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「メイドの手記」の外側に  作者: 稲見晶
枝分かれした物語(パラレル、イフ設定など)
7/12

小夜啼鳥の短い生涯(上)

「永いメイドの手記」第200話記念リクエスト企画で、鉄紺さまより頂いたリクエストによる作品です。

リクエスト内容は「もしイラが鍵盤奏者に気まぐれに拾われた子であったら」です。

【注意:若干の性的表現を含みます】

 表通りから馬車も入れないような細い路地。建物のあいだをすりぬけて、何回か曲がる。突然にあらわれる真鍮のノブがついた木の扉。こんな薄汚いところには場違いなほどによく手入れされていて、つやつやと彫刻が輝いている。

 扉をあければ、ちょっとした紳士たちの品のいい社交場。知る人ぞ知る「凪の夜亭」。

 今のわたしはそこの歌姫。


 緑のドレスを身にまとう。今夜歌うつもりの五月の森の歌にあわせた色。全身鏡で身だしなみを確かめて、大きくゆっくりと息を吸って、吐いて。

 部屋の扉を開けて階段をおりれば、もうホールとは薄い扉一枚で隔てられているだけ。

 さあ、今宵も魔性のステージがはじまるわ。


 歌が終わり、簡単にしつらえたステージから下りる。わたしの信奉者のひとりがグラスを手に話しかけてきた。

「やあセイレーン。今日も素晴らしい歌声だったね」

「ありがとう」

 自然と笑みがうかぶ。音楽をほめられるのはいつだって嬉しい。

「そのドレスも似合っているよ」

「あら、そう?」

 首をかしげると彼はおもしろそうに笑った。

「まったく君は、本当に歌のことしか頭にないね」

 当然よ。音楽に捧げるには人の命は短すぎて、歌声の旬はもっと短い。余計なことなんか考えていられないわ。

 本心は隠して、きょとんとした顔をつくる。

「そんな君だからこそ、どうにも目を離せないのだろうな。一杯どうだい?」

 彼はグラスをちょっと持ちあげた。

「いらないわ。喉に悪いもの」

「そう言うと思っていたよ」

 赤いワインが彼の喉に消えた。


 この店は酒場にしてはちょっとめずらしく、タバコを吸う客もいない。わたしが歌うようになってから最初のうちは紫煙が立ちこめていたのだけど、いかにも喉に悪そうな煙たさだったから、ひとりひとりに甘えて、わがままを言って、やめてもらった。

「精霊はきれいな空気の中でしか歌えないようだ」と男たちは苦笑いしながらも火を消してくれた。どうしても、という時には外で一服してからお店に戻ってきているみたい。


「それにしても、このような酒場で聴くのがもったいないほどだ。……君、どこかで音楽を学んだことがあるだろう?」

 この人は優しいし、プレゼントもたくさんくれるけど、こうしてわたしの過去を聞きだそうとするのが玉にきず。わたしはいつもの通りに答える。

「違うわ。生まれたときから知っていたのよ」

「はは、君ならそういうこともありそうだ」

 あるわけないじゃない、おばかさん。


 生まれたときから歌を知っていたわけじゃないけど、わたしはほとんど生まれたときから音楽を教えられて育った。

 わたしの育ての親はクリストファー=クレイトンという、音楽界ではいろいろと有名な男。とりあえず、そういうことになっている。

 彼はチェンバロでもクラヴィコードでもオルガンでも、鍵盤楽器ならなんでも弾きこなした。ぱっと見たところは、ふわふわした金色の巻き毛に儚げな灰色の瞳をした青年。でも、そうやってひと目見たが最後、きっと女ならだれでも目を離せなくなってしまう。その美貌はまるで天使。

 そんな彼が姿に似合わない円熟した技能で演奏するものだから、わたしの知ってるなかではクリスの名を知らないものはいなかった。貴族たちのあいだでは、クリスを呼んで演奏させることがステータスになっていたりもするみたい。


