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異世界の浜辺に漂着したら、不器用な辺境伯様に拾われました

作者: ぴょる
掲載日:2026/06/13


 この世界では、"You(あなた)"は"Thou"というらしい。


 転移した異世界での言語は日本語ではなく英語だった。

 ただし、英語と言ってもかなり古い英語である。

 冒頭でも述べたように、現代でよく使われる”You”は”Thou”にあたる。


 異世界は勝手に翻訳機能的なものがついているのかと思ったが、とんだ期待外れだ。

 古い英語を理解するのは少し苦戦したが、それでも英語自体を知らないよりよっぽど早く馴染めたと思う。ありとあらゆる海外を飛びまくって鍛えられた、自分の英語力にひたすら感謝した。


 どうして異世界の言語が古い英語っぽいのかは、考えても分からないのでもう考えていない。多分神様の気まぐれだろう。

 通じているから何でもいいのだ。


 というわけで以後の会話は、私の脳内翻訳を通してお届けする。


---


 小鳥のさえずりで目が覚めた。

 まだ若干眠気の残る頭を振って、何とか意識をはっきりさせる。

 異世界に飛ばされてから約二か月。流石にスマホのアラームなしでも起きられるようになってきた。


 天蓋つきのベッドから降り、重厚なカーテンを開け放つ。眼下に広がるのは石畳の道。そして藁葺き屋根の港町。

 窓の外を見つめていると、扉の向こうから声がした。

「ハルカ様。お目覚めでしょうか」

「起きてます。どうぞ」

 入ってきたのはこの屋敷の侍女。私の朝の支度を手伝いに来てくれたのだ。


「今日は冷えますから、こちらのドレスにいたしましょうね」

「ええ、いつもありがとう」

 侍女は慣れた手つきでドレスの紐を締めていった。


---


 身支度を終えて食堂へ下りる。

 長いテーブルの一番奥の席に、この館の主はすでに着いていた。


「おはようございます。エセルバート様」

「……ああ。おはよう。ハルカ殿」


 エセルバート・ヒュー・ラドクリフ辺境伯。この西の果ての領地を治める、若き領主様だ。

 短い黒髪に、端正な顔立ちの持ち主。

 そして、二か月前、浜辺に打ち上げられ倒れていた私を拾ってくれた方でもある。


 ……異世界転移ってもっとこう、魔方陣から召喚されるとかそういうのではないの?

 浜辺に打ち上げられるって、ゴミじゃないんだからさ。

 と、神様に文句を言いたい気持ちはあるが、私を保護してくださったエセルバート様はとてもお優しい方だったため、まぁ許そう。


 そんなことを考えていると、

「おはよう! あ、もう二人揃ってる!」

 と、朝っぱらから元気な声と明るい笑顔を伴って入場してきたのは栗色の髪の男性。


「カイさん、おはようございます」

「おはよー!」

 カイさん。彼に家名はない。

 彼はこの館の家令にして、領主様の右腕である。

 肩書上ではエセルバート様の部下なのだけど、主従というより友人に近い。

 領内の帳簿付けから王都への手紙執筆、町の揉め事の仲裁まで、彼は何でもやる。

 ついでに言うと、右も左も分からなかった私にこの世界の常識を一から教えてくれたのもカイさんだ。


 カイさんはご機嫌で席に着く。

 目の前には焼きたてのパンと、燻製の魚、そして豆のスープ。

 三人で朝食をいただきながら、私は今までの事を思い出す。


 正直、この世界に来る前のことはあまり覚えていない。

 海外旅行中だったとは思う。大好きなヨーロッパをクルーズ船で巡る旅に出て……

 ……それ以上の記憶はない。


 気を失ってこの世界の浜辺に打ち上げられていた私を、海岸を巡回していたエセルバート様が発見。カイさんとともに屋敷へ運び込んで、介抱してくださったのだという。

 目を覚ましたのは、運び込まれてから三日後。

 身元不明、所持品皆無。おまけに「別の世界から来ました」などと供述する怪しさしかない女を、エセルバート様は追い出すでもなく、そのまま客人として屋敷に置いてくださった。

 いつか絶対、この恩は返さなければと思っている。


 それから。

 無事回復した私は、カイさんにこの世界の常識を一から叩き込まれた。おかげで今では一人で町の市場へ買い物に行けるし、屋敷の人たちともすっかり顔なじみになった。


「……ハルカ殿。大丈夫か」

「あ、はい!」

 エセルバート様の声で現実に引き戻された。

 いけないいけない。最近朝から考え事をする癖がついてしまっている。

 再び朝食を食べ始める。


 と、そこでカイさんが「あ」と声を上げた。

「そうだ、忘れるところだった! 今朝がた早馬が届けてきたんだよ」

 そう言ったカイさんの懐から取り出されたのは、一通の封筒だった。

 上質な白い紙に、深紅の封蝋が押されている。

 押されている紋章を見て、エセルバート様の眉がぴくりと動いた。


「……王家の紋章か」

「ご名答。王都から夜会の招待状だよ!」


「……夜会」

 思わずぽつりと呟いてしまった。

 夜会。舞踏会。ドレスにシャンデリア。物語の中でしか知らない世界だ。


 だが、当のエセルバート様はというと、封筒を受け取った瞬間から眉間のしわが深くなっていた。

「……もうそんな時期なのか」

「国王陛下の御生誕祝賀だって。世界中の貴族が集まる、社交界最大の催し!」

「はぁ……」

 中の招待状にざっと目を通したエセルバート様が、重いため息をついた。


「エセルバート様は、夜会がお嫌いなんですか?」

「そういうわけでは、ない。が……」

「大っ嫌いだよー」

 言い淀んだ本人の代わりに、カイさんがあっさり答えた。

「こら、カイ」

「エセルバートってば、王都に着いた瞬間からご令嬢方に囲まれるんだよ。ほら、西の辺境伯様は若くて独身で、おまけにこの顔だからさ。去年なんて一晩で縁談を……8件持ちかけられたんだっけ?」

「……9件だ」

「あらやだモテモテ!」

「うるさい」


 ……なるほど。

 モテる男の人にも、モテる男の人なりの苦労があるらしい。


「しかも今年は逃げられないよ~。ほら、ここ」

 カイさんが招待状のとある部分を、楽しそうに指でつついた。

「『なお、夫人もしくは婚約者、またはしかるべき同伴の方とのご出席が望ましい』……だって!」

「……」

「つまり一人で行ったら最後、『あら今年もお一人?』ってご令嬢方が群がってくるってわけ。今年は9件どころじゃ済まないかもね。あ、それにほら、今年も来るんじゃない? 例の……ヒルダ嬢」

