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魔王進化譚  作者: 趣味に生きる


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5/20

はじめての生き方

 森の中は、思っていたよりずっと静かだった。

 いや、静かに感じただけかもしれない。

 実際にはいろんな音がしている。風で葉が揺れる音。遠くで鳴く鳥の声。草を踏む虫か何かの気配。どこかで木の実が落ちるような小さな音。

 でも、それら全部が洞窟の中とは違った。

 洞窟は閉じた世界だった。暗くて、湿っていて、息が詰まるような場所だった。

 それに比べて、ここは広い。

 空が見える。

 風がある。

 明るい。

 それだけで少しだけ気が楽になった。


 ……もっとも、安全とはまったく思えなかったが。


 俺は立ち止まり、周囲を見回した。

 背の高い木が何本も立っている。下草は思ったより少ないが、代わりに木の根があちこちで地面を這っていて歩きづらい。少し離れたところには茂みもある。身を隠すには使えそうだが、中に何がいるか分からない以上、むしろ近寄りたくない。


 桜花は俺のすぐ後ろにいた。

 小さな足音が止まる。

 振り返ると、彼女もきょろきょろと辺りを見回していた。赤みのある瞳に不安が浮かんでいる。

 そりゃそうだ。

 洞窟育ちなら、外なんて未知そのものだろう。

 まあ、俺も似たようなものだけど。


(まず何をするべきだ)


 食料。

 水。

 寝る場所。

 安全確認。


 思いつくのはそのくらいか。

 人間だった頃にキャンプの経験なんてほとんどない。動画で見たような知識や、なんとなく聞いたことがある話を寄せ集めて考えるしかない。

 とはいえ、立ち止まっていても仕方ない。

 俺はとりあえず歩き出した。

 すると、後ろで小さく「ギャ」と声がした。

 桜花だ。

 俺が先に進んだことで慌ててついてきたらしい。小走りで追いついて、また俺の少し後ろを歩く。

 その距離が妙に可笑しくて、少しだけ肩の力が抜けた。


(完全についてくる気だな)


 まあ、一人よりはいい。

 多分。

 いや、きっと。

 少なくとも、何もない森の中で本当に一匹きりになるよりは。

 しばらく歩くと、地面が少し湿っている場所に出た。

 草の色も濃い。

 耳を澄ますと、かすかに水音がする。


(……水か?)


 俺は足を止めた。

 川や沢が近いのかもしれない。

 水は必要だ。飲まなければ死ぬ。

 ただし、水辺には生き物が集まる。獣も来る。安全とは限らない。

 でも、探さないわけにもいかない。

 俺は慎重に音のする方向へ進んだ。

 木々の隙間を抜けた先に、小さな流れがあった。浅い沢だ。幅は狭いが、水は澄んでいるように見える。流れもある。

 少しだけ安心した。


(流れてる水なら、たぶん大丈夫……だよな)


 煮沸とか消毒とか、本来なら必要なんだろう。でも今の俺たちにそんな余裕はない。

 俺はしゃがみこみ、手ですくって匂いを確かめた。

 ……分からん。

 でも変な臭いはしない。

 意を決して口に運ぶ。

 冷たい。

 思った以上に冷たくて、喉を滑り落ちる感覚がやけにはっきりした。

 生き返る、という表現がしっくりくる。

 俺は何度か水を飲み、そこでようやく後ろを見た。

 桜花が沢を見つめていた。

 飲んでいいのか迷っている顔だ。

 俺は軽く手招きした。

 来い、というつもりで。

 桜花は恐る恐る近づき、俺と同じようにしゃがんだ。そして俺の様子を真似するように手で水をすくい、口に運ぶ。


 次の瞬間、目を丸くした。


「ギャ……」


 少しだけ嬉しそうな声だった。

 どうやら気に入ったらしい。

 何度か繰り返して飲んでから、桜花はほっとしたように息をついた。

 その顔を見て、俺もなんだか安心する。


(……よかった)


