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魔王進化譚  作者: 趣味に生きる


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8/22

夜と言葉

 森の中は、日が落ちるのが早かった。

 さっきまで差し込んでいた光は、気づけばほとんど消えている。木々の隙間から見えていた空も、暗い青に変わっていた。

 俺は周囲を見回しながら、小さく息を吐いた。


(……そろそろだな)


 夜になる。

 つまり――

 一番危険な時間だ。

 昼間とは違う生き物が動き出す。

 視界は悪くなる。

 音は増える。

 そして何より、油断したら終わる。

 俺は桜花の方を見る。

 彼女も同じように辺りを見ていたが、やはり不安そうだった。耳がわずかに下がっている。


(まあ、怖いよな)


 俺だって怖い。

 慣れる気もしない。

 だからこそ、昨日と同じように木の上を選ぶ。

 俺は近くの木を指さし、軽く手を上げた。


(上)


 という意味で。

 桜花は一瞬考えるように目を動かしたあと、小さく頷いた。

 理解している。

 昨日よりも早く。

 俺は先に登る。

 枝に手をかけ、体を引き上げる。

 後ろから桜花も続く。

 まだぎこちないが、昨日より確実に上達していた。

 途中で少し足を滑らせたが、俺が手を伸ばすと、すぐにそれを掴んできた。

 力は弱い。

 でも、しっかり握り返してくる。

 そのまま引き上げると、二人で太い枝の上に座り込んだ。


「ギャ……」


 桜花が息を吐く。

 少し疲れた顔。

 でも、どこか達成感もある。


(慣れてきたな)


 俺は軽く頷いた。

 桜花もそれを見て、少しだけ嬉しそうに目を細める。

 ……こういうの、なんかいいな。

 言葉は通じないのに、通じてる感じがする。

 だが。

 だからこそ、思う。


(……言葉、必要だな)


 今まではなんとかなっていた。

 でも、これから先は無理だ。

 戦い。

 危険。

 判断。

 全部、もっと正確に伝えないといけない。


 そして――


 できれば。

 もっと、ちゃんと話したい。

 そう思った。

 俺は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。


「……みず」


 もちろん、発音は完全じゃない。

 ゴブリンの口だ。

 人間みたいに綺麗にはいかない。

 でも、できるだけはっきり言った。

 そして、沢の方を指さす。

 桜花は首をかしげる。

 俺を見る。

 指差す方向を見る。

 もう一度俺を見る。


「……みず」


 繰り返す。

 桜花の目が少しだけ動いた。

 何かを考えている。

 理解しようとしている。

 やっぱり知能は高い。

 俺はもう一度同じことをした。


「みず」


 指差す。

 沢。

 水。

 桜花はゆっくりと頷いた。


「ギャ」


 短く鳴く。

 でも、その目はさっきと違った。

 ただの音じゃない。

 理解した反応。


(いけるか……?)


 俺は次を試す。

 地面に置いてあった木の実を手に取る。

 そして口に運ぶ。


「……たべる」


 言う。

 もう一度。


「たべる」


 桜花はじっと見ている。

 俺の動き。

 口。

 手。

 全部を。


 そして――


 自分でも木の実を取る。

 同じように口に運ぶ。


「ギャ……」


 少し違う。

 でも、何かを真似しようとしている。

 俺は軽く頷いた。


(いいぞ)


 そういう気持ちで。

 桜花はそれを見て、少しだけ安心したように息をついた。

 その様子が、やけに嬉しかった。

 俺は次に、桜花の方を指さした。

 そして自分を指す。

 順番に。

 意味はない。

 でも、何かを伝えようとしているということだけは分かるはずだ。

 桜花は不思議そうにしながらも、それを見ていた。


 そして――


 自分の胸に手を当てる。


「……ギャ」


 小さく鳴く。

 俺は一瞬、動きを止めた。

 ……それ。

 もしかして。


(自分……って意味か?)


 完全には分からない。

 でも、少なくとも何かを理解している。

 偶然じゃない。

 確実に。


(すごいな……)


 思わずそう思った。

 ただのゴブリンじゃない。

 桜花は、ちゃんと考えている。


 そして――


 覚えようとしている。

 その時だった。

 遠くで獣の声がした。

 低い唸り。

 近くはない。

 でも、確実にいる。

 桜花の体がびくっと震える。

 さっきまでの落ち着いた様子が消え、不安が戻る。

 俺は周囲を見回す。

 暗い。

 何も見えない。

 でも、音だけははっきりしている。

 森の夜は、やっぱり怖い。

 俺はゆっくりと桜花の方に体を寄せた。

 そして、枝に背を預ける。

 何も言えない。

 言葉がない。


 でも――


 離れない。

 それだけでいいと思った。

 桜花は一瞬迷ったあと、ゆっくりとこちらに寄ってくる。

 昨日と同じ。

 でも、少し違う。

 今日は、自分から近づいてきた。

 俺の腕に触れる。

 そして、小さく息を吐いた。


「……ギャ」


 短い声。

 でも、さっきとは違う。

 意味がある気がした。

 俺は小さく言った。


「……だいじょうぶ」


 分かるはずない。

 でも、言った。

 ゆっくりと。

 何度か繰り返す。


「だいじょうぶ」


 桜花は俺を見る。

 じっと。

 その目が少しだけ揺れた。

 そして――


 口を動かした。


「……だ……」


 止まる。

 でも。

 確かに。

 音が変わった。

 ただの「ギャ」じゃない。

 俺は思わず息を呑んだ。


(今……)


 言おうとした。

 言葉を。

 桜花は少しだけ恥ずかしそうに目を逸らす。

 でも、その顔にはどこか嬉しさもあった。

 俺はゆっくりと息を吐いた。


(時間はかかるな)

(でも――)

(いける)


 確信した。

 桜花は話せるようになる。

 ただの魔物じゃない。

 ちゃんと。

 言葉で。

 意思を伝えられるようになる。

 俺は夜の森を見ながら、小さく呟いた。


「……一緒に、やるか」


 教える。

 覚える。

 少しずつ。

 ゆっくりでもいい。

 桜花が隣で、小さく体を預けてくる。

 その温もりを感じながら、俺は目を閉じた。

 怖い夜は、まだ終わらない。

 でも。

 もう、一人じゃない。


 そして――


 少しずつ、言葉が生まれていく。

 そんな予感がした。

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