雨の音色のつくりかた
【注意:若干の性的表現を含みます】
厚い雲が夜を早く連れてくる。地面を叩いていた雨は見る間に本降りになった。
楽器にまで水が浸みないうちに、どこか屋根を探さなくちゃ。走り出すと泥とゴミが足を汚した。
見つけたのは、ひさしの下の石の階段だった。不思議とここだけは掃除が行き届いている。腰かけて楽器のケースを膝に乗せて抱える。
これでちょっとは安心だ。小さく息をついて、絶えまなく落ちる雨粒に耳を傾けた。
雨音は一定の強さと高さを保っている。滴の落ちるリズムは単純に繰り返されているようでいて、とらえどころなく変わり続ける。
楽譜に起こすなら変奏曲。同じフレーズを少しずつ変化させて。それとも風や雷を交えたロンドにしてみようか。ケースの平らの上に指先を落としてみた。柔らかくて、小さな波紋を残して水たまりに消えていくような、そんな音を。
耳に届くテンポはゆったりとした呼吸に似ている。抑揚をおさえた旋律。雨そのもののように、もとから自然の中にあるものみたいに。見えず、鳴らない鍵盤は頭の中だけに音を聴かせてくれる。
「もし……」
背後からの声に音楽が途絶えた。一度だけ瞬きをして、集中の切れたいらだちを出さないように気をつけた。
振り向いてみると階段の先の扉が開いている。そこに立っていたのは年老いた男性だった。長い丈に立襟のその格好は司祭らしい。背後の建物が教会だと初めて気がついた。
司祭と目を合わせる。驚いたような瞬きと控え目な感嘆のため息。その表情はすぐに穏やかな微笑みに戻る。彼はちゃんとした、信心深いほうの聖職者みたいだ。
「雨に降られてお困りなのでしょう。いかがですか、少し入っていかれては」
「ううん……」
石段に座ったままで首を振る。水滴が髪を伝って肩に落ちるのを感じた。
おや、と言いたそうに司祭は首をかしげる。理由が必要かな。
「雨音が好きなんだ。しばらくここにいさせてくれる?」
無邪気に笑ってみせると司祭はゆっくりと二度うなずいた。
「そうでしたか。そういうことならば、もちろんです。くれぐれもお体を冷やしませんよう」
「……ありがとう」
「必要なときにはいつでも中へおいでください。教会は常に、すべての人に、開かれております」
すべての人に、ね。思わず皮肉まじりの笑みが漏れた。その様子には気付いた気配もなく、司祭は教会の中へ戻っていった。
音楽を呼び戻すまでには少しかかりそうだ。
水たまりにはねて消える雨粒を眺める。この様子だと何日か降り続くかもしれない。夜が明けるまでにどこか行く場所を決めないと。
教会に身を寄せても正体に気付かれない自信はある。聖歌隊の伴奏をしたことだってあるくらいだ。ただ、できればそろそろ「食事」をしておきたい。
この天気だと外の花も少ないだろうけど、待っていれば何人かは見つかるだろう。地面に描かれる模様を見ているのにも飽きて、目を閉じることにした。
やがて待っていたものが聞こえ始めた。猫のように甘く高く作った声色。ぴったりとくっついて歩く二人分の靴音。
顔をあげると隣の通りにこうこうと明かりを灯す店が並んでいた。雨が降り出す前に感じとった歓楽街の雰囲気は間違ってなかったみたいだ。
それならこの近くには娼婦たちの家があるはずだ。もしかしたら家というより寝床というほうが近いかもしれない。
もうしばらく待てば、きっと稼ぎを終えた彼女たちが帰ってくる。狙い目はそのときだ。
止む気配のない雨に楽器の音色を思い浮かべて待ち続けた。
月の動きも星の動きも厚い雲に隠され、いよいよ時間が止まってしまったように思えてくる。
頭の中の旋律は絶えまなく続いている。動きながらも変化することはない繰り返しは自分自身を歌っているようにも思えた。
こうして空から落ちてくる雫を見るのも、もう何千回、何万回目だろう。昔から雨は好きだった。太陽の光も周囲の物音も覆い隠してくれる。
せせらぎに手を浸すように、指先で音を遊んだ。
不意に水を蹴り上げる音が通りの向こうから駆けてくる。ずっと待っていた。
「もう、せっかく出てきたってのに仕事になりゃしなかったわ」
