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「メイドの手記」の外側に  作者: 稲見晶
手記に重なる言の葉(本編の世界観に基づく短編)
3/12

湖の夜曲 〜イラに捧ぐ〜(上)

松戸はつたさまから頂いたリクエストによる短編です。

リクエスト内容は、「もしロザリーも音楽を始めたら」です。

 閉め切った部屋の外からイラの足音が聞こえる。

 夏の太陽は眩しく、沈むまでにはまだ暫くかかりそうだ。寝室の壁に立て掛けていた楽器を手に取った。


 弦楽器の丸い胴も最近ではある程度膝に馴染むようになってきた。

 軽く弦を鳴らしてみる。ただの指慣らしのようなもので、調弦が必要かはまだ聴き取れない。彼女ならばどうすれば良いか分かるだろうか。

 とにかく今はこのまま弾いてしまうことにする。


 既に覚えた簡単な曲を奏でる。何度も弾いてきたからか、指は自然と動いた。耳を澄ませるとイラが歌を口ずさんでいるのが聞こえた。

 おそらく今日も、自分では気付いていないのだろう。以前に何気なく話題にしたところひどく赤面されてしまったことがある。

 それ以来、彼女がこうして私の楽の音に合わせて歌っていることは胸に秘めている。照れる姿を見るのも勿論捨て難かったが、扉を隔てていても彼女との繋がりを感じられるこの状況は、なお快い。


 棚から楽譜を取り出す。目的の頁には開き癖が付いていた。

 音符が指し示す弦を押さえて弾く。一音ずつ生み出される音は音楽と呼ぶには不格好に過ぎる。

 イラやアンドルーが涼しい顔でいるものだから、音楽など簡単なものだとつい思い込んでいた。楽器を求めて最初の頃は自分のあまりの不器用さに閉口したものだ。

 イラの歌の伴奏をしたいという思いがなければとうに諦めていたに違いない。始めたきっかけも、音楽に触れる彼女がとても幸せそうだからというものだ。

 そうだ、彼女の喜ぶ顔を見られるのならばこの程度の労力など厭うべくもない。


 今練習しているのもイラの好きな曲の一つだ。自分で恥ずかしくないと思える出来になったならば改めて彼女に聴かせよう。その様子を想像して熱意を新たにする。

 おそらくこの下手な演奏も部屋の外に聞こえてしまっているのだろうが、その事には目を瞑ろう。


 秋の涼風が湖面を揺らし出す頃になんとか練習していた曲が形になった。

 夕食を終えてイラに切り出す。

「これから少し、外に出てみないかい。あの曲を君と奏でてみたいんだ」

「ええ、ぜひ!」

 彼女の顔が輝く。その表情を見られただけでも練習を重ねてきた甲斐があった。


 湖の畔に立つ。鍵盤楽器はアンドルーを思い起こしてしまうからという理由で選んだ弦楽器だったが、このように容易に持ち運べるという点では好都合だった。

「寒くないかい?」

「ええ」

 その答えに安心して楽器を構える。


 幾度か弦を鳴らして音楽を始める。様子を窺うように控え目にイラの歌が加わった。

 この静かな秋の晩には、彼女の柔らかな声がよく似合う。思わず聞き惚れそうになりながらも演奏を続けた。

 歌声は湖を渡り星空へと向かう。共に手を携えて歩くというよりも私が彼女に導かれているようだ。

 隣に寄り添いたいと思う反面、彼女の後を付いて行くのが不思議と心地良くもあった。自由に声を遊ばせるイラの姿が目映い。


 曲はいつの間にか終わっていた。ほんの数秒の事のように感じられた。

 イラがこちらを向いて微笑む。自然と私の顔もほころぶ。

 温かな身体が私に寄り添う。

「なんだか、不思議です」

「……何がだい?」

「以前、私の声は他のものとは合わせられないと言われたことがあって……。けれども今は、とても自然に歌えました」

 囁くような穏やかな声。伸びやかな歌声もこの静かな声音も等しく私の心を動かす。

「そうだったのか。……それは、なんとなく嬉しいな」

「きっと、ロザリー様が毎日楽器の音を聞かせてくださるからですね」

 改めて彼女の口からそう言われてしまうと照れ臭い。幸か不幸か、吸血鬼の肌はこのような時にも顔色を変えることはない。イラは自分の言動が私にどれほど強く影響を与えるのか自覚すらしていないことだろう。


