夜と言葉
森の中は、日が落ちるのが早かった。
さっきまで差し込んでいた光は、気づけばほとんど消えている。木々の隙間から見えていた空も、暗い青に変わっていた。
俺は周囲を見回しながら、小さく息を吐いた。
(……そろそろだな)
夜になる。
つまり――
一番危険な時間だ。
昼間とは違う生き物が動き出す。
視界は悪くなる。
音は増える。
そして何より、油断したら終わる。
俺は桜花の方を見る。
彼女も同じように辺りを見ていたが、やはり不安そうだった。耳がわずかに下がっている。
(まあ、怖いよな)
俺だって怖い。
慣れる気もしない。
だからこそ、昨日と同じように木の上を選ぶ。
俺は近くの木を指さし、軽く手を上げた。
(上)
という意味で。
桜花は一瞬考えるように目を動かしたあと、小さく頷いた。
理解している。
昨日よりも早く。
俺は先に登る。
枝に手をかけ、体を引き上げる。
後ろから桜花も続く。
まだぎこちないが、昨日より確実に上達していた。
途中で少し足を滑らせたが、俺が手を伸ばすと、すぐにそれを掴んできた。
力は弱い。
でも、しっかり握り返してくる。
そのまま引き上げると、二人で太い枝の上に座り込んだ。
「ギャ……」
桜花が息を吐く。
少し疲れた顔。
でも、どこか達成感もある。
(慣れてきたな)
俺は軽く頷いた。
桜花もそれを見て、少しだけ嬉しそうに目を細める。
……こういうの、なんかいいな。
言葉は通じないのに、通じてる感じがする。
だが。
だからこそ、思う。
(……言葉、必要だな)
今まではなんとかなっていた。
でも、これから先は無理だ。
戦い。
危険。
判断。
全部、もっと正確に伝えないといけない。
そして――
できれば。
もっと、ちゃんと話したい。
そう思った。
俺は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「……みず」
もちろん、発音は完全じゃない。
ゴブリンの口だ。
人間みたいに綺麗にはいかない。
でも、できるだけはっきり言った。
そして、沢の方を指さす。
桜花は首をかしげる。
俺を見る。
指差す方向を見る。
もう一度俺を見る。
「……みず」
繰り返す。
桜花の目が少しだけ動いた。
何かを考えている。
理解しようとしている。
やっぱり知能は高い。
俺はもう一度同じことをした。
「みず」
指差す。
沢。
水。
桜花はゆっくりと頷いた。
「ギャ」
短く鳴く。
でも、その目はさっきと違った。
ただの音じゃない。
理解した反応。
(いけるか……?)
俺は次を試す。
地面に置いてあった木の実を手に取る。
そして口に運ぶ。
「……たべる」
言う。
もう一度。
「たべる」
桜花はじっと見ている。
俺の動き。
口。
手。
全部を。
そして――
自分でも木の実を取る。
同じように口に運ぶ。
「ギャ……」
少し違う。
でも、何かを真似しようとしている。
俺は軽く頷いた。
(いいぞ)
そういう気持ちで。
桜花はそれを見て、少しだけ安心したように息をついた。
その様子が、やけに嬉しかった。
俺は次に、桜花の方を指さした。
そして自分を指す。
順番に。
意味はない。
でも、何かを伝えようとしているということだけは分かるはずだ。
桜花は不思議そうにしながらも、それを見ていた。
そして――
自分の胸に手を当てる。
「……ギャ」
小さく鳴く。
俺は一瞬、動きを止めた。
……それ。
もしかして。
(自分……って意味か?)
完全には分からない。
でも、少なくとも何かを理解している。
偶然じゃない。
確実に。
(すごいな……)
思わずそう思った。
ただのゴブリンじゃない。
桜花は、ちゃんと考えている。
そして――
覚えようとしている。
その時だった。
遠くで獣の声がした。
低い唸り。
近くはない。
でも、確実にいる。
桜花の体がびくっと震える。
さっきまでの落ち着いた様子が消え、不安が戻る。
俺は周囲を見回す。
暗い。
何も見えない。
でも、音だけははっきりしている。
森の夜は、やっぱり怖い。
俺はゆっくりと桜花の方に体を寄せた。
そして、枝に背を預ける。
何も言えない。
言葉がない。
でも――
離れない。
それだけでいいと思った。
桜花は一瞬迷ったあと、ゆっくりとこちらに寄ってくる。
昨日と同じ。
でも、少し違う。
今日は、自分から近づいてきた。
俺の腕に触れる。
そして、小さく息を吐いた。
「……ギャ」
短い声。
でも、さっきとは違う。
意味がある気がした。
俺は小さく言った。
「……だいじょうぶ」
分かるはずない。
でも、言った。
ゆっくりと。
何度か繰り返す。
「だいじょうぶ」
桜花は俺を見る。
じっと。
その目が少しだけ揺れた。
そして――
口を動かした。
「……だ……」
止まる。
でも。
確かに。
音が変わった。
ただの「ギャ」じゃない。
俺は思わず息を呑んだ。
(今……)
言おうとした。
言葉を。
桜花は少しだけ恥ずかしそうに目を逸らす。
でも、その顔にはどこか嬉しさもあった。
俺はゆっくりと息を吐いた。
(時間はかかるな)
(でも――)
(いける)
確信した。
桜花は話せるようになる。
ただの魔物じゃない。
ちゃんと。
言葉で。
意思を伝えられるようになる。
俺は夜の森を見ながら、小さく呟いた。
「……一緒に、やるか」
教える。
覚える。
少しずつ。
ゆっくりでもいい。
桜花が隣で、小さく体を預けてくる。
その温もりを感じながら、俺は目を閉じた。
怖い夜は、まだ終わらない。
でも。
もう、一人じゃない。
そして――
少しずつ、言葉が生まれていく。
そんな予感がした。




