湖の夜曲 〜イラに捧ぐ〜(下)
静かに隔てられた冬も過ぎ、雪解けの音が聞こえ出す。久しぶりに楽器を携えて外に出た。
季節を越えて私の腕前も少しは上達しているだろうか。
「イラ」
「はい」
視線を交わして頷き合う。私が弦を爪弾き、イラが息を吸って歌い出す。音楽は冷たさを残す空気に溶けた。
気付けば辺りが仄かに光っている。妖精が再び聴きに来たのだろう。
イラも気付いたようで私に微笑む。その姿が柔らかく照らされる。知らぬ間に手が止まっていた。
触れればその美しさを壊してしまいそうで、彼女をただ見つめるばかりだった。
湖の周りに色彩や香りが咲く。摘んで香水にする前に、花の中で笑うイラを見たかった。
春の訪れを歌う彼女は暖かな風であり、芳しい花だ。
ふと耳慣れない音を聞いた。顔を上げると木々の間に人影が見える。
今までの甘やかな感情が一瞬で醒めた。何者かは知らないが、少しでもイラに危害を加える心算ならば容赦はしない。
「ロザリー様……?」
イラも不安そうに歌を止めた。彼女のもとへ急ぎ、人影との間に立つ。
「何かいるようだ。君は家に――」
くすりと笑い声がした。聞き覚えがある。だからと言って警戒を緩められる訳ではないが。
「……アンドルー」
暗闇に呼び掛けた。
「やあ、ロザリー」
金色の巻き毛が姿を現す。イラが脅えて私に身を寄せた。
「……こんな所に何の用だ」
「別に。近くまで来たら音楽が聴こえたから」
彼は涼しい顔で答える。旅の途中なのだろうか、四角く大きな鞄を提げている。
ついのうのうと住み続けてしまっていたが、早くこの家を出ておくべきだった。舌打ちをしたくなるのを堪える。
「君の歌、久しぶりだ」
アンドルーの言葉にイラは答えない。私の腕を不安げに掴んでいる。
「伴奏してたのは君? ロザリー」
「ああ」
何を企んでいるのだろうか。アンドルーは再びにこりと笑った。
「ねえ、僕も入れてよ」
思わず眉を寄せた。
「何のことだい」
「音楽だよ。決まってるでしょ」
「君の弾けるような楽器はないはずだけれどね」
「あるよ、ほら」
アンドルーが手にしていた鞄を開ける。2列に並んだ鍵盤が見えた。
イラも少し私の後ろから身を乗り出す。
「それは……?」
「持ち運べるんだ。音はちょっと小さいけど。……どこかに置ける場所ない?」
「周りを見たまえ。あると思うかい?」
彼は少し肩をすくめ、同じ鞄から板のようなものを取り出した。折り畳みのできる台らしい。
「……最初からそれを出せば良かったのではないかな」
つい口に出た。
「組み立てるの面倒なんだ。たまに指挟むし」
淡々と台が組み立てられていく。止める機会を見失ってしまった。
最後に安定を確かめて楽器が置かれる。アンドルーは鍵盤を鳴らしながら楽器の螺子を巻くような仕草をする。
「何をしているんだい」
「調律。君のリュートに合わせてる」
先程遠くで聴いただけの音に合わせられるのか。感心してしまったが、表には出さないよう気を付けた。
アンドルーは一度頷き、改めて鍵盤の上に指を置いた。以前に聴いたよりも素朴な音が鳴る。
音色は弦楽器に似ているようだ。ただ、私が奏でるよりも遥かに情感が込もっている。
私の腕に触れるイラの指から強張りが解けた。彼女が聴き入っているのが分かる。悔しいとすら思わなかった。
曲が終わった。アンドルーは私を見て口に笑みを形作る。
「なるほど……。自分でも楽器を奏でてみて実感したよ。君は……、いや、君の音楽は、素晴らしい」
素直にそう言う他はない。ただ、彼は不満そうに眉を寄せた。
「今までわかってなかったの?」
本気で信じられないと言いたげな表情だ。褒めてやらなければ良かったか。
「ねえ、君たちができる曲は?」
少し躊躇った後に昔からの民謡を挙げた。私が楽器を始めて間もない頃に覚えた曲だ。
「ふうん、聴かせて」
「……イラ」
彼女が嫌がるようならば断るつもりだった。イラは少し迷った後に私を見上げて頷いた。
「いいかい」と確かめて楽器を構える。
私の演奏は下手だろうが、彼女の歌声には文句はなかろう。イラ、存分に聴かせてやるといい。
曲が終わる。アンドルーが小さく拍手をした。
「ねえ、もう一回やってよ。今度は僕も入ってみるから」
歌ったおかげかイラの表情は和らいでいる。
「ああ」と頷いて同じ旋律を爪弾いた。すぐにイラの声が重なる。ここまでは慣れ親しんだ音楽だ。
気付かないほどにさりげなくアンドルーが加わった。さざ波のように揺れながら繰り返される音色。
イラの歌に輝きを添えるようだ。なるほど、これならば悪くない。
長い余韻が残り、やがてそれも消えた。
アンドルーが溜め息をつく。
「君、けっこう伴奏者を振り回す歌い方するよね」
「あら……、そうですか?」
イラが驚いて瞬く。