「…………」

 その名前が出た瞬間、エセルバート様の眉間のしわが、見たことのない深さになった。

 誰だろう、ヒルダ嬢って。


 重い沈黙の後、エセルバート様は招待状をゆっくりと畳み、テーブルに置いた。

 それから、何かを決意したような顔で、すっとこちらに身体を向ける。

「ハルカ殿」

「は、はい」

「その……折り入って、頼みがある」


 居住まいを正したエセルバート様は、まっすぐに私の目を見て言った。

「夜会に……私と共に来てはくれないだろうか」

「……、……え?」

「無理にとは言わない。長旅になるし、慣れぬ場で気苦労も多かろう。断ってくれても構わない。ただ、その……」

 エセルバート様は、最後は少し早口になって付け足した。

「貴殿となら……、気が楽だと思って……」


 心臓が変な音を立てた。

 いやいや。落ち着け。

 これはあれだ、縁談よけだ。同伴者がいれば令嬢方に囲まれずに済むというだけの話。


 ……それに、そうだ。私はエセルバート様に恩返しがしたいのだ。

 拾ってくれて、衣食住を保証してくれて、そんな優しい彼にようやく恩返しができる。

 迷うわけがなかった。


「私でよければぜひ!」

「! ほ、本当か……」

「はい! エセルバート様には沢山お世話になっていますし! その恩返しがしたいです!」


 エセルバート様の顔がぱっと明るくなった。

 おぅ、眩しい……


「決まり! じゃあ早速ドレスの手配しなきゃね。仕立ては向こうに着いてからのほうが早いかな。採寸は先に済ませて送っておいて……宿はいつもので……」

 カイさんがすらすらと算段を立て始めた。相変わらず仕事が早い御仁だ。


 こうして私は、異世界に来て二か月にして、人生初の夜会に出ることになった。

 だが、このときの私はまだ知らない。

 王都で待ち受けるものが、シャンデリアの輝きだけではないことを。


---


 夜会行きが決まった、その翌朝。


「失礼いたします」

 朝の支度に来た侍女が、なぜか三人に増えていた。

 全員目が据わっている。手には結び目のついた長い紐と、何やら紙の束。


「え、あの、何ごと……?」

「採寸でございます」

「夜会と伺いましたので」

「腕を上げてくださいませ」

「えっ、ちょっ、わ、わかりました、わかりましたから引っ張らないで!」

 かくして私は朝から下着姿で立たされ、ありとあらゆる場所に紐を回された。

 どうやら紐の結び目で寸法を測り、それを逐一書き付けていくらしい。


「ハルカ様、息を吐いてくださいませ」

「吐いてますけど……」

「もっとです」

「もっと!?!?」

「夜会は戦場ですから、さあ思いっきり息を吐いて……!」

「ひえっ……!」


 解放された頃には、すっかり昼前になっていた。

 ふらふらと廊下を歩いていると、執務室の前でちょうどカイさんに行き合った。手には書き上がったばかりらしい手紙の束。

「お疲れさま~」

「……あの採寸、カイさんの指示だったんですね」

「そそ。これがその寸法書き」

 カイさんがひらりと紙を一枚かざしてみせた。

「指示書と一緒に今日の早馬で王都に送っちゃうね。馴染みの仕立て屋があってさ。俺たちが着く頃には、ドレスはあらかた形になってるってわけ!」

「は~……」

 思わず感嘆の声が漏れた。


 確かに、着いてから採寸して仕立てていたら、間に合うかどうかの瀬戸際になる。だから先に寸法だけ知らせる、というわけか。

「カイさんって、ほんと優秀ですよね……」

「家令だからね!」

 カイさんは胸を張った。

「あ、ハルカちゃん、好きな色ある? ドレスの」

「うーん……特にこだわりは無いです。お任せします」

「お任せ! 了解!」


 それから出発までの数日は、あっという間に過ぎた。


 留守中の指示出しに飛び回るエセルバート様と、荷物と書類の山をさばいていくカイさん。

 そして私はといえば……


「ハルカ様。夜会とは戦場でございます」

「は、はい!」

 屋敷で一番の古株である侍女長が、私の前に仁王立ちしていた。

 いつもは柔和なおばあちゃんなのに、今日は目つきが教官のそれである。


「王宮の夜会ともなれば、居並ぶのは世界中の高位な身分の方々。お辞儀の角度ひとつ、お言葉のひとつで、ラドクリフ家の品格が問われます。よろしいですね」

「が、頑張ります!」

「では、まずはお辞儀から」


 右足を後ろに引き、ドレスを軽くつまみ、膝を折って、頭を下げる。

 たったそれだけのことが、やってみるとまあ難しい。


「お顔が下がりすぎです」

「はい!」

「膝が深すぎます」

「はい!」

「ぐらつかない!」

「はいぃ……っ!」


 ぷるぷる震える私の膝を、侍女長は容赦なく扇でぺしりと叩いた。超スパルタだった。


 ただ、意外なことに言葉遣いのほうはほとんど直されなかった。


「『お初にお目にかかります。西方の辺境より参りました、ハルカと申します。お見知りおきいただけますれば幸いに存じます』」

 侍女長がぱちぱちと目を瞬かせる。

「完璧です。その上品な言い回し……いったいどちらでお覚えに?」

「えっと……昔、その、お芝居で」

「お芝居?」

「故郷の、有名な劇作家の台詞で……」


 まさかシェイクスピアの原書が異世界の社交界で役に立つとは……。

 ”thou”だの”thee”だの言っている世界だから、私の頭に入っている「古くて芝居がかった英語」は、ここではそのまま「格調高い言葉」になるのだ。


 そして特訓の総仕上げは、ダンスだった。


 広間にて。

「はい、右足から。いち、に、さん、いち、に、さん……そうそう、上手上手!」

 ステップの基礎を教えてくれたのはカイさんだった。

 拍子を取りながら軽やかにリードしてくれる。

 この人ダンスまで上手いんか。すげえな。


「カイさんって本当に何でもできるんですね……」

「家令だからね! ……ほら、足元見ない。顔を上げてにっこり笑って!」

「む、難しいです……」

「大丈夫、筋はいいよ。それじゃ基礎はできたし……」


 カイさんはひょいと私の手を離すと、広間の入り口に向かってにやりと笑った。


「あとは本番の相手と練習しないとね。入りなよ、エセルバート」

「……っ」

 扉の陰から、ぎくりと肩を揺らして現れたのは、この館の主であった。

 いつからそこに。


「いや、私はただ仕事の合間に、その、様子を……」

「はいはい。突っ立ってないで。ファーストダンスの相手はあんたなんだから」


 カイさんに背中を押されて、エセルバート様が私の前に立つ。


「……ハルカ殿。その、よろしく頼む」

「は、はい。お手柔らかに……」


 差し出された手に、自分の手を重ねる。

 大きくて、硬い手のひらだった。

 もう片方の手が、おそるおそる壊れ物にでも触れるみたいに私の背中に添えられる。


「い、いくぞ」

「はいっ!」


「ちょっとちょっとーー! ふたりとも固いって!」


 カイさんの手拍子と容赦ない野次の中、私たちはぎくしゃくと回り始めた。

 目のやり場に困って視線を上げれば、同じく目のやり場に困っていたらしいエセルバート様とばっちり目が合った。


「……っ、す、すまん」

「い、いえ……」


 あ、やばい。心臓がうるさい。

 いち、に、さん。いち、に、さん。

 数をかぞえることに全神経を注いで、私はどうにか特訓を乗り切ったのだった。


---


 よく晴れた朝だった。


「ハルカ様、お気をつけて!」

「いってらっしゃいませ!」

 見送りの侍女たちに手を振って、私は生まれて初めての箱馬車に乗り込んだ。

 領主家の紋章入り。中は思ったより広くて、向かいの席にエセルバート様、隣にはカイさんがいる。

 石畳の街道をがらがらと走り出した馬車の窓から、私は早速外の景色に張りついていた。

「羊だ! すごい数!」

「……そんなに珍しいか」

「珍しいです! ねえカイさん、あの塔みたいなのは何ですか?」

「穀倉だよ」

「凄い!」


 窓の外ばかり見ている私に呆れるかと思いきや、二人とも色々答えてくれた。あの丘の向こうまでがラドクリフ領であること。今年は麦の出来がいいこと。あの森には鹿が多くて、冬には狩りをすること。

 自分の領地のことを話すときのエセルバート様は、少しだけ声がやわらかかった。


 しばらくして、カイさんが「さて」と居住まいを正した。


「着く前に決めとかなきゃいけないことがあるんだよね。ハルカちゃんの『身分』」

「身分……ですか」

「そ。夜会であんたは絶対注目される。西の辺境伯が初めて連れてきた同伴者だからね。んで貴族ってのは詮索が大好物。『どちらのお家の方?』って百回は聞かれるよ」


 ……確かに。

 私の正体は「別の世界から来た身元不明の女」である。正直に答えたら大騒ぎだ。


「えっと……じゃあ、『遠い国から来ました』とか?」

「却下」

 カイさんは、ぴしゃりと言った。

「ハルカちゃん、前にも教えたでしょ。この世界に『外』はないの」

「あ……」

 そうだった。

 この二か月で叩き込まれた、この世界の常識のひとつである。

 曰く、世界とはこの王国……つまりはこの島のことである。

 国土の果ては海と霧に閉ざされていて、その向こうにあるのは地獄。エクウータ様という神の御許を離れた、穢れの海。

 だからよその国というものは存在しない。さらに海の向こうを知ろうとすることは、重い禁忌なのだという。

 だから漁をするのは岸の見える範囲でだけ。岸影の見えぬ海は神の領分といって、どれだけ大きな魚群が見えても絶対に追わないらしい。


 正直、最初に聞いたときは面食らった。

 でもまあ、異世界だからそういう世界観のひとつやふたつあるのだろう。

 何事も郷に入っては郷に従えである。


「だからね。浜で拾ったってことも屋敷の外には出してはいけない。海から来たなんて知れたら、騒ぎになるどころじゃ済まないから」

「……っ、そうですよね」

 今さらながらぞわりとした。

 知らなかったとはいえ、私はとんでもない拾われ方をしていたらしい。

 ちらりとエセルバート様を見る。エセルバート様は何でもないことのように言った。

「気にするな。倒れている者を助けるのに理由などいらない」

「エセルバート様……」

「……ま、そういう人なんだよね、この人も」

 カイさんが苦笑して、ぱちんと指を鳴らした。


「で、本題。ハルカちゃんの身分はこれでいこうとおもう。『記憶を失って、西の辺境で行き倒れていたところを、ラドクリフ家に保護された娘』」

「記憶喪失……」

「そ。名前のほかは何も覚えてない。これならどれだけ詮索されても『覚えておりません』で全部終わり。嘘も最小限。実際、あんたの言葉や仕草がちょっと変わってても、ぜーんぶ『記憶がないから』で通る。最強でしょ?」

「な、なるほど……でも、そんな都合のいい話、信じてもらえますか?」

「信じるよ。前例がいるから」

「前例?」


 カイさんは、にっと笑って自分の顔を指さした。


「俺のこと」

「……え?」

「……コイツも、私の家が拾ったんだ」

 エセルバート様が静かに言った。

「十年前だったか。領の奥の森で行き倒れているのを猟師が見つけた。ひどい有様だったそうだ。傷だらけで、持ち物ひとつなく、覚えていたのは自分の名前だけ」

「名前だけ……」

「そういうこと。ちなみに俺は本当にきれいさっぱり何も覚えてない。その……別世界?っていうのもわからない!」

 カイさんは、あっけらかんと肩をすくめた。

「身元の知れない男なんて、そりゃ最初は気味悪がられたよ? でも先代……エセルバートの親父さんが超優しくてさ、屋敷に置いてもらって、働いて、気づいたら家令になってた。今は誰も気にしちゃいない」