 聴く人の心を奪う音楽の王子様。それだけならよかったのだろうけど、クリスはなんというか、途方もなく女癖が悪かった。

 彼は毎晩のように女の家に泊まりに行っていた。彼の生活は楽器を弾くか、女性といちゃつくかだけで成り立っていたといっても過言じゃない。

 わたしを拾ったのはクリスだったとしても、実質的にわたしを育てたのは彼の数多の恋人たちだった。クリスからは音楽にかかわること以外、なにひとつ教わった覚えがない。

 あらためて振りかえると、どこの誰の子かもわからないわたしが女の嫉妬で殺されることなくここまで育ってこられたのは、ほとんど奇跡ね。


 ただ、彼がわたしに手を出すことはなかった。むしろそういうことは喉に悪いからとかたく禁じられた。一度だけ近いことをされたけど、それも音楽のためだった。

 そのかわり、というのも変な話だけど、クリスはときどきわたしの血を吸った。彼は吸血鬼だったから。

 わたしは彼の弟子であり、生き餌だった。


 わたしは彼の奏でる音楽をそれこそ四六時中浴びるようにして育った。文字よりも先に楽譜の読みかたを教わった。

 幸運なことにわたしには、音を正しく聴きとれる耳と、それを覚えていられる頭、そして小鳥のような澄んだ声があった。

 わたしは無数にある音楽のなかでも、歌の道を進むことを決めた。うぬぼれなしに、わたしの声は才能だったから。

「すべてのものは、音楽をつくるための手段なんだよ」

 クリスはよくわたしに言った。彼の音楽への熱意はそのままわたしに引き継がれた。

 彼は演奏家で、声楽家ではなかったけど、音楽や歌について基本的なことは教えてくれた。わたしと彼の生活の中心は音楽だった。

 喉を守るためのいろいろな方法も彼から知った。休憩をはさんで、ハーブや野菜やはちみつなんかをまぜた緑の飲みものを飲んで、絶対に乾燥させないようにする。

 緑の飲みものは地獄の釜からすくってきたんじゃないかと思うような味だったけれど、歌のためだと自分に言い聞かせて、息をせずに飲みほした。

 

 クリスはわたしを大切にしてくれた。でも、それはわたしが美しく歌える喉をもっていたからで、わたしを愛しているわけじゃなかった。彼が愛していたのは、いつだって——女性を抱いている最中だって――音楽だけだ。 

 わたしがだんだんと成長し、声質も落ちついてきた頃のこと。

「君の声にも、そろそろ艶がいるね」

 クリスはわたしの歌を聴いてそう言った。それにはわたしも異議はなかった。

「場所を変えよう。おいでよ」と彼はわたしを寝室に連れていった。


 ベッドの上でクリスはわたしを裸にむき、とろとろに溶かした。自分は服一枚脱ぐことなく、指先だけで。わたし自身も知らなかった、甘ったるくていやらしい声がたくさん出た。

 ぐったりするわたしに、クリスは毛布をかけた。うっかり体を冷やしたりすることのないように。

「もう、こういうことはしちゃだめだよ。喉に負担がかかるから」

 彼はそう告げて、何事もなかったかのようにさっさと部屋を出た。

 こうしてわたしは、声に乗せる色気を知った。


 それからまた時間がたって、わたしは海をこえてある声楽家に師事することになった。

 クリスと同じ名字を使うと面倒がおきるからと、アーヴァインという名字をもらった。

 ついでにクリスの見た目の年齢とつじつまをあわせるために、出自もちょっと作りあげた。

 イラ=アーヴァイン。田舎の山村で羊相手に歌を聴かせる日々をおくっていたところ、偶然通りかかったクリストファー=クレイトンに才能を見いだされる。その後彼から基本的な手ほどきをうけ、声楽家を志して留学――。こんな具合に。


「気をつけなよ」と、彼はめずらしくわたしを気づかうような言葉を発した。

「音楽は壊れやすいから。目を離したらすぐに、君の手をすり抜けていくよ」

「ええ、わかってるわ」

 クリスはちょっと皮肉な笑みを浮かべた。

「わかってないよ。君、何も知らないんだもの」

「歌いかただけ知ってればじゅうぶんよ。そうでしょう?」

 クリスはただ首をふってわたしを送りだした。

 教えてくれればよかったのに、と今になって思う。彼はほんとうに、音楽以外のことはなにひとつ教えてくれなかった。


 声楽の師匠は、かつて一世を風靡した女声歌手だった。わたしが弟子入りしたときには、もう引退して後進の育成に力を注いでいた。

 わたしが師匠の家をおとずれた初日に、彼女はわたしに服を脱ぐように告げた。

「あなたの身体のことを全部知らないといけないわ」

 そういうものか、とわたしは素直に信じた。

 師匠のからだは熱くてぬるぬるしていて、クリスの指とは全然違った。


 はじめのうちこそ音楽の女神に抱かれているような夢見心地だったけど、わたしはそのうちに気づいてしまった。ああ、この人は人間なんだ。女神なんかじゃなくて、生々しい肉体をもった、俗っぽい人間。