「うん。ロザリー、よく合わせられるね」
そう言われても言葉の返しようがない。イラの伴奏ができないならば私が楽器を弾く理由も無くなってしまう。
「まあいいや。ほかには?」
私が演奏できる曲をいくつか挙げた。アンドルーは頷いて「じゃあ、順番にやってみてよ」と言った。
これまでイラと二人で奏でていた音楽に鍵盤楽器の音が加わる。
彼は色彩を加えながらいつの間にか曲の流れを統制していた。音量や速度が盛り上がりに向かって自然と導かれる。
風を受けて進む帆船に乗ったならば、このような気分になるのではないか。ふとそう連想した。
アンドルーがうるさそうに辺りを手で払う。
「ねえ、何かいるみたいなんだけど」
耳を澄ませると、さらさらと羽音がした。
「妖精だ。音楽を聴きに来たのだろう」
ふうん、と鼻を鳴らすように返事をする。
「何でもいいけど、僕の邪魔しないでよね」
突き放すような口調に見えない気配が鎮まった。
何曲目かを終えたときにイラが小さく息をついた。
「疲れたかい、イラ?」
「ええと、少しだけ……」
確かにもう人間にとっては遅い時間だろう。
「アンドルー、それでは終わりにしよう。なかなかに新鮮な体験だったよ」
「もうちょっと続けようよ。その子は寝かせておいてさ」
何を言っているのだろうか。彼と二人で演奏したところで先程のように楽しめるとは思いにくい。
彼とて私と共にいるのは好まない筈だ。
「君に子守唄を聴かせてあげるよ、籠の鳥」
既に決まったことであるかのようにアンドルーがイラに笑いかける。
「イラ、気にすることはない。行こう」
細い肩に手を置いて彼女を促す。うなじが少し迷いを見せた。イラの瞳が私を見上げる。
「あの……、もしよければ、演奏をお聴きしたいのです。ロザリー様が楽器を弾かれるのはいつも私が歌う時ですから、考えてみれば、楽器だけの曲はあまり聴いたことがないように思えて……」
躊躇いがちに視線が逸れた。
「君の頼みとあらば、仕方がないね」
微かに申し訳なさそうな色を残しながらもイラは笑んだ。
彼女の肩を改めて抱き寄せる。その頭がひそやかに甘えかかってきた。
「それでは、彼女を送ったら戻ってこよう」
アンドルーを向いて告げる。
「番犬ぶりに磨きがかかったんじゃない?」
嘲るような表情だ。今の私には露とも響かないが。
「なんとでも言いたまえ」
寝室に入るとイラは窓を開けた。春とはいえ、湖を渡ってきた風はまだ冷たい。
「寒くはないかい」
「こうすれば、音楽がよく聞こえるでしょう?」
純真に笑う顔が愛しい。その額に口づけた。
木々のざわめきに紛れ込むように楽器の音が聞こえる。アンドルーが手遊びに弾いているのだろう。
「それでは、ゆっくり眠っておいで」
イラがベッドに横たわる。夜気に身体を冷やさないように毛布をかけてやった。
屈んだついでに唇を重ねる。
彼のことなど放っておいて、このままここで彼女と夜を過ごしてしまおうか。心に浮かんだ誘惑に必死で抗う。
「……行ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。
玄関を出る。アンドルーが楽器から顔を上げた。
「待たせたな」
「ううん。思ってたより早かったよ」
怪訝な顔が表に出ていたのだろう。彼は「どうせあの子と楽しくしてたんでしょ?」と見透かしたように目を細くした。
それには答えずに楽器を手に取る。
「始めよう」
「……何してたの?」
からかう声音。
「教えるものか」
この手の話はまともに相手をしないのが最良だ。アンドルーは声をあげて笑った。
「ねえ、なに弾く?」
知っている音楽の中から穏やかなものを思い出す。当然ながら本来は歌が主になる曲だ。
その名を挙げるとアンドルーは「うん、わかった」と頷いた。
弦楽器と鍵盤楽器の響きが夜の中に放たれる。イラにも届いているだろうか。
歌われるべき旋律はアンドルーが巧みに補っていた。
こうして一対一で向き合うと彼の技量をまざまざと見せつけられるようだ。精神を研ぎ澄ませて音色を溶け合わせる。
最後の一音を奏で終えて思わず息をついていた。
「……イラと演奏する時とはまた違うものだな」
「僕と演奏できる機会なんて、そうそうないよ」
「ああ、そのようだ」
頷くとアンドルーは満足そうに笑った。
アンドルーはまるで子供のように次々と音楽をせがむ。
私は夜にふさわしい静かな曲を選び、ベッドの中のイラを思い浮かべながら弦を鳴らした。
イラはまだ起きてこちらに耳を傾けているだろうか。それとももう眠りに就いてしまっただろうか。
淡紫の花を想うこの調べが、彼女に寄り添って美しい夢を見せてくれるように。
湖からの風が音楽を静かに掬い上げていった。
(終)
松戸はつたさま、リクエストを下さりありがとうございました!