乙女の生き血
「イラ、これを覚えているかい」
ロザリー様はそうおっしゃって、とろりと深く輝く真紅の液体を机に置かれました。
「ええ、もちろんでございます」
それは以前にもロザリー様がお作りになっていた、薔薇の香水でした。当時の街は荒々しい侵攻のにおいに満ちていて、その香水は私が水盆に垂らしてゆらめきと香りを楽しむためだけに使われていたものでした。
「実は、今度こそこれを世に出してみようかと思うのだよ。それも普通の香水とは一風変わった方法で」
その香りは今嗅いでも濃密な気品を豊かにたゆたわせていましたから、きっと売れ行きも素晴らしいものになると確信していました。ただ、ロザリー様のおっしゃる「方法」がわかりかねて私は首をかしげました。
「いつも私が作る香水は肌に付けるものばかりだったけれどね。見てわかる通り、これはそのような用途には使いにくい」
ロザリー様は赤い液体を揺らされました。私はそのお言葉にうなずきました。
「そう考えて、少しばかり調合を変えてみたんだ。薔薇が主であることに変わりはないけれど、果実を加えて甘味と酸味を足している」
「甘味と……酸味?」
香りを描写するには聞き慣れない表現でした。ロザリー様が「ああ」とお答えになるのを見て、私はうかがいました。
「ロザリー様、それではまるで香水というより、ええと……、果実酒かなにかのようでございますね?」
「確かに近いかもしれないね。これは飲んで体を内から香らせる香水だ」
香水を飲むということはにわかには受け入れがたく、私はロザリー様のお顔をじっと見つめて、続けての説明を頂けるのを待っていました。
ロザリー様はそのようにぽかんとする私をむしろ不思議に思っていらっしゃるようでした。
「イラ、君も薔薇の香りの茶は飲んでいるだろう。他にも、すみれの菓子や種々のハーブを使った料理など、香りを口にして楽しむことは多い。この香水もその延長さ」
「はい、ロザリー様」
「他に効能を持たず、ただ香りだけを、美しさだけを求めるのが違いといえば違いかな。その違いゆえに私はこれを『香水』と呼びたいのだよ」
「ええ、そういうことだったのですね」
それでもお茶や香るお料理などに比べると目の前の色は艶かしく赤く、小瓶の様子もどちらかというと強い薬のように見えました。これは一瓶をそのまま飲み干すのでしょうか、それとも別の料理や飲み物に垂らすのでしょうか。
「もしよければ、飲んで感想を聞かせてもらえるかい。香りだけではなくて、味も」
「もちろんでございます。ええ、ぜひ!」
私は香水瓶から目を上げて、ロザリー様のお言葉に顔をほころばせました。実を言うと、この不思議な香水を試してみたい気持ちがふつふつと胸に湧いていたのです。
ロザリー様がグラスの水に一滴、二滴と香水を落としてくださいます。花びらがゆっくりと開くように赤色が滲み、尾を引きながらグラスの底へ沈んでいきました。細い混ぜ棒が音もなく二度ほどグラスの縁を回ると水の色は鮮やかな紅に染まりました。
グラスを受け取って口元に近づけます。それだけで体を清々しくするような芳香がいっぱいに感じられました。
呼び寄せられるように少量を口にすると、涼やかな酸味が駆け抜け、幾重もの薔薇が一斉に花開きました。一点の曇りもない華やかな幸せに思わず笑みがこぼれていました。
「気に入ってもらえたようだね」
私はロザリー様のお顔を見上げ、ふふふ、と笑い続けていました。口を開けば胸の中に敷き詰められた花が飛んでいってしまいそうで、香りの余韻が消える前に拍手をしてしまうのももったいなくて、ロザリー様にきちんとお返事ができたのも、グラスに再び口をつけることができたのも、しばらくは後になってしまいました。
長い時間をかけてゆっくりとその香水を楽しみ、私は胸いっぱいの幸福と、素晴らしいものに圧倒されたとき特有のしんとした虚脱を感じていました。
「さて、イラ。君のその顔を見て自信が持てたよ。もうひとつふたつ、君に協力してもらいたいことがあるのだけれど、よいかな」