「そう、だったんですか……」

「つまりハルカちゃんは二人目ってわけ」


 ああ、そうか。

 だからエセルバート様はあんなに優しかったんだ。 

 何も持たずにこの世界へ来た私と、何も持たずに森で拾われたカイさん。

 ……ふふ、と思わず笑みがこぼれた。

「ラドクリフ家、人を拾いすぎでは?」

「……よく言われる」

 エセルバート様が大真面目に答えるので、馬車の中は笑いに包まれた。


 こうして私は、「記憶を失くした保護された娘」になった。

 奇しくも、本物の記憶喪失の先輩のお墨付きである。


---


 三日目の夕方は、途中の宿場町に泊まった。


 街道沿いには、ところどころに小さな祠のようなものが立っていた。旅人たちが足を止めては胸の前で指を組んで、短く祈っていく。

 屋敷の人たちも食事の前には短い祈りを捧げるし、町には聖堂もある。私は作法だけ、見よう見まねで覚えた。


「王都の大聖堂はすごいよ~。なんせこの国で一番でかい建物だからね」

「へえ……ちょっと見てみたいかも」

「観光する時間くらいはあると思うよ。仮縫いの合間にさ」


 五日目の昼。

 長い丘をひとつ越えたところで、御者が声を上げた。


「見えましたよ。王都です!」


 窓から身を乗り出す。

 平野の向こう。白い城壁にぐるりと囲まれた巨大な街。

 幾重にも重なる屋根達の中央に鎮座するのは、ひときわ高くそびえる王宮と、天を突く大聖堂の尖塔。


「うわぁ……!」


 異世界に来て二か月。

 私の旅心が、久しぶりに大きく跳ねた。


---


 王都は想像以上だった。


 巨大な城門をくぐった瞬間から、世界の音量が一段上がった。

 石畳の大通りを行き交う馬車と人々。軒を連ねる商店に呼び込みの声、どこかで鳴る鐘の音。


「すごい、すごい……! イングランドにあるヨークの旧市街みたい……!」

「よーく? いんぐ……?」

「な、なんでもないです」


 あぶね。

 記憶喪失の娘に故郷の観光の記憶があってはいけないのだ。


 馬車はやがて大通りを逸れ、落ち着いた通りにある宿に着いた。ラドクリフ家が王都に出るときの定宿だという、こぢんまりとした品のいい宿である。


「ようこそお越しくださいました、ラドクリフ様! カイ様も、お変わりなく」

「やあ女将さん、今年も世話になるよ。あ、それと今年は、もう一人」

「まあ、まあまあまあ!」

 女将さんの視線が私を捉えた瞬間、その目がきらーんと光った。

「お噂はかねがね……! ささ、お部屋へどうぞ! 一番いいお部屋をご用意しておりますからね!」

「う、噂?」


 噂って何だ。

 まだ着いたばかりなんですけど。


「西の辺境伯が初めて同伴者を連れてくるんだよ? 招待客の名簿ってのは、夜会の前から社交界を駆け巡るものなの」

 カイさんが、こそっと耳打ちしてくる。

「つまりハルカちゃんは会場入りする前から、すでにちょっとした有名人ってわけ」

「ええぇ……」


 先が思いやられる話だ。


---


 翌日。

 休む間もなく、私は仕立て工房に連れて行かれた。


「お待ちしておりました! さ、こちらへ!」


 工房の奥、衝立の向こうで、お針子さんたちの手によって、私はそれを着せられた。

 事前に送った寸法のおかげで、ドレスはすでに八割がた完成しているという。今日は最後の調整らしい。


 そして、姿見の前に立たされて。

 私は、自分の姿に言葉を失った。


 深い青のドレスだった。

 夜の一歩手前、暮れきる直前の空みたいな青。動くたびに銀糸の刺繍が星みたいに細かく煌めいた。


「うわ……」

「どう? 俺の見立て」

 衝立の外からカイさんの得意げな声がする。

「すごいです、これ……! こんなの着ていいんですか……!?」

「いいのいいの。ほら出ておいで。もう一人の感想も聞かないと」


 促されるまま衝立の外へ出る。

 壁際の椅子に座っていたエセルバート様が、こちらを見て……


 固まった。


「……」

「……あの」

「……」

「……えっと、エセルバート様?」

「……」

「おーい。生きてる~?」

 カイさんがひらひらと手を振ると、エセルバート様は、はっと我に返った。

 それから、視線を一度天井に逃がしてから、絞り出すように言った。


「……よく、似合っている」

「あ……ありがとう、ございます」


 それだけ言って、エセルバート様はぷいと窓の外を向いてしまった。


「あっはっは! いやあ、ここに頼んだ甲斐があったね~」

 一人で大満足のカイさんに、工房の女主人がにこにこと話しかける。

「それにしても、まさかこの色をお選びになるなんて」

「え? 色が何か?」

 私が聞き返すと、女主人は「あら」と口に手を当てた。

「ご存じありません? この深い青は……」

「あっ、裾! 裾の丈、もうちょっと詰められる?」

 カイさんがわざとらしく大声で割り込んだ。

「あらあら、はいはい。失礼しました、ええと、裾でしたね」


 ……何だ今のは。

 ちらりとエセルバート様を窺うと、なぜか額を押さえて天を仰いでいた。


 まあいいか。

 こんなに綺麗なドレスを着られるのなら、色の由来なんて何だっていい。


 その帰り道、少しだけ遠回りをして、大聖堂の前を通った。


 近くで見上げる大聖堂は、首が痛くなるほど高かった。

 白い石壁に色硝子の大窓。開け放たれた扉の奥から、聖歌の合唱がかすかに漏れ聞こえてきた。

 行き交う人々が聖堂の前で足を止めては、胸の前で指を組んでいく。


「明後日の朝、ここで陛下のお祈りがあって……その夜が夜会本番」

 カイさんが、聖堂を見上げて言った。

「ま、明日一日はゆっくり観光でもして、英気を養うといいよ」


 夜会まであと二日。

 暮れ始めた空は、あのドレスと同じ色をしていた。


---


 夜会当日の支度は総力戦だった。

 仕立て屋の女主人とお針子さんたち。そこに宿の女将さんまで参戦して、湯あみ、髪結い、化粧。仕上げまでしてくれた。


 鏡の中には自分とは思えない令嬢が立っていた。プロの仕事はすごい。


 宿の前に横付けされた馬車に乗り込むと、正装のエセルバート様が待っていた。

 黒を基調にした礼服に、深い青の飾り帯。

 ……私のドレスと同じ色だ。


「お、お待たせしました」

「……いや」

 エセルバート様は私を見て、小さく咳払いをした。

「……その、改めて。よく似合っている」

「ありがとうございます……」


 お互い、それきり無言だった。

 カイさんだけが終始にこにこしていた。


 会場に到着し、馬車を降りると、カイさんが「さて」と伸びをした。

「俺はここまでだね。じゃ、あとは二人で楽しんできて」

「えっ? カイさんは入らないんですか?」

「俺は招待客じゃないからね。使用人の控えの間で待機してるよ。ま、本当に面白い話が聞けるのは案外あっち側だったりするんだよね~」

 カイさんはウインクをひとつ残して、脇の通用口へ消えていった。

 ……随分と楽しそうに行くなあ。


 エセルバート様と二人で大階段を上る。

 招待状を検められ、重い扉の向こうへ。


 大広間に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。

 天井から下がる、いくつもの巨大なシャンデリア。

 楽団の音色。グラスの触れ合う音。さざめく笑い声。