 この人といても、音楽の究極には近づけない。

 わたしの気持ちはどんどん冷めていったし、師匠もまた新しくお気に入りの娘を見つけて、わたしを求めることはなくなっていった。

 1年もしないうちに、師匠とわたしは決まった時間に音楽を教え、教わるだけの淡々とした関係になっていた。わたしは師匠からもらった屋根裏部屋で、下から漏れ聞こえてくる嬌声から耳をふさぐように楽譜をたどっていた。

 2年くらいたって、わたしはまた住みかを変えることとなった。その国でいちばんと評判の歌劇団の入団試験に合格したから。

 

 歌劇団に入ったわたしはひたすら歌に没頭した。歌っていればわたしは幸せだったし、暮らしに困らないくらいのお金ももらえた。それにもちろん、音楽を聴くのにも不自由することはなかった。

 華やかな街に繰りだすこともなく音楽の女神を追いかけつづけ、わたしはすぐにヒロインの座を射止めた。

 その歌劇は、恋人を置いて海のむこうへ旅に出る男の話だった。わたしはその恋人役だった。

 手紙が来たといっては喜び、月が不吉に輝いたといっては嘆き、そのたびに歌う。最後には、荒れ狂う海で遭難した彼は、わたしが岸辺で歌う歌をたよりに帰ってくるのだ。


 わたしは頭のなかを音楽と物語でいっぱいにして、ほとんど役になりきっていた。なにを目にしてもすぐに歌が浮かんできた。

 ある日の稽古のあと、主人公を演じる男が声をかけてきた。彼はひとまわりくらい年上だったけど、うっとりするような甘い声をもっていた。

「今晩、食事でもどうだい」

 家で楽譜を見ているつもりだったから一度は断った。彼は笑った。

「せっかく君と恋人同士を演じるんだからね。恋人の真似事をすれば、もっと役に近づけるんじゃないかと思うんだ」

 そして、わたしはこの言葉もあっさりと信じてしまった。

「そうね、そういうことならいいわ」


 わたしたちはちょっとした食堂で食事をして、ショーを見た。そこでの音楽は素朴だったけど、わたしにとってはやっぱり興味深かった。

 彼はわたしのことをイラ=アーヴァインではなく、役の名前で呼んでくれた。わたしも彼のことを劇の主人公の名前で呼んだ。

 彼はお酒を飲んだけど、わたしは飲まなかった。役になりきっていても、次の日も稽古があることは忘れていなかった。

 彼はちょっと残念そうな顔をした。


 お店を出ると冷たい風がふいた。思わず服の前をかき合わせた。

 彼はわたしの肩を抱いて風から守ってくれた。そうして、自分の家にわたしを連れこんだ。

 突然にベッドに突き飛ばされた。

「なにするの」

 役の名前で彼を呼んだ。彼は「とぼけんじゃねえよ」と笑い声をあげた。

「あのクレイトンの下にいたんだろ? なら、今から何をするのか、わかってるよなあ?」

 甘い声がまとわりつく。大きな体がのしかかってくる。

 違う。違う。彼はこんなことしない。恋人を置いて海のむこうに行ってしまうような人なんだもの。それに、今のわたしはイラじゃない。


 彼の手が胸をわしづかんだ。このまま一晩じゅう彼の好きにされるのと、ちょっと無理するのを覚悟で大声で助けを求めるのと。どちらが喉の負担が少ないかすばやく計算をめぐらせていた。答えは後者だった。

 すばやく息を吸って、舞台さながらの声を出す。

 耳元でわたしの悲鳴を聞いた彼は、弾かれたように飛びのいた。毎日いっしょに歌っているけど、こんなに間近でわたしの声を聞くのははじめてかしら。

 その隙をついて彼の体の下からもがいて抜けだし、外へ逃げた。声を聞きつけてだろう、人が集まっている。

「お嬢さん、大丈夫ですか」

 ある男性がわたしを抱きとめた。息が荒くて、喉が渇いてひりひりした。わたしはなにも言わずに首をふった。

 その紳士に家まで送ってもらい、わたしはうがいをして、あの緑の飲みものを飲んで、たっぷりと眠った。


 翌日からの稽古も、それまでと変わることはなかった。わたしは歌いだせばすぐに役になりきれた。目の前にいるのはイラ=アーヴァインを襲おうとした劇団の先輩じゃなくて、遠い冒険に出てしまったわたしの恋人。