「だから悪かったって言ってるじゃない。ほら、明日の客はあんたにゆずるから」
二人分の声がかけ合いながら教会に近づく。手にはランプが揺れているけれど、こちらに気付く様子はなさそうだ。
彼女たちがすぐ目の前に現れるのを待って、小さなくしゃみをひとつ作った。足音が止まる。
「……なに? だれかいるの?」
向けられた明かりが眩しい。ゆっくりと瞬いて、座ったまま彼女たちを見上げた。二対の目をじっとのぞき込む。娼婦たちは息をするのも忘れてしまったようだ。
そう、もっともっと見惚れればいい。心を離せなくなればいい。
あとは小さなきっかけを作るだけだ。くしゅん、とささやかなくしゃみをもう一度。
「どうしたの? こんなところで……」
ランプをかざしているほうが優しく尋ねてきた。すぐには答えない。か弱げに視線を迷わせてから。
「行くところがないんだ。……よかったら、泊めてくれない?」
薄暗くて狭い部屋だった。
「待ってて、今火を入れるわ」
彼女はてきぱきとタオルを手渡し、小さなかまどへ向かった。さっきランプを手に声をかけてきた女性だ。赤毛に緑の目をしている。頬にぽつぽつと吹き出物の跡があるけど、体つきは全体的に柔らかそうで、じゅうぶん「当たり」と言えるだろう。
「ついでにホットビールでも作るわね。温まるはずよ」
「うん」
椅子に座ってその様子を見ていた。これまでに会った数えきれない女性と同じように、あれこれと世話を焼いてくれる。
これなら追い出されることもなさそうだ。どちらかというと、雨が止んでから後腐れなく出て行く方法を考えておいたほうがいいかもしれないな。
「ほら、できたわ」
カップを差し出すと同時にその目が改めて注がれる。
「本当にきれいな顔ね。男の子なんでしょう?」
そのため息には羨望も含まれているだろう。
「そうだよ」
笑み交じりに応えた。するりと腕を伸ばして彼女の首に巻き付ける。あえて唇の端にキスをした。ふっくらしている。彼女以外のにおいはなくて、本当に客を取れない夜だったみたいだ。
「……確かめてみる?」
挑発的に囁く。食事はもうちょっと後にするとしても、それまでに気を許してもらえれば好都合だ。
「もう、悪い子ね」
彼女はくすくすと笑って腕をほどいた。
悪くない反応だ。明日か明後日か、遅くてもそのくらいには。瞬きの裏に画策を巡らせた。
カップからは酒の匂いのする湯気が上がっている。啜ってみると嫌いな苦いビールだった。舌が痺れるような感覚に、彼女に隠れて眉を寄せる。
すぐ近くに座る彼女はぐい、とビールを飲んで口を開く。
「ねえ、あなた、名前はなんていうの? あたしはロザンナ」
その名前にまじまじと彼女を見てしまった。薔薇にちなんだのだろうその名前に、「同類」の彼の姿が浮かぶ。
もうひとりのほうにしておけばよかったかな。ちらりとそんな考えが頭に浮かぶ。ここまで来たらもうしょうがない。
どうせなら久しぶりに、この名を使ってみよう。
「アンドルー。……アンドルー=エインズワース」
「いい名前ね」
彼女は甘ったるい声でアンドルー、と繰り返した。
口から出任せの身の上話を続ける。どうせ長居するつもりもないし、凝った嘘をつく気にもなれなかった。カップの中のビールは全然減らないまま冷めていく。
目の前の赤毛の女性は疑う素振りも見せなかった。親身な顔で頷いて、こちらの気を引こうとしているのが手に取るようにわかる。
つまらない。唇を閉じてかさついた木の床に視線を落とした。そんな些細な仕草も彼女は見過ごさない。
「アンドルー、疲れさせちゃったかしら? ベッドを使う?」
「……うん」
部屋の壁に付けるように置かれている大きなベッドに歩み寄った。雨に濡れた衣服を脱ぐ間、露な肌に視線が注がれるのがわかった。一緒にベッドに入ってくるつもりかもしれない。拒むつもりはもちろんなかった。
でも、今は少し引いた方がよさそうだ。彼女はきっといろいろ教えたがるタイプだろうから。
「……おやすみ」
ベッドにもぐり込む。あの女性に背を向けるように横を向く。ちょっと考えて、薄い毛布を体に強く巻き付けた。