 そのさざめきが、私たちの入場とともに、一段変わった。


「西の辺境伯だわ」

「あれが、噂の……」

「まあ……ねえ、あの色」

「あの方が纏っているの?」


 ひそひそと、視線と囁きが集まってくる。

 う。さっそく注目されている……


「ハルカ殿」

 考え込む前に、エセルバート様がすっと腕を差し出してきた。

「離れるな。……今夜は、私の側に」

「は、はいっ」


 最初の三十分は、驚くほど順調だった。


 エセルバート様に紹介されるまま、何組かの貴族の方々にご挨拶をする。

 特訓の成果のカーテシー。そして……


「お初にお目にかかります。ハルカと申します。お見知りおきを賜れますれば、幸いに存じます」

「これはこれは、ご丁寧に……ほう」


 挨拶を交わした老紳士が、感心したように目を細めた。

「実に上品な言葉遣いをなさる。近頃の若い方には珍しい。ラドクリフ卿、よい方をお連れになった」

「……恐縮です」

 エセルバート様が、自分のことのように胸を張っている。

 ありがとう侍女長。ありがとうウィリアム・シェイクスピア。


 そして、懸念の材料だったご令嬢方は遠巻きにこちらを見て、何やら囁き合うばかりで、誰も近づいてこなかった。おそらく私が居るからだろう。

 エセルバート様は「……今年は平和だ」と真顔で水を飲んでいる。

 よかったですね、と言いかけた……そのときだった。


「まあ。まあまあまあ。本当にいらしたのね、エセルバート様」


 よく通る声がざわめきを割った。


 人垣がすっと左右に開いた。

 その向こうから歩いてくるのは、燃えるような深紅のドレスを纏った令嬢だった。

 完璧に巻かれた金の髪。後ろには、お付きの令嬢を三人も従えている。


 わお、めっちゃ美人。


「……ヒルダ嬢」

 エセルバート様の声が低くなった。


 ヒルダ。

 あ。朝食の席で少しだけ名前が出た人だ。あの人がそうなんだ。


「お久しぶりですわ、エセルバート様。一年ぶり? お手紙を差し上げても、ちっともお返事をくださらないんですもの。わたくし、寂しくて寂しくて……」

「公務が立て込んでいて……」

「ふふ、相変わらずですこと」


 ヒルダ様は鈴を転がすように笑い、私に視線を向けた。

 頭のてっぺんから爪先まで。

 値踏みするような視線が。


「……それで? こちらの方が、噂の」

「ああ。当家の客人の」

「ハルカと申します。お初にお目にか……」

「あら、ごめんなさい。お家の名前を伺ったつもりだったのだけれど」


 ぴしゃり、と。

 扇が閉じられる音とともに、私の挨拶は遮られた。


「家名をおっしゃらないの? ということは、噂は本当ということかしら。記憶を失くした、どこの誰とも知れない拾われ子。それが……よりにもよって」


 ヒルダ様の視線が私のドレスに突き刺さった。


「この色を纏っているのね」

「……色?」

「まあまあまあ! ご存じないの!?」


 ヒルダ様は扇を開いて口元を隠したけれど、その目は全然隠れていなかった。爛々と燃えている。


「これはラドクリフ家の色。夜会の場で殿方の家の色を纏うことが、社交界で何を意味するか、本っ当に、何ひとつご存じないのねぇ? ご存じないままその色を着てこの場にいらしたの?」


 ……え。

 それは、その。

 ぐるぐるし始めた私の頭の横で、エセルバート様が一歩前に出た。


「ヒルダ嬢。彼女への非礼は控えていただきたい」

「非礼? まあ、ひどい仰りよう」


 ヒルダ様は、ぱちんと扇を閉じて、まっすぐにエセルバート様を見上げた。


「わたくしはただ、確かめに来ただけですのよ。あなたの隣に立つのはこのわたくしだとずっとそう決めておりましたの。それを」


 深紅のドレスがひるがえり、扇の先がぴたりと私に向けられた。


「どこの馬の骨とも知れない拾われ子に、横から掠め取られるなんて。わたくし、絶対に認めませんわ」


 会場中の視線が私たちに集まっていた。

 楽団の音が遠くに聞こえる。


 ……どうやら私は、人生初の夜会で、人生初の宣戦布告をされたらしい。


---


 扇を突きつけられたまま、私は内心頭を抱えていた。

 どうしよう。

 物語でしか読んだことのない修羅場が現在進行形で発生している。


「だいたい、おかしいと思いませんこと? 皆さま」

 ヒルダ様は、くるりと周囲の観衆に向き直った。完全に場慣れしている、よく通る声だ。

「素性も知れない、家名もない、礼儀作法を知っているかも怪しい娘が、辺境伯家の色を纏って王宮の夜会に立つなんて。ラドクリフ家の品格が疑われましてよ? ねえ、あなたもそう思うでしょう?」


 ねえ、の矛先は私だった。

 会場中の視線が集まる。


 ……落ち着け、私。

 こういう時のために特訓したんじゃないか。

 息を吸って背筋を伸ばした。そして教わった通りの完璧なお辞儀を。


「仰る通り、わたくしに名乗れる家名はございません」

「あら、お認めになるの」

「ですが、賜った御恩に恥じぬ立ち居振る舞いをと、心がけてはおります。本日この場に立ちますのも、ラドクリフ卿のご厚意あればこそ。卿のご判断に疑義を呈されるのであれば……それは、わたくしではなく、卿の名誉に関わるお話かと存じます」


 しん、と。

 周囲が静かになった。


「ほっほ。こりゃ一本取られましたな」

 笑い声を上げたのは、先ほどご挨拶した老紳士だった。

「ヒルダ嬢。言葉遣いというものは、人を映す鏡ですぞ。少なくとも儂の目には、どちらが礼を欠いておるか、明らかなように見えるが」

「なっ……」


 くすくす、と。

 今度は、観衆の笑いがヒルダ様のほうへ向いた。

 ヒルダ様の顔が一瞬で朱に染まった。


「……っ、行きますわよ!」


 ヒルダ様は身をひるがえし、お付きの令嬢たちを引き連れて、人垣の向こうへ去っていった。

 ……去り際、お付きの令嬢の一人が、すれ違いざまに私の肩にぶつかった。

「あら。失礼いたしました」

「い、いえ……」

 形ばかりの会釈をして、彼女は主の後を追っていく。

 ふう。なんとかしのいだ……のかな?


---


「皆さま! 皆さま、聞いてくださいまし!」


 広間の中央あたりで、再びよく通る声が上がった。

 ヒルダ様だった。今度は周囲に人を集めて、扇を胸に当て、今にも泣き出しそうな顔をしている。さっきの据わった目とは別人みたいだ。


「わたくしの腕輪が……お祖母様から譲り受けた大切な腕輪がありませんの! 今夜確かに着けて参りましたのに! ついさっきまで、確かにこの腕にあったのに……!」


 ざわ、と空気が揺れる。


「落とされたのでは?」

「いいえ。あの留め金は落ちるようなものではありませんわ。誰かが外さない限り……」

 潤んだ瞳が、ゆっくりと、こちらを向いた。

「そういえば……先ほど、そちらの方のお近くを通りましたわね、わたくしたち」


 会場中の視線が、再び私に集まった。

 今度の視線は、さっきとは温度が違う。


「まさか、とは思いますけれど。……ねえ、あなた。疑いを晴らすためですわ。そのバッグの中を皆さまに見せていただけるかしら?」


 どくん。

 心臓が嫌な音を立てた。


 バッグ。手に持っているクラッチバッグの事だ。

 ぶつかられた。さっき、お付きの令嬢に。すぐ近くにこのバッグがあった。


 まさか。

 あの時に、入れられた……?