 翌晩にイラから玄関口へ呼ばれた。見ると、磨かれて光る丸い石と蛙の死骸が並んでいる。イラは蛙を少し気味悪そうにしている。

 考えて心当たりを見つけた。

「妖精かな。湖に棲んでいる」

「妖精がいるのですか?」

 驚いた声音だ。

「ああ。時々その辺りで光っているよ」

 イラは慌てて周りを見回す。妖精も月に力を受ける魔の者だ。新月に近い今は何も見えないに違いない。

「妖精というものが、本当にいたのですね」

「吸血鬼だって実在するんだ。妖精くらいいても良いだろう」

 イラはおかしそうに笑った。


「さて」と私はどこにいるのかも分からない妖精に語りかけた。

「昨夜の音楽のお礼かい? すまないが私達は蛙は食べない。この石だけありがたく受け取っておくよ」

 丸い石を手にすると、「……あら」とイラが声をあげた。

「どうかしたかい?」

「なにか、さらさらと音が聞こえたような気がします。葉擦れとも違う……」

「妖精の羽音かもしれないね。近くで様子を窺っていたのだろう」


 イラは再び見えない妖精の姿を求めるように首を巡らせる。私はその肩を抱いた。

「家に戻ろう。君が私以外の魔の者に見初められては大変だ」

「もう、ロザリー様……」

 その髪に口づけを落として妖精に念を押す。

「彼女は魅力的だろうけれど、そういう訳だから諦めてくれ」

 妖精の羽音が私にも聞こえた。抗議だろうか。望むところだ。最後に一度外を振り返って、私達を見ているであろう妖精に睨みを利かせておいた。


 それからイラは、新しい楽譜を探す際には私が伴奏を付けられるものを選ぶようになった。

 私の事など気にせずに自分の歌いたい曲を選べば良いのに。そう伝えると「……ロザリー様と一緒がよいのです」とはにかみがちに答えが返ってきた。

 全く、少しは私の心中の動揺を推し量ってほしいものだ。


 そう言われてしまったからには私も練習に熱を入れなければなるまい。

 楽譜の読み方を学んだイラは軽々と歌を自分のものにしていく。私は這うように一音ずつを辿り続ける。

 時々は彼女が眠りに就いた後に、音を立てぬよう気を付けながら弦に触れることもあった。


 私の演奏がそれなりに様になってきてからは、イラを誘って戸外で音楽を奏でた。満月近くになると妖精の羽根がぼんやりと光るのが見える。

「悪戯をしないのならば聴いていくといい」

 そう言って楽器を構えると光は草の上に静かに留まる。

 イラは私の傍らで歌を紡ぐ。彼女の歌う恋の歌は何よりも甘く響く。

 その輝きを引き立たせるように。私は一心に耳を傾けながら弦を鳴らす。


 音楽が終わると妖精は私達の周りを楽しげに飛び回る。金色に光る妖精の粉が舞う。

 妖精の祝福を受けて微笑むイラの姿は神聖ささえ感じさせる。


 そのように音楽を楽しんだ翌朝には妖精からささやかな贈り物が届けられる。

 花や木の実が多かったが、銅貨や妖精の手による細工物が置かれる事もあった。魚や蛙、蜥蜴といった生き物の類は、一度断ると持って来なくなった。

 イラはそれらを丁寧に小箱に収めている。

 ただ、草で編んだ指輪は私の我儘で返させてしまった。イラの指を飾るのは私だけでいたかった。

 とはいえ、それもまだ私の胸の内だけに秘めた思いだ。彼女の滑らかな手は素のままの美しさと温かさで私に触れる。


 この年には街へは赴かず、この家で冬を越すことと決めていた。

 暖炉を灯した暖かな室内でイラと過ごす。長いはずの冬の晩も彼女といると瞬く間に過ぎてしまうようだ。

 家の中ではイラは私だけに歌を聴かせてくれる。このまま寒さが永遠に続けば良いと考える。

 出来ることなら彼女をここに閉じ込めて、妖精からも引き離して、彼女の全てを私だけのものにしてしまいたい。

 私がこの感情を伝えたならば彼女はきっと従うだろう。そう分かっているからこそ、決して口には出さない。

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