「なんなりと、ロザリー様」
薔薇の香りは未だ色あせてはいませんでした。
「まず一つ目だ。これを売るにあたって、名前を決めなければならない。既に考えている名もあるのだけれど、君の考えも聞かせてくれないかい」
私はうなずき、「どのような名前をお考えですか?」とお尋ねしました。そのときロザリー様はどこかきまり悪いような、それでいて早く口を開きたくて仕方のないような、落ちつかない笑みを浮かべていらっしゃいました。
「その深い色合いと、若さを保つという薔薇の効能にちなんでね。『吸血鬼』はどうかと思っているんだ」
しばらくロザリー様のお顔を見つめ、私は迷いながらもお返事いたしました。
「……失礼を承知で申し上げますが……、あの、本気でおっしゃっているのですか、ロザリー様」
「もちろんさ」
ロザリー様はその名前の由来を説明してくださいました。私はその名前に対する懸念を申し上げました。
「君も知っての通り、人間はただ明るく健全なものよりもむしろ、恐ろしげなものに強く惹かれるようだ。秘密を抱いた血の薔薇は、その香りを永遠に留めるこの香水は、伝説の中の吸血鬼のようだと思ってね」
「でも、それでも……、ロザリー様の秘密までをも匂わせる必要はございません。このように美しい香水がどのようにして作られたものなのか、作ったのはどのような人なのか、香水の背後の物語を知りたいと考える者も出てくるのではありませんか。ロザリー様が注意深くいらっしゃることは存じ上げておりますが、それでもあえてそのような名を付けることは……」
ロザリー様は優しく私の頬に触れられて、「それならこの案は置いておいて、別の名前を考えてみることとしよう。二人で話し合えばよい考えが浮かぶはずだ」と私を安心させるようにおっしゃいました。
ロザリー様と私は夜の長い時間を使って言葉を交わしました。薔薇の持つ優雅で艶麗な特質について。体に響くような、香水の重層的な風味について。この香水を好み求めるであろう女性たちについて。そして、ロザリー様と私の、隠し通さなければならない永い命について。
新しい香水の名は、ロザリー様が最初にお考えになった名前を少しだけ変え、ぞっとするような色香と陰鬱をたたえたものとなりました。
「『乙女の生き血』か。印象的な名前だし、きっと目を引くだろう」
私は香水瓶を見て微笑みました。
「ええ……、吸血鬼は乙女の血を好むと聞いたことがあります」
ロザリー様は一度瞬きをなさって、「それも理由がないわけではないのだけれどね。完全な真実ではない」とお答えになりました。
「少なくとも私にとっては、誰の血であろうと全て同じだ。……君を唯一の例外にしてね」
わずかに哀しげな笑みを浮かべた灰色の瞳はこちらを見てはくださいませんでした。
遊戯盤の駒を動かすように『乙女の生き血』を少し机に滑らせ、ロザリー様はこちらへ視線を上げられました。
「夜遅くまですまなかったね。眠る前にもうひとつ、ささやかな頼み事を聞いていってくれるかい」
「ええ、ロザリー様」
「これから数日間、これを飲み続けてみてほしいのだよ。どのように内から香りが立ち上るのかを知っておきたい」
私はしっかりとうなずきました。
「そうだな、毎回の食事の後、軽く口をすすいでから飲むといい。試してくれるかい?」
「もちろんでございます」
「それならこれは、君に」
白い指が赤い瓶を再び滑らせました。私は冷たく固いそれを手の中に収めました。
私は朝と夕に時間をかけて香水を楽しみました。香りは私の喉に温められて甘く鼻に抜けていきました。『乙女の生き血』を飲んでしばらくは、心臓が赤い薔薇に姿を変えて脈打っているようでした。
五日ほど経った夕食の後に、口をすすいで香水をグラスに用意しようと台所に立っていた時のことでした。
後ろから腕が伸びて私の体を柔らかく抱き締めました。
「瓶は開けないでおくれ。そのまま動かないで」