 血の気が引いていく。

 もし、この中にあの人の腕輪が入っていたら。

 私に潔白を証明する手段はない。

 それどころか、私を連れてきたエセルバート様の名前に消えない傷がつく。


「え、エセルバート様、私……」

「大丈夫だ」


 言い終わる前に手を握られた。

 逃がさない強さで、しっかりと。


「で、でも……っ」

「ハルカ殿」


 見上げた先のエセルバート様は驚くほど静かな顔をしていた。


「開けてやれ。……心配はいらん」

「……え?」


 心配はいらん、って。

 いや、いる。いりますよ。だってこれは確実に入れられている。


 でも、その目があんまりまっすぐなものだから。

 私は、震える手でバッグの留め金を外し、近くの侍従にそっと差し出した。


 侍従が白手袋の手でバッグを開ける。

 ハンカチをつまみ上げ、扇を取り出した。バッグを逆さにして、軽く振った。


「…………以上にございます」


「……は?」


 間の抜けた声を上げたのは、私だった。

 な、何もない。腕輪なんてどこにもない。


「あ、あれ……?」


 状況が分からなすぎて変な声が出る。

 勘違い? 私の自意識過剰だった? でも、じゃあ、あのぶつかりは、


「そんな…………」


 ぽつり、と。

 誰よりも呆然とした声を漏らしたのは、ヒルダ様だった。


「あ、ありえないわ。もっとよく探しなさい! その娘の袖は? ドレスの裾は!? 絶対にあるはずなのよ!」

「ヒルダ嬢、落ち着かれよ。無いものは無いのだから、勘違いということで……」

「勘違いなものですか! だって……」


 その時だった。


「失礼いたします!」


 人垣を割って、王宮の衛兵が一人足早に入ってきた。手にした銀盆の上で、きらりと光るものがある。


「お騒ぎの腕輪とは、こちらでございましょうか。先ほど、広間の床に落ちているのを発見いたしまして、お届けに上がりました」


 銀盆の上。

 宝石がはめられた腕輪が、シャンデリアの光を受けてきらきらと輝いていた。


「な……」


 ヒルダ様の顔から、表情が抜け落ちた。


「ありえない……ありえないわ。だって、それはその女のバッグの中に」


 言って、ヒルダ様は固まった。


 しん、と。

 今夜で一番深い静寂が広間に落ちた。


「…………今、何と?」

 誰かが、ぽつりと呟いた。

「バッグの中に()()と、なぜご存じなのです……?」


 ざわ。ざわざわ。

 観衆のざわめきが、今度こそ完全に色を変えた。


「ち、ちが……違いますわ、今のは、言葉の綾で……」

「ヒルダ嬢」


 静寂を断ち切ったのは、エセルバート様だった。

 私の手を握ったまま、一歩前へ出る。


「なぜ、貴殿の腕輪が彼女のバッグの中にあると言い切れた?」

「そ、それは……」

「……入れようと伸びた手なら、その場で私が払い落としたぞ」


 ……え?


「先ほど、そちらの方が彼女にぶつかった折」

 エセルバート様の視線が、ヒルダ様の背後にいるお付きの令嬢をまっすぐに射抜いた。

「彼女のバッグの留め金に貴殿の手が伸びるのが見えた。ゆえに払わせていただいた。手の中の物は床に落ちた。……拾い上げて騒ぎ立てるのも品がないゆえ、捨て置かせてもらったが」