 ただ水を飲めただけなのに。

 でも、この世界ではそれだけで十分すぎる成果だ。

 問題は次だ。

 食料。

 腹は空いていた。レベルアップで傷は治っても、空腹までは消えないらしい。いや、少し軽くなった気もするが、気のせいだろう。腹の中が空っぽなのは変わらない。

 周囲を見渡す。

 木の実がなっている木がないか。食べられそうなキノコはないか。あるいは虫でも捕まえられれば最悪なんとかなるかもしれない。

 ……いや、虫はできれば最後の手段にしたい。

 俺は沢の近くを歩きながら、地面や木の根元を観察した。

 すると、少し離れたところで桜花がしゃがみこんでいるのが見えた。

 何か見つけたらしい。

 近づいてみると、彼女は木の根元に生えていた小さなキノコを指さしていた。

 見覚えがある。

 洞窟の中で分けてもらったものに似ていた。


(同じか?)


 正直、自信はない。

 毒キノコだったら終わりだ。

 でも桜花は迷いなくそれを採った。しかも、まず自分で食べるのではなく俺に差し出してくる。

 思わず苦笑する。


(いや、まずお前が食えよ)


 というか、毎回それだな。

 俺は受け取って、しばらくキノコを見つめた。

 ……分からん。

 でも、洞窟のものと見た目も匂いもかなり近い。少なくとも強い毒がある感じはしない。

 小さくちぎって口に入れる。

 少し青臭いが、食べられないことはない。

 しばらく待つ。

 異常なし。


(いけるか)


 俺は残りを半分にして、桜花に返した。

 彼女はまた不思議そうに目を瞬かせたあと、受け取って食べた。

 なんだろう。

 そのやりとりが妙に自然になってきている。

 分け合うことが、当たり前みたいに。

 人間社会では普通のことだ。けれど、この世界では多分そうじゃない。

 少なくとも群れの中では、強いやつが取っていた。

 でも桜花は差し出すし、俺も半分返している。

 変な関係だ。


 だけど、悪くない。


 俺たちはそのあとも周辺を探し、食べられそうなキノコと木の実を少し集めた。量は十分とは言えないが、とりあえず今日をしのぐくらいならなんとかなるかもしれない。

 問題は寝る場所だ。

 地面でそのまま寝るのはまずい。夜に獣が来たら終わる。木の上が安全、という話は知っているが、今の俺たちにうまく登れるだろうか。

 試しに近くの木に手をかけてみる。

 ごつごつした樹皮で、爪は引っかかりやすい。


 ……いけるかもしれない。


 俺は足をかけ、ゆっくり体を持ち上げてみた。人間だった頃よりずっと軽い体のおかげか、思ったより登れる。

 ただし、慣れていないので遅い。

 少し登ったところで下を見ると、桜花が心配そうに見上げていた。

 俺は降りてきて、今度は彼女に木を指さした。

 登れ、という意味で。

 桜花は首をかしげたが、俺がもう一度登って見せると、意図を理解したらしい。

 真似して木に手をかける。

 ……が、うまくいかない。

 足が滑る。

 腕の力も足りないのか、少し上がってはずるっと落ちる。


「ギャ……」


 明らかにしょんぼりしていた。

 俺は一瞬、先に登ってしまおうかとも思った。

 正直、その方が楽だ。

 ここは生き残るための世界で、綺麗事を言っていられる状況じゃない。

 でも。

 桜花がもう一度木に手をかけるのを見て、そんな考えは消えた。

 彼女は諦めていなかった。

 小さな手で必死に幹にしがみついている。

 腕も足も震えているのに、それでも登ろうとしていた。

 置いていくなんて、できるわけがなかった。

 俺は桜花の横に回り込み、まず自分が少し登った。それから手を伸ばして、彼女の腕を引く。

 桜花が驚いた顔で俺を見る。

 俺はもう片方の手で木を叩いた。

 ここに足をかけろ、というつもりで。

 なんとか伝わったらしい。

 桜花は言われた通りに足を置き、俺はその体を引き上げる。

 一歩。

 また一歩。

 何度か繰り返し、ようやく太い枝のところまでたどり着いた。

 桜花は枝の上に座り込むと、しばらく呆然としていた。

 それから、ぱっと顔を輝かせた。


「ギャ!」


 嬉しそうだった。

 それを見た瞬間、思わず笑いそうになる。


(大げさだな)