ロザリー様が右手を私の手の甲に重ね、お顔を私の頭に寄せられます。髪を撫で下ろすように匂いを嗅がれているのが感じられました。
「……ここだと色々なにおいが交じってしまうな。イラ、おいで」
私はロザリー様に連れられて寝室へ向かいました。
何にも邪魔されない親密な部屋で、ロザリー様は私の首筋に鼻を寄せていらっしゃいました。
「なるほど、髪よりは肌に……。その人のにおいの薄い膜の下に花弁が入り込むのだね」
私はくすぐったさにもぞもぞと動きたくなるのをこらえました。
そっと自分の手首の内側を嗅いでみましたが、薔薇を感じとることはできませんでした。
ロザリー様は指先でも匂いを探ろうとなさるかのように、私の肌に触れられました。
「……イラ」
ため息のようにひそやかにロザリー様は私をお呼びになりました。その唇はまだ触れんばかりの近さにありました。私は「はい」とお返事して続きのお言葉を待ちました。
「イラ。君はその身に何も纏わないのがいちばん美しいようだ」
体の中の『乙女の生き血』が燃え上がったかと思いました。胸の薔薇が頬に、耳に、音を立てて血を流し込みます。
「ロ、ロザリー様、何をおっしゃって……!」
ロザリー様が私の首筋から顔を上げられました。そしてご自身が口になさったことにたった今気付かれたといったご様子で、慌てて私に触れていた手を離されました。
「あ、ええと、イラ……。すまない、香水の話のつもりだったのだけれど、その……、いや、おかしなことを言ってしまったね」
私は恥ずかしさに俯いたまま申し上げました。
「いいえ、私のほうこそ申し訳ありません、は、はしたない誤解を……」
ロザリー様は「いや……」と控え目に私の頭を引き寄せられましたが、一瞬後には離されました。
「……また、君に何か不用意なことをしてしまいそうだ。今晩はもう眠っておいで」
すまない、とロザリー様は再び謝罪を口に出されました。私は首を振り、けれども「承知いたしました」とお返事申し上げました。
ロザリー様は静かに部屋を出て行かれました。眠るにはまだだいぶ早い時間でしたが、私はベッドに横になり、私の薄い皮膚の下に潜んでいるという薔薇の甘い香りを知ろうと、体を丸めて深く息を吸いました。
温かくゆったりとした呼吸のおかげか、自分でも気付かないうちにぐっすりと眠りについていました。
翌朝からは『乙女の生き血』を飲むことはありませんでした。この香水がどのように香りをもたらすか、ロザリー様は既にすっかりとご存知でしたし、私へのあのお言葉は鮮やかに胸を熱くさせました。
冬に向けて香水をお作りになる合間に、ロザリー様は私の髪や肌に頬を寄せられました。ロザリー様は私のことを「柔らかな光の匂い」と形容なさいました。
『乙女の生き血』はその名前に少し眉をひそめられることもありましたが、もちろん香りが素晴らしかったこともあって、人の関心を引いたようでした。
次の春にもロザリー様は多くの薔薇を使って『乙女の生き血』を作っていらっしゃいました。
私はその甘酸っぱく馥郁とした香りの中でお手伝いをいたしました。
細いガラスの管から真紅の液体がぽたり、ぽたりと落ちます。それにとろりと煮詰めた果汁を加えて混ぜて、目にも舌にも、もちろん鼻にも鮮やかな『乙女の生き血』は作られるのでした。
できたばかりのほの温かい香水を少量グラスに取られ、ロザリー様はおっしゃいました。
「イラ、今年初めての香水を君にあげよう。新鮮でこの上なく馨しい」
ロザリー様の手の中で、『乙女の生き血』が踊りました。私はその指先に手のひらを添えました。
「ありがとうございます、ロザリー様。……実はもうひとつ、ほしいものがございます」
「なんだい? なんでも言ってごらん」
私はロザリー様の優しい灰色の瞳を見上げました。
「次の、新月の晩に……」
温度のない白い指、けれども私を永らえさせる血を持った指に唇をそっと触れさせます。濃厚で甘い赤薔薇が胸に開きました。頭の上でロザリー様がささやかにお笑いになる声が聞こえました。
「もちろんさ。可愛い私だけの吸血鬼」