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「メイドの手記」の外側に  作者: 稲見晶
枝分かれした物語(パラレル、イフ設定など)
8/12

小夜啼鳥の短い生涯(下)

 その晩、お店の2階に寝床をもらう前に名前を聞かれた。つい数時間前まで舞台の上で名乗っていた名前を使った。

 ただ、あまりに時代がかった名前だったせいか、偽名であることが丸わかりだったみたいで、店の客はだんだんわたしを「セイレーン」と呼ぶようになっていった。

 静かな夜の海に歌い、人をまどわせ引き寄せる魔物。うん、なかなかすてきな呼び名じゃない。


 わたしは店の人やお客さんから大切にされて、毎晩好きな歌を歌ってすごした。ときにはリクエストを受けることもあった。

 わたし目当てでお店に来るひともずいぶんといたし、服やつば広の帽子や香水なんかのプレゼントもたくさんもらった。身を飾るものを買うよりは楽譜がほしかったし、もらったものを身につければ喜んでもらえたから、ほとんど贈り物だけで装って暮らしていた。

 

 お休みの日にはお客さんに劇場や音楽会に連れていってもらった。ときどきは食事もごちそうしてもらえた。

 ただ、家や宿屋に連れこまれないようにだけは気をつけた。もう物欲しげな目つきをむけられたり面倒事に巻きこまれたりするのはまっぴらだったから。

 ちょっと聞いたところによると、音楽を聴くとその世界に飛んでいって上の空になってしまうわたしを見ると、なんとなくその気も萎えてしまうというむこうの事情もあったみたいだけど。


 こうしてセイレーンは夜凪に腰を落ちつけ、夜ごとおとずれる旅人の心をその美しい歌声で慰めているというわけだ。

 そして今宵もわたしは歌う。

 