 お付きの令嬢が、短い悲鳴を漏らした。

 全身が震えだし、その場にへたり込む。


「も……申し訳、ありません……申し訳ありません……! わたくしはただ、ヒルダ様に命じられて……夜会の前から、その手筈で、と……」

「だっ、黙りなさい! 黙りなさいったら!!」


 ヒルダ様の絶叫が広間に響き渡った。


 もう、誰の目にも明らかだった。

「まあ……」「自分で仕込ませて、自分で騒いで」「侯爵家ともあろうものが」「なんてお気の毒に、ラドクリフ卿のお連れ様」

 さっきまで私に向いていた疑いの視線が、そっくりそのままヒルダ様へ流れ込んでいく。


「違う……違うのよ、皆さま……そうよ、全部、その女が来たから……その女さえ、来なければ……っ!」


 ヒルダ様が、ずん、と一歩こちらへ踏み出した。

 振り上げられる、扇を握った右手。


 あ、ぶたれる。と思った。


 瞬間。

 ぱし、と。

 エセルバート様の手が、その手首を空中で受け止めていた。


「……いい加減にしろ」


 低い、唸るような声だった。


「客人への狼藉は、ラドクリフ辺境伯への狼藉と同義。三度目はない。下がられよ」


「エセルバート様……わたくしは、ただ、あなたの隣には、わたくしのほうが、ふさわしいと……」

「……」


 エセルバート様は、ヒルダ様の手首を静かに離すと、空いたその手で私の手を改めて握り直した。

 会場中に見えるように。


「よいか。彼女は私が選んだ。それが全てだ」


 どこかで、ほう、と誰かの溜息が聞こえた。


 そのあとのことは、少し慌ただしかった。

 青ざめた壮年の紳士……ヒルダ嬢の父親らしい人物が人垣を割って駆けつけ、深々と頭を下げ、半狂乱の娘を引きずるようにして退場していった。

 連れて行かれながら、ヒルダ様は最後まで私を睨んでいた。

 ……こりゃ反省の色ゼロだな。


 進行役の合図で、楽団が演奏を再開した。

 ざわめきが少しずつ、夜会のさざめきに戻っていった。


「……あ、あの、エセルバート様」

 まだ繋がれたままの手の中で、私はようやく声を絞り出した。

「気づいてたなら先に言ってくださいよ……! 私、心臓が止まるかと……」

「すまん。……だが、騒げば言い逃れの余地を与える。あのような手合いには、自分の口で墓穴を掘らせるのが一番確実だ」

「う……正論……」

「それに」


 エセルバート様は、ふ、と目元を緩めた。


「言ったはずだ。今夜は私の側にいろ、と」


 ……ああ、もう、この人は。


「ハルカ殿」

 繋がれた手が軽く引かれる。

 エセルバート様の視線は、広間の奥……月明かりの差すテラスへ向いていた。


「少し……風に、当たらないか」


---


 テラスに出た瞬間、夜の風が頬を撫でた。


 ひんやりとしていて気持ちのいい風だった。

 広間の喧騒と楽団の音が、扉一枚へだてて遠くなる。

 石造りの手すりの向こうには、月明かりの下の王都が広がっていた。家々の窓に灯る、無数の小さな明かり。

「わ……きれい……」

「……ああ」


 手すりに寄りかかって、ようやく、大きく息を吐いた。

 瞬間、膝から力が抜けた。


「〜〜〜っ、こ、怖かったぁ……!」

「……すまなかった」

 隣のエセルバート様が、深々と頭を下げた。

「私が招いたばかりに、貴殿に怖い思いをさせた。……夜会とは、本来もっと楽しいものなのだが」

「い、いえ! エセルバート様のせいじゃ……むしろ、その、守っていただいて……」


 言いながら、さっきの光景がよみがえる。

 迷いなく握られた手。会場中に響いた声。


 ……いや待って。

 あれって……どこまでがその場を収めるための言葉だったんだろう。


「……あの、エセルバート様。聞いてもいいですか」

「ああ」

「このドレスの色のこと……ヒルダ様の仰っていたことは本当なんですか? その、殿方の家の色を纏うのは、特別な意味がある、って……」


 エセルバート様はすぐには答えなかった。

 月明かりの下で、その耳がじわじわと赤くなっていくのが分かった。


「…………本当だ」

「し、仕立ての時からご存じだったんですか」

「……まぁ、そうだな」

「止めようとは」

「…………しなかった」


 ……しなかったんだ。


「はぁー……、カイの仕業だ。あいつは昔からああいう余計な気を回す。……だが」

 エセルバート様は手すりに目を落として、ぽつり、ぽつりと続けた。

「仮縫いのドレス姿を見て……この色で良かったと確信した」


 心臓が跳ねた。


「ラドクリフの紋は、宵青の空に銀の星を象っている。日が落ちたあと、西の空に最初に灯る星だ。……海と霧の果ての地で、迷う者の道標たれ。そういう意味を持つ家紋だ」

「迷う者の、道標……」

「だから、迷い人を拾うのは当家の性分のようなものだ。カイの時も、貴殿の時も、特別なことをしたつもりはなかった。……はずだった」


 エセルバート様がこちらを向いた。

 月を背にして、その表情は半分影になっていたけれど、目だけが、まっすぐに私を見ていた。


「だが貴殿が屋敷に来てから、朝の食堂がやけに明るくて、執務の合間にはふと、今は何をしているのかと考えている。市場帰りの貴殿の土産話を気づけば待っていて……」


 ふっ、と。

 エセルバート様は困ったように笑った。


「……導かれていたのは、どうやら私のほうだったようだ」

「……っ」


 顔が燃えるように熱くなった。


「あ、あの、それって、その……」

「……っ、い、いや……その」

 言った本人も言ってから固まった。

 みるみる耳まで赤くなって、視線が右へ左へ泳ぎまくっている。

「今のは、つまりだな。その……感謝、という意味で……いや、違う、感謝もあるのだが、そうではなくて……」

「は、はい」