 でも、初めてできたことって、こういうものかもしれない。

 俺たちはその枝の上で、少しだけ休んだ。

 下よりは安全そうだ。少なくとも視界が広いし、何か来ても気づきやすい。落ちたら危ないが、眠るときは幹にもたれればなんとかなる……と思いたい。

 太陽は少し傾き始めていた。

 森の光が柔らかくなっていく。

 思ったよりも早く時間が過ぎていたらしい。

 今日はここまでにするしかない。

 俺は集めた木の実をいくつか取り出し、桜花に渡した。

 桜花は受け取ると、少しだけ口をつけてから、また俺に差し出してくる。

 またか。

 俺は苦笑しながら受け取り、今度は最初から半分に割って返した。

 桜花はその様子を見て、小さく「ギャ」と鳴く。

 なんだか笑われた気がした。

 ……気のせいかもしれないけど。

 食事を終えたあと、辺りはだんだん暗くなってきた。

 森の夜は怖い。

 昼間とは違う気配が満ちてくる。遠くのどこかで獣が鳴いた。木々の間を渡る風の音さえ、不気味に聞こえる。

 桜花の肩がびくっと震えた。

 無理もない。

 俺だって怖い。

 でも、怖いなんて言っていられない。

 俺は枝に背中を預け、周囲を警戒しながら座った。

 桜花も最初は少し離れたところに座っていたが、しばらくすると、じりじりとこちらへ寄ってきた。

 そして、最後には俺の腕に軽く触れるくらいの距離で止まる。

 振り向くと、桜花は少しだけ目を伏せた。


 ……怖いんだろうな。


 俺は何も言わず、そのままにしておいた。

 追い払う理由なんてない。

 しばらくして、桜花の体重がそっと俺の肩にもたれかかった。

 驚いて横を見る。

 彼女は目を閉じていた。

 眠ろうとしているらしい。

 俺は少しだけ体を固くしたが、すぐに力を抜いた。

 温かかった。

 思っていたよりもずっと。


(……あったかいな)


 ゴブリンなのに、なんて考えが一瞬よぎって、すぐに打ち消した。

 違う。

 多分、そういうことじゃない。


 桜花だからだ。


 俺を信じて、隣にいる。

 それが妙に心に響いた。

 俺は暗い森を見つめながら、静かに息を吐いた。

 事故で死んで、ゴブリンに転生して。

 最弱で、何も持っていなくて。

 それでも今、こうして生きている。


 しかも一人じゃない。

 隣には桜花がいる。

 頼りなくて、小さくて、優しい。

 守らなきゃいけないと思う。

 同時に、俺もこいつに助けられている気がした。

 たぶん、精神的に。


(……生きるか)


 ぼんやりと思う。


(今度は、ちゃんと)


 ただ生き延びるだけじゃない。

 できるなら。

 桜花と一緒に。

 そう思ったところで、桜花の寝息が小さく聞こえた。

 寝るの早いな。

 少しだけ笑ってしまう。

 俺はそのまま目を閉じず、暗闇の向こうを見続けた。

 夜の森は怖い。

 でも、今は耐えられる。

 守るものがあるからか。

 それとも、隣に誰かがいるからか。

 たぶん、その両方だ。

 こうして俺たちの、森での最初の一日は終わった。

 明日、生きていられる保証なんてどこにもない。


 それでも。


 今日より少しだけ上手くやれればいい。

 そんなふうに思えたのは、多分――

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