 いちばん好きな小夜啼鳥の詩を響かせる。お店の中では常連さんたちがお酒を飲むのも忘れたようにわたしの歌に聴き惚れている。

 あら、はじめての人かしら。お店の入り口の近くの椅子にだれかが座っているのに気づいた。

 もう初夏なのにフードで顔をほとんどすっぽり隠して。でも気にしないわ。わたしの歌を聴いてくれるなら。


 一曲を終えると拍手が満ちた。ほうっと胸が温かくなる。拍手のなか、フードの彼が立ちあがってまっすぐにわたしのほうへ歩いてきた。拍手がとだえてお店がざわつく。

 何のつもりかしら。わたしはすこし身構えた。

 彼はわたしの前で立ち止まり、「探したよ」とフードを脱いだ。

 金色の巻き毛と、天使みたいにきれいな白い顔があらわれた。


 信じられない。どうすればいいのかもわからない。ものも言えずに立ちつくす。

 クリスはわたしの腕をつかんで引っぱる。こんなに力が強かったかしら。わたしは呆然としたまま連れられていく。

「お、おい……」

 やっとお客のひとりが彼の行く手に立ちふさがってくれた。

「通して。僕はエルマー=エヴァレットだ」

 クリスが名乗った名前にざわめきが大きくなった。彼の足取りをさえぎってくれるはずのわたしのファンは、静かに道をあける。

 ねえ、どうしてよ。そう思ったけど、その人を責めるような言葉は口にだせなかった。クリス――今はエルマーなのかしら――に逆らえないのはわたしも同じだったから。


 店から連れだされ、路地を抜け、馬車に乗せられた。クリスは馬車のなかでずっと無言だった。

 着いたのは見おぼえのない邸宅だった。

 それでも連れていかれたのが練習室だとすぐにわかった。壁ぞいの棚にぎっしりと楽譜が詰めこまれて、楽器や書見台や譜面台が並べられて。


 クリスはわたしの腕を離してチェンバロの前に座った。空気が変わる。

 一瞬、世界のすべてが止まった。

 音が連なって和音をつくる。ああ、さっきまでわたしが歌っていた小夜啼鳥の歌じゃない。

 考えるよりも先に歌っていた。

 甘い響きがわたしを呼ぶ。するりと寄りそってわたしを包む。自然と声が引きだされる。

 どうして、わたしのしてほしいことを全部知っているの? おぼれてしまいそうに夢中なのに頭はさえざえとしていた。次にどうすればいいか、はっきりわかった。

 頭からつま先までが気持ちよくて、ぞくぞくした。


 曲が終わったあともわたしは恍惚とした余韻をいっぱいに感じていた。

 クリスはゆっくりとこちらに向きなおった。

「君、あんなところじゃ、もの足りないでしょ?」

 ずるい。今の音楽を聴かせて、たっぷりと歌わせてから、そんなこと聞くなんて。

 クリスはうなずくしかないわたしを見て薄く笑っていた。


 それからはずっとクリスの伴奏で歌った。彼は外では自分をエルマーと呼ぶようにわたしに告げた。それが今の名前だから、と。

 わたしは、彼がエルマー=エヴァレット役を演じているのだと思うことで、すんなりとそれを受け入れた。ただ、家のなかでは彼をクリスと呼びつづけた。


 イラ=アーヴァインの突然の復帰はちょっとしたセンセーションだった。そのきっかけがエルマー=エヴァエレットだったとあれば、なおさら話題になった。

 出演依頼はほとんど断らなかったけど、そのほかのインタビューとか取材はかたっぱしから却下した。

 舞台を下りてから追っかけをまくために、裏口や抜け道にもくわしくなった。

 クリス以外の共演者がいるときは、彼らとはほとんど口をきかなかった。

 音楽を究めるのに邪魔になる糸は見つけしだい切った。

 それにもかかわらずというのか、それだからこそというのかわからないけど、出演依頼は絶えることはなかった。


 あるとき、わたしとクリスはある王城の音楽会に呼ばれた。毎年の春にさまざまな音楽家を招いてひらかれているものらしい。

 音楽会の前日に王城に入って、音の響きを確かめる。ふかふかした絨毯や椅子に声が吸収されてしまいそうだったけど、まあ、なんとかなるくらい。

 いつもの演奏会よりも観客との距離が近くて、ちょっと凪の夜亭を思いだした。


 出された食事には香辛料がたくさん使われていた。においをかぐだけで喉がひりひりしそうで、わたしはほとんど手をつけなかった。食べたのはさらりとしたスープに果物。それと、薄めて温めたはちみつを一杯用意してもらった。

 クリスもかなりの偏食家だったから、コックたちはまるで作りがいがなかったことだろう。


 音楽会には豪華な身なりをした貴族が集まっていた。わたしを見る目にはやっぱり少なからぬ好奇がまじっていたけど、育ちがいいからか、それもずいぶんと上品なものだった。

 わたしは王から紹介をうけ、クリスの伴奏で歌った。

 音楽が満ちていく。このお城の一部屋が、わたしの息吹で森にも海にも、天国や楽園にだってなる。

 歌っているときにはわたしは世界でいちばん幸せな存在になれる。

 

 あっというまに歌う時間はすぎてしまった。

 さっさと帰って喉を休めたかったけど、この音楽会は最後に音楽家と言葉を交わせるというのが目玉になっているらしい。

 凪の夜亭でもおなじようなことはやっていたし、しかたないわ、とふかふかの椅子に座る。いざ取りかこまれてみると、賞賛の言葉を口々に贈られて、まあ、悪い気はしなかった。