「……っ、帰ったら」


 エセルバート様は、大きな深呼吸をひとつしてから、絞り出すように言った。


「領地に帰ったら……改めて、言わせてほしい。きちんと、その……今夜は……っ、予告だ」

「よ、予告……」

「……だめ、だろうか」

「だ、だめじゃないです……」


 恩返しのつもりだった。

 縁談よけのお手伝い。拾ってもらった恩を返すだけのはずだったのに。


 お互い真っ赤なまま黙り込んで、しばらく王都の夜景を眺めた。

 すると、扉の向こうから、ワルツの旋律がかすかに漏れ聞こえてきた。


「……そういえば」

 エセルバート様が、ふいにこちらへ手を差し出した。

「一曲も踊っていなかったな」

「……ふふ。特訓の成果、見せないとですね」


 差し出された手に、自分の手を重ねる。

 月明かりだけのテラスで、漏れ聞こえるワルツに合わせて、私たちはゆっくりと回り始めた。


---


 宿に戻ると、カイさんが夜食を用意して待っていた。

「おかえり~。二人とも大変だったねえ、おつかれさま!」

 差し出されたのは温めたミルクと焼き菓子。

 流石家令。気が利くにもほどがある。


「例の騒ぎ、控えの間まで筒抜けだったよ。いやあ、行けなくてごめんね? んでもエセルバートが全部かっこよく決めたんでしょ。聞いたよ~、『彼女は私が選んだ。それが全てだ』だっけ?」

「なっ……お前、どこでそれを……」

「ははっ、使用人ネットワークを舐めないことだね。今ごろ王都中の屋敷の台所で再演されてるよ、その台詞」

「……っ」


 頭を抱えるエセルバート様と、けらけら笑うカイさん。

 ちなみにカイさん情報によると、ヒルダ様の家は今夜のうちに王都屋敷の門を閉ざし、ヒルダ様は当分社交界に出られないだろう、とのことだった。


「ま、自業自得ってやつ。で、それよりもさぁ……」

 カイさんは、にやにやと私たちを見比べた。

「お二人さん、テラスでずいぶん長いこと涼んでたみたいだけど、何かあった?」

「「何も!!」」

「声、揃ってるんだよねぇ……」


 ……こうして、私の人生初の夜会は、幕を下ろした。


---


 王都から領地への帰り道は、行きよりもずっとあっという間に感じた。


 屋敷に戻ると侍女たちが総出で出迎えてくれた。

 夜会の顛末は、カイさんの盛りに盛った名解説によってその日のうちに屋敷中に知れ渡り、私はしばらくの間、会う人会う人に「ようございましたねえ」とにこにこされる羽目になった。


 再び始まった領主館の日常は、ほんの少しだけ前と違っていた。


 朝の食堂の「おはよう」のあとの会話が増えた。

 私の市場帰りの土産話を、椅子まで用意して待ってくれるようになった。

 執務の合間のエセルバート様が、お茶の時間に顔を出すようになった。

 ……まぁ、この世界のお茶はお茶というよりハーブのお湯みたいなものだけど。


 

「ハルカ殿」


 その日が来たのは、帰還から十日ほど経った、よく晴れた午後だった。


「少し……付き合ってもらえないだろうか。見せたいものがある」


---


 連れて来られたのは浜辺だった。


 屋敷の建つ丘を下りて、港町を抜けた先。

 白い砂浜と、どこまでも続く海。打ち寄せる波の音。


「ここって……」

「ああ。貴殿を見つけた場所だ」


 そう、二か月と少し前。

 私がこの世界に打ち上げられた、すべての始まりの浜辺だ。


「あの朝も、今日のようによく晴れていたな」

 エセルバート様は、波打ち際の少し手前で足を止めて海を見た。

「いつもの巡回のつもりだったのに、波打ち際に人が倒れていて……正直肝が冷えた。息があると分かった時は心底安堵した」

「……ふふ。すみません」


「ハルカ殿」

 エセルバート様が、こちらに向き直った。

 いつになく、まっすぐな姿勢で。……だがよく見ると、握った拳がちょっと震えている。


「予告の続きだ。……聞いてもらえるか」

「……はい」


 波の音が、やけに大きく聞こえた。


「迷い人の道標たれ、というのが当家の家訓だ。だからあの朝、貴殿を拾ったのは務めだった。屋敷に置いたのも務めのつもりだった。……だが、いつからか務めではなくなっていた」

 エセルバート様は、一度言葉を切って、大きく息を吸った。

「朝の食堂で貴殿の声を聞くたび、今日はいい日になると思う。貴殿が笑うたび、この領地ごと明るくなった気がする。貴殿の過去を私は何も知らない。だが、これから先、未来の貴殿は私が隣で見ていたい。……だから……ハルカ殿」


 まっすぐな目が、私を見る。


「貴殿を想っている。どうか……この先も、私の側にいてほしい」


 ……ああ。

 言われてしまった。

 不器用なこの人なりの、精いっぱいの言葉で。


 目の奥がじわりと熱くなった。


 帰る場所も、家名も、過去さえもない私を、この人はそれでいいと言ってくれた。

 拾われた浜辺で、拾ってくれた人に、私はこんなにまっすぐ望まれている。


「……はい」


 声が震えた。


「私で、よければ。……私も、エセルバート様のお側にいたいです」


「……っ、そうか」

 エセルバート様の顔が、くしゃりとほどけた。


「そうか。……そうか」

「ふふっ」

「っ……ハルカ」


 差し出された手を取る。

 大きな手。あの夜会の日よりもずっと優しく、私の手を包んでくれた。


 波の音。海鳥の声。穏やかな潮風。

 世界中の幸せを集めたみたいな午後だった。


 私はうれしくて、なんだか胸がいっぱいになって、思わず空を仰いだ。


 綺麗な青空だ。


 その青の真ん中に、すうっと白い線が引かれていた。

 一直線の細く白い線。先端がきらりと光っていて、線は少しずつ、少しずつ伸びていく。


 ああ、飛行機雲だ。


「……」


 ……あれ?