 公演でも普段とまったくおなじに音楽に没頭していた。緊張なんてちっともしなかった。

 歌うときにはいつだって精いっぱいで歌う。それがわたしにとっては自然なことだし、音楽の女神を振り向かせるためにできる、たったひとつのことだった。


 劇は当然に成功し、わたしは一気に注目をあびた。

 たくさんの役になりきって、たくさんの歌を歌った。歌に疲れることも飽きることもなかった。

 多くの人がわたしの歌をほめてくれた。でも、本当にほしいのは人間の言葉じゃないの。わたしのなかの音楽の女神にほほえんでもらいたいの。

 このまま歌って、歌って、歌いつづけて一生をすごせたら、なんてすてき。

 歌っているときにはわたしは何もかも忘れられた。

 ……そう。忘れたいことが、このときはたくさんあった。もちろん音楽の外で。


 あの彼との一件以来、しだいに気づきはじめたことがある。わたしは「イラ=アーヴァイン」そのものではなく、「クリストファー=クレイトンの弟子」として見られていた。

 劇団に入って間もなくから次々と主役を張ったのも彼のコネじゃないかと言われた。それは別にかまわなかった。そんなことを言う人たちは、わたしの歌を一度聴けばたいてい黙ったから。

 面倒くさかったのは、クリスの悪癖のせいでわたしまで男を取っかえ引っかえしているように思われることのほうだった。

 もうすっかりと懲りていたわたしは、ねっとりした視線や甘くて薄っぺらい言葉や体にのびてこようとする手を、必死で払いのけ続けた。

 やめて。かまわないで。歌に必要な艶ならもうクリスに教わったもの。

 そんなことを言えばますます男どもを喜ばせるだけだとわかっていたから、歌うときのほかはひたすら唇をつぐんだ。


 次々といい役を引き受けて、しかも男をたぶらかしてるとの噂まで立てられて、当然ながら劇団の女には蛇蝎のごとく嫌われた。

 舞台を下りてからわたしに話しかけてくる女はいなかった。遠巻きにされて、ひそひそと噂をされて。

 嫌がらせもずいぶんとされた。別にほとんど困らなかったけど。

 楽譜が消えていても歌は全部覚えていたし、衣服にも食べものにも執着があるわけじゃなかった。

 ただ、音楽の得になりそうもないことにばかり夢中になる彼女たちは、すごくばかばかしく見えた。


 それでもやっぱり、男の好色な視線にねぶられ、女の嫉妬の視線に焼かれることに、いつの間にか疲れはててしまっていた。

 とある公演の最終日、舞台を下りて自分の小さな部屋に帰る。その真夜中にわずかなお金と緑の飲みものの瓶だけを持って逃げだした。

 夜はクリスが生きる時間だったから、ちっとも怖くなんかなかった。


 わたしはあてどもなく歩いた。もちろん師匠を頼ることもできないし、クリスのところに戻ったとして、彼がわたしを歓迎してくれるはずもないことはわかっていた。

 ただ、好きに歌わせてくれる場所がほしかった。大道芸人として道ばたで歌いつづけるのも悪くないと思えたけど、きっとすぐに見つかって引き戻されてしまう。わたしにだって、そのくらいのことはわかる。

 わたしがいなくなったことは、いつ頃わかるのだろう。明日になって、稽古場に姿を見せなくて、部屋はもぬけのからで。それまでにできるだけ身を隠せる場所にいたかった。

 街のかすかな明かりから逃げるように路地へ路地へと入りこんだ。足元が悪くて何度か転びかけた。こんなところを進んでもどうしようもないと頭では思っていながら、足を止めることはできなかった。


 不意に耳が小さく音楽をとらえた。目をとじて、慎重にその音色をたぐる。引き寄せられるように足が動いた。

 楽器の演奏にあわせて歌が唇から紡ぎだされる。


 音色はだんだんとしっかりとして、気づけばわたしは大きな木の扉の前にいた。歌いながら迷うことなくその扉を押し開ける。

 演奏が直接体に響いてきて、ぞくっとした。その迫力に負けないように歌う、歌う。


 曲が終わったときには中にいた全員がわたしのことを見ていた。わたしは言った。

「ここで歌わせてちょうだい」

 こうしてわたしは、凪の夜亭の歌姫になった。

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