 クリスはわたしのとなりで愛想よく受け答えをしていた。


 ほとんどの人が去っていったころ、ひとりの男性が近づいてきた。黒い髪に黒い服。肌だけが抜けるように白い。上質な紙に漆黒のインクで描いたみたいだった。

「……久し振りだな、アンドルー」

 彼はクリスにむかってそう言った。これまでに聞いた、私たちを褒めたたえる熱っぽい声とは正反対の、真夜中みたいに静かな声音だった。

「僕はエルマー。エルマー=エヴァレットだ」

 クリスはすました表情をやめて不機嫌そうな素の声で答えた。

「そうか、失敬」

 黒髪の男はたいしてそう思ってもいないみたいだった。

「……来てたの?」

「ああ。少しばかり王城に所用があってね。聴いていってはどうかと勧められたものだから。……演者が君だったとは知らなかったよ」

 男の顔に皮肉めいた笑みが見えた。クリスはふん、と鼻を鳴らした。


 黒髪の男はわたしに目を移してほほえんだ。唇だけを動かしたみたいに見えた。

「今晩は素敵な歌をありがとう。咲き誇る白い花の香りがした」

 耳慣れない賛辞に目をまるくした。彼がわたしの表情を見て言葉をつけくわえる。

「ああ、私は調香師をしているもので、つい香りに例えてしまう。今夜のお礼に香水を贈らせていただきたいのだけれど、よいかな、……エルマー」

「好きにすれば」

 クリスの返答に、男はまた冷笑をうかべた。彼の目がクリスとおなじ色をしていることにふと気づいた。

 その表情はすぐに彼の内側に沈み、灰色の瞳がわたしに戻る。

「それでは、近いうちに必ず。ロザリー=エインズワースという名を覚えていてくれれば幸いだ」

「ロザリー?」とわたしが聞きかえすと、「女性の名だけれど、こういう仕事をしていると意外と便利でね」と彼は答えた。

 それでは、とロザリーと名乗った男性もその場をあとにした。わたしへの物腰は穏やかだったけど、どこか冷たく硬い感じが残るひとだった。


 1か月くらいがたって、彼から香水が贈られてきた。彼の印象そのもののように静かな香り。澄んだ夜空と、どこか遠くから香る花を想像した。

 

 それからも歌いつづける日々をおくった。

 クリスはわたしが留学する前とおなじように、ときどきわたしの血を吸った。彼が噛むのはいつも、ひじの裏の、皮膚がやわらかくて血管が青く透けているところだった。

「……血を吸われるのって、声に悪そうな感じする?」

 一度、クリスはわたしにそうたずねた。

「あんまり。首を噛まれたり、もうちょっと多く吸われたらどうかわからないけど」

 正直に答えると、クリスは黙ってうなずいた。

 永遠に年をとらない吸血鬼と暮らしていたせいで、わたしは自分が死すべき人間だということをちょっと忘れかけていたのかもしれない。


 ある日に練習をしていて、わたしは自分の高音の伸びが悪いことに気づいてしまった。夜になってわたしの歌を聴いたクリスは「そうなの?」と首をかしげたけど、自分の体の感覚は自分がいちばんよくわかっている。

 これ以上ないほどに喉をいたわって数日がすぎても、違和感は消えなかった。

 それがなぜかに思いいたってわたしは絶望した。わたしの声のピークは過ぎ、老いがはじまっていた。

 なにをどうしたとしても、もう劣化はとめられない。せいぜいゆるやかになるだけだ。

 わたしはもう、セイレーンにも小夜啼鳥にもなれない。


「クリストファー」

「……なに?」

 深刻な声音のせいか、彼はめずらしく一度の呼びかけでこちらをむいた。

「わたしを殺して。わたしの血を全部飲みほして」

 クリスはすこし眉を寄せた。伝えなきゃ。あなたならわかってくれるでしょう?

「わたしはもう年をとったの。声が衰えているのが、自分でわかるの。歌えないならわたしが生きる意味なんてない。歌えないなら生きていたくない。だから、殺して」

 あきれたため息が聞こえた。

「なんで僕に言うのさ。自分の命くらい自分でどうにかしなよ」


 わたしは首を横にふった。

「あなたに血を飲んでもらえなきゃ、いや」

 クリスがなにかを言うまえに、必死で言いつのる。

「クリス。あなたはこれからも、ずっと、音楽と生きていくんでしょう。あなたのなかにわたしの血を丸ごと入れて。そうしてわたしを、永遠に音楽のそばにいさせて」

「僕のそばに、じゃないんだね」

 クリスはおかしそうに笑った。

「当然じゃない」とわたしは答えた。

「……いいよ。いつにする?」

「今晩、すぐに」


 寝室のベッドに横たわって胸のうえで指を組む。呼吸にあわせておなかが動くのが感じられる。ずっとわたしの声をつくってくれたこの体とも、もうおわかれね。

 クリスが上ってくると、ふたり分の重さにベッドがきしむ音をたてた。

 彼はわたしに覆いかぶさるような格好になる。彼は片手で器用にわたしの服のボタンをはずした。

「慣れてるのね」

「うん」

 首と肩があらわにされる。こんなに喉がすうすうするのは、人生のうちでも最初で最後ね。

 彼は右手をベッドにつき、左手でわたしの目をふさいだ。

「いくよ」

「ええ」


 首の付け根にとがった歯が突きたてられた。血を吸われて、喉元が熱くなる。

 からだが重い。クリスの唇がつめたい。そして、ああ、とてもねむい。

 なにか聴こえる。聖歌にも似た、きれいな、白いコーラス。

 きっと、女神が、むかえにきてくれたのね。


(終)

鉄紺さま、リクエストを下さりありがとうございました!

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