 飛行機……雲?


「……ハルカ殿?」


 エセルバート様が、不思議そうに私の顔を覗き込んだ。

「どうかしたか」

「え、エセルバート様」

 自分の声が妙に遠くから聞こえた。

「空を飛ぶ乗り物って……ご存じですか?」

「空を? ……馬車が空を飛ぶのか?」

 エセルバート様は、ふは、と笑った。


「そんなものがあったら凄いな。まるで魔術か奇跡だ」


 エセルバート様は、私の視線を追って空を見上げ、飛行機雲を見た。


「ん、ああ……あれは『導きの雲』だな」

 エセルバート様が目を細めた。

「聖典にあるんだ。エクウータ様は雲の柱をもって、民を約束の地へ導かれた、と。……あれはその御印(みしるし)だ。めったに拝めない吉兆だと言われている」

 ふ、と笑って、繋いだ手に少しだけ力がこもる。

「……今日は本当に良い日だ」


 ……違う。


 私はあれを知っている。

 高いところを飛ぶジェット機が、空に残していく……


 どくん、どくん、と心臓が嫌な音を立て始める。

 落ち着け、落ち着け私。何かの間違いだ。だってここは異世界で、私は別世界から飛ばされて……


「……あの、エセルバート様」

 すがるように口が勝手に動いていた。

 何でもいい、この世界の話をしてほしい。私の知らない、この異世界の話を。

「エセルバート様って、本、お好きですよね。好きな作家とか……いるんですか」

「ん? ああ……」


 エセルバート様は、少し照れたように、頬をかいた。


「かなり古いのだが……実は私は、ウィリアム・シェイクスピアという作家の戯曲が好きなのだ」


「……………………え?」


「書庫に始祖の代から伝わる全集があってな。子供の頃から何度も繰り返し読んだ。いつか貴殿にも読ませたいと思っていたんだ。貴殿の言葉遣いはあの戯曲によく似ているから……ハルカ?」


 知ってる。


 私も読んだ。大学の図書館で。

 この世界に来るずっとずっと前に。


 ウィリアム・シェイクスピア。

 十六世紀のイングランドに生まれて、十七世紀に死んだ、私の世界の劇作家。

 ……じゃあどうして。

 どうして異世界にシェイクスピアがあるの?


 ざあ、と波の音が引いて、世界から音が消えた気がした。


 古い英語。羊。ヨークそっくりの王都。始祖の代から伝わる。海の向こうは地獄。知ってはいけない。


 ……ああ。


 ああ……。


 頭のどこかで何かが、音を立てて繋がっていく。

 そうだ、思い出した。

 あの時私はデッキに立っていた。


 誰かに、今夜は星が綺麗ですよと言われて外に出て、

 ヨーロッパを巡るクルーズ。デッキ。押された背中。傾く床。掴み損ねた手すり。落ちた先は……夜の海。


 海に落ちて。それで……

 ……死なない確率は、ゼロじゃない。


 ここは、きっと異世界なんかじゃない。

 異世界転移なんかじゃない。

 でも、じゃあ、ここは……


---


 夜。


 月明かりの浜辺をランプの灯がひとつ、ゆっくりと移動していた。


 栗色の髪の男。

 カイだった。


 昼間の砂浜とは違う様相。黒い夜の海。寄せては返す波の音だけが、規則正しく響いている。

 ランプを掲げ、波打ち際に沿って彼は歩いていた。散歩のような足取りで。けれどその目は、波が運んでくるものをひとつ残らず数えるように、動いていた。


 ふと、その足が止まった。


 ランプの灯りの輪の中。

 濡れた砂の上に、透明な何かがころりと転がっていた。


 波に揉まれて白く曇ったプラスチックの容器。

 青いキャップに剥がれかけたラベル。


 ……ペットボトルだった。


 カイはしばらくそれを見下ろしていた。

 いつものへらりとした笑みはそこにはなかった。


 屈み込み、無造作にそれを拾い上げる。

 ラベルの文字にランプを近づけて、目を細めた。


「……懐かしいね」


 ぽつりと呟いて、ペットボトルを上着の内側へ仕舞い込む。


 それから、彼はポケットに手を入れた。

 取り出されたのは、薄い、黒い板。

 指が滑ると、板は音もなく発光し、青白い光が彼の顔を下から照らした。


「……こちら〈パック〉。定時報告」


 波の音に紛れる程度の低い声だった。


「漂着物を一件回収。プラスチック容器、飲料用。……ええ、処理はこちらで。住民との接触はありません」


 画面の向こうの相手が何かを言った。

 カイはちらりと夜空を見上げた。


「それと、本日の昼、航空機が一機、上空を通過しています。飛行機雲がはっきり見えました。上空から監視するにしてもやり方はもう少し……」


 再び相手の声。カイは小さくため息をついた。


「……ええ、ええ、分かってますよ。騒ぎにはなっていません。民はあれを『導きの雲』と呼んでます。めったにない吉兆だ、とね。……ありがたい話ではありますが、それに甘えないでいただきたい」


 画面の向こうの相手が再び何かを言ったらしい。


「……ああそれから、例の彼女について。投入から二か月、当地に完全に定着したと判断します。適応の速度は想定以上です」


 ふ、と。

 その口元だけが、いつもの笑みの形に戻った。


「ええ、上にはこう報告を。『分離から400年、共同体は現在も健全。外部世界の認知兆候なし。計画は予定どおり進行中』と」


 ぷつ、と光が消える。

 カイはしばらく、夜の海を眺めていた。

 波の向こう、水平線の彼方には何も見えない。

 けれど彼は知っている。この暗い海のずっと先に、眠らない街の灯りがあることを。

「……海の向こうは地獄、ねえ」

 小さく、笑う。

「あながち、間違いでもないんだよなあ」


 男はまた、何事もなかったように歩き出す。

 月明かりの浜辺には、波の音だけが残った。

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― 新着の感想 ―
保護区みたいなもの?
映画のタイタニックと猿の惑星をなんとなく思い出しました。 (タイタニックは、甲板で映画を真似ての転落死事故を聞いたことがあるためです。) パックは、本名ですか?それとも、シェイクスピアの真夏の夜の夢に…
オチもついて、ちゃんとしてる。よき。
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