足音が近づいて来る。
「寒いの?」
「……ちょっとだけ」
彼女のほうを見ずに答えた。頬に触れられる。
「入ってもいいかしら。温めてあげる」
返事をする前に衣擦れの音が聞こえた。黙っているうちに毛布が持ち上げられて熱く柔らかい肌が忍び込んで来た。
「……本当に冷えてるわ。風邪を引きそう」
女性の腕が搦みつく。毛布の下で脚も挟み込まれていた。
「ねえ、僕をどうしたいの?」
「ゆっくり寝かせてあげたいのよ」
背中に豊かな胸が押し付けられる。温かな指先は何かを探そうとするように体の上をむず痒く這っていた。
「……うそつき」
彼女の腕の中で向きを変えて、じっくりと蕩けるキスをしてあげた。
雨はなかなか止まなかった。
ほとんどの時間はベッドの中か、スピネットを弾くかして過ごしていた。日が落ちた後には雨に打たれてみることもあった。雨は本当の体温を隠してくれる。
「そんな薄着で外に出て。本当に体を壊すわよ」
「音楽が生まれそうな気がするんだ」
服をぐっしょり濡らしてしまって、1枚のシーツを身に纏っていた。古代の彫刻のように座る。憂いを湛えた表情を作って彼女に流し目を送った。
彼女が作る食事は食べる気になれないものばかりだった。
青臭くてどろっとした豆の煮込みに目を落としてスプーンの先でつつく。一粒に一音を割り当てて演奏してみようか。
「もう、何してるの」
咎めるというよりはからかうような口調だった。説明するのも面倒くさい。
「……豆を数えてたんだ」と適当な返事をした。
彼女は首を傾げた一瞬後に笑い出した。
「本当に、不思議なくらい食が細いのね。何か食べたいものはないの? 作ってあげるわ」
それを聞いて口だけに笑みを浮かべた。
「君……」と本心を呟いて緑の目をじっと見つめる。白い喉に向けて伸ばした手が絡めとられた。
「あたしはデザートよ。ごはんをちゃんと食べてから」
「なら、いらない」
「もう、冗談よ」
結局豆の煮込みには手を付けなかった。
危うい言動をするほど、自分を儚く見せるほど、彼女が虜になっていく手応えがあった。
夜には肌を合わせた。雨の中ではどうせ客も取れないからと、彼女は仕事に出ようとはしなかった。
甘く、優しく、快感を呼び覚ます。彼女たちは客を喜ばせるのに慣れてはいても、自分がいい思いをすることは滅多にない。
その不均衡を少し除いてあげるだけで、夢見がちな生娘よりも、退屈している貴婦人よりも容易くこの手に堕ちてくる。
そんなことを考えている間に、喉元に唇の赤い跡を付けられていた。
「ねえ、ずっとここにいてくれるでしょ?」
甘く妖艶な声。
「どうしようかな」
「その跡が消えるまではどこにも行けないわよ」
彼女は少し勝ち誇ったように笑う。こんなもの、1時間も経たないうちに消えてしまうだろうけど。
でも、ちょうどいい機会かもしれない。
「それじゃあ、僕も」
跡を付けられたのと同じ場所に唇を落とす。疑いもなくそれを許す彼女の無防備さに笑みが漏れた。
柔らかな肌に浅く歯を立てる。ぷつりと赤い血が滲み出た。
「……いたっ」
「ごめん、つい……」
しおらしく謝ると「大丈夫よ」と優しく頭を撫でられた。
「痛くない?」と傷口を舐める。時間をかけて夢中にさせただけのことはあった。好意や愛は血液を甘い蜜にする。
「ええ。ちょっとびっくりしただけ」
他のところにも口づけながら血を吸った。
ほんのちょっと彼女がふらつくくらいの血液をもらう。
その対価として愉悦と夢で彼女を満たす。
高く嬌声をあげていた彼女は、今は力なく眠り込んでいる。血を失っていることだし、しばらくは目を覚まさないだろう。
そう確認してベッドから下りた。
火の側に置いて乾かしていた衣服を身に着け、楽器のケースを持ち上げる。
何も残していくつもりはない。感謝の言葉一つだって。
雨はだいぶ小降りになっていた。
さあ、今度はどこに行こう。まずは落ちついて楽譜を書き起こせるところかな。
ほんの数日前に思い浮かんだ音楽を引き出してみる。響きは雨音に応じるように強くなり、弱くなり、頭の中を潤した。