコナイト殿下。我が娘ローズとの婚約を破棄するなどと。随分一方的なお言葉に、公爵家としても戸惑いを隠せません。元々王家の方から強く望まれての縁でしたのに」
「望んだのは私ではない。父が勝手に……」
「あら、そうでしたでしょうか?」
「……昔の話だ。今は疎ましく思っているのだぞ」
「殿下。王家と貴族家の約束事は軽んじられるものではないと、聡明な王子なら言わずともお分かりでしょう。それ相応の」
「理由ならあるぞ!」
カメリアの発言を途中でぶった切り、「我が意を得たり」と得意顔で叫ぶアコナイト。
「理由、ですか。して……」
「私の妃にこそ相応しい、至高の存在、奇跡の体現者たるピーチに対して、嫉妬に狂った醜い存在であるローズが、愚かにも危害を加えていたそうなのだ。全くもって度し難い」
この場にいる、ローズの味方となる者達の雰囲気が、極寒である事に気付かず言い立てるアコナイトは、ピーチを抱き寄せて、自らの正当性を主張したがっている。
「……ハハ。それはまた穏やかでは無いですね。兄として妹の事は信じております。が、一応、具体的にどのような事が起こったと認識されているのか、お伺い致しましょう」
ホーリーの挑むような視線を受けて、アコナイト、ヴァイン、トランク、リーフ、ウィロウの順に、ピーチの被害を声高に主張する。
「フン。『婚約者のいる男性と不必要に共にいると、あらぬ誤解を受けて名誉を損なう事になりますよ』などと、取り巻きを通じて脅したそうだ」
「教科書や私物、殿下や俺達が貢いだ品を盗んだり、やりたい放題なんだってな」
「舞踏会の会場で、ドレスを引き裂かれ、ワインを浴びせ掛けられたと、涙ながらに訴えて来たんだ。女神に対する悪行、許すまじ……」
「街を歩いていた時、暴漢に拐かされそうになり、大声で助けを求めたら、カーティス公爵家のある方向に逃げ出して行ったと。ピーチ嬢が、我が商会にも助けを求めたのだ」
「階段から突き落とされたと震えて、僕にしがみ付いてきたんだ。ローズ酷いよ。弟として、僕、情けない」
(うわ〜〜、テンプレ乙)
ローズは声に出さないように、かつ腰に響かないように笑うしかなかった。そう気を使ってはいるのだが、ウィロウの発言を受けた母と兄の『イラァ』が患部にキク。その事に涙目になってしまうのだった。
「婚約者のいる人物との、誤解を受けるような行動を諌めるのは、脅しでも何でもないでしょう」
「我が命に代えても惜しくはない、桃色妖精ピーチが我々に泣き付いたのだ。それは脅しになるだろう」
「……物を盗んだり壊したりというのは、いつの事ですか?」
「四月に教科書が破り捨てられているのを、校舎の裏で見つけた。五月には鞄が噴水に沈められているのを俺が拾ったんだ。六月に俺達がそれぞれプレゼントした物が盗まれたと相談された時は、皆で女子寮の部屋を捜したぞ」
(入ったんかい!? 女子寮の個室は男子禁制なのに。っというか、ツッコミどころしかない)
何故かいい笑顔で得意気に話すヴァイン。彼の言葉を受けて、リンデンとローレルは互いに顔を見合わせて、首を傾ける。
「アコナイト。その盗難や器物損壊にローズ嬢は無関係だ」
「なっ!? リンデン兄上ともあろう方が、卑しい重罪人を庇い立てるというのですか」
「当然だ。春の魔物の大発生。知らないとは言わせないよ。ローズ嬢は三月の終わりから七月の頭まで討伐で国中を巡り、また一ヶ月程は、協力体制を敷いた隣国の領土内に滞在していた。私とローレルとは、ほぼ同じ部隊にいたし、途中激励に参られた国王陛下もよくご存知の事だ。間違いなく、ローズ嬢は学園の敷地に近付く事はおろか、学園の情報を知る余裕すらなかった」
「それは……。おそらく取り巻きや金で雇った者にやらせたのですよ、きっと」「『おそらく』『きっと』……ね。話にならないな」
首を横に振るリンデン。先程から、推測でしか話をしていない彼らに疲れが蓄積していく。
「一ついいかな、アコナイト」
「何ですか、ローレル兄上。我が麗しのピーチの言葉のみが信じるに価すると、そうおっしゃりたいのですね」
「いや……。話からすると、アコナイト。君は、君達は、春の間も学園に通っていたのかい?」
「当たり前じゃないですか。何をおかしな事をおっしゃっているのですか兄上」
「私は何も間違った事は言ってないぞ。シード学園の最高学年は座学が極端に少なく、ほぼ実技だ。四月から六月いっぱいまでは、騎士コースの生徒は実習という形で、王都の警備に参加した筈だ。違うのか、ヴァイン」
「アコナイト。春は国にとって非常事態だった。皇太子である君は、国王陛下の補佐を担う為、また万が一に備え、城に詰めていなければならなかった筈だよ」
アコナイトとヴァインは、揃ってきまりが悪そうに目を泳がせる。