はじめての生き方
森の中は、思っていたよりずっと静かだった。
いや、静かに感じただけかもしれない。
実際にはいろんな音がしている。風で葉が揺れる音。遠くで鳴く鳥の声。草を踏む虫か何かの気配。どこかで木の実が落ちるような小さな音。
でも、それら全部が洞窟の中とは違った。
洞窟は閉じた世界だった。暗くて、湿っていて、息が詰まるような場所だった。
それに比べて、ここは広い。
空が見える。
風がある。
明るい。
それだけで少しだけ気が楽になった。
……もっとも、安全とはまったく思えなかったが。
俺は立ち止まり、周囲を見回した。
背の高い木が何本も立っている。下草は思ったより少ないが、代わりに木の根があちこちで地面を這っていて歩きづらい。少し離れたところには茂みもある。身を隠すには使えそうだが、中に何がいるか分からない以上、むしろ近寄りたくない。
桜花は俺のすぐ後ろにいた。
小さな足音が止まる。
振り返ると、彼女もきょろきょろと辺りを見回していた。赤みのある瞳に不安が浮かんでいる。
そりゃそうだ。
洞窟育ちなら、外なんて未知そのものだろう。
まあ、俺も似たようなものだけど。
(まず何をするべきだ)
食料。
水。
寝る場所。
安全確認。
思いつくのはそのくらいか。
人間だった頃にキャンプの経験なんてほとんどない。動画で見たような知識や、なんとなく聞いたことがある話を寄せ集めて考えるしかない。
とはいえ、立ち止まっていても仕方ない。
俺はとりあえず歩き出した。
すると、後ろで小さく「ギャ」と声がした。
桜花だ。
俺が先に進んだことで慌ててついてきたらしい。小走りで追いついて、また俺の少し後ろを歩く。
その距離が妙に可笑しくて、少しだけ肩の力が抜けた。
(完全についてくる気だな)
まあ、一人よりはいい。
多分。
いや、きっと。
少なくとも、何もない森の中で本当に一匹きりになるよりは。
しばらく歩くと、地面が少し湿っている場所に出た。
草の色も濃い。
耳を澄ますと、かすかに水音がする。
(……水か?)
俺は足を止めた。
川や沢が近いのかもしれない。
水は必要だ。飲まなければ死ぬ。
ただし、水辺には生き物が集まる。獣も来る。安全とは限らない。
でも、探さないわけにもいかない。
俺は慎重に音のする方向へ進んだ。
木々の隙間を抜けた先に、小さな流れがあった。浅い沢だ。幅は狭いが、水は澄んでいるように見える。流れもある。
少しだけ安心した。
(流れてる水なら、たぶん大丈夫……だよな)
煮沸とか消毒とか、本来なら必要なんだろう。でも今の俺たちにそんな余裕はない。
俺はしゃがみこみ、手ですくって匂いを確かめた。
……分からん。
でも変な臭いはしない。
意を決して口に運ぶ。
冷たい。
思った以上に冷たくて、喉を滑り落ちる感覚がやけにはっきりした。
生き返る、という表現がしっくりくる。
俺は何度か水を飲み、そこでようやく後ろを見た。
桜花が沢を見つめていた。
飲んでいいのか迷っている顔だ。
俺は軽く手招きした。
来い、というつもりで。
桜花は恐る恐る近づき、俺と同じようにしゃがんだ。そして俺の様子を真似するように手で水をすくい、口に運ぶ。
次の瞬間、目を丸くした。
「ギャ……」
少しだけ嬉しそうな声だった。
どうやら気に入ったらしい。
何度か繰り返して飲んでから、桜花はほっとしたように息をついた。
その顔を見て、俺もなんだか安心する。
(……よかった)
ただ水を飲めただけなのに。
でも、この世界ではそれだけで十分すぎる成果だ。
問題は次だ。
食料。
腹は空いていた。レベルアップで傷は治っても、空腹までは消えないらしい。いや、少し軽くなった気もするが、気のせいだろう。腹の中が空っぽなのは変わらない。
周囲を見渡す。
木の実がなっている木がないか。食べられそうなキノコはないか。あるいは虫でも捕まえられれば最悪なんとかなるかもしれない。
……いや、虫はできれば最後の手段にしたい。
俺は沢の近くを歩きながら、地面や木の根元を観察した。
すると、少し離れたところで桜花がしゃがみこんでいるのが見えた。
何か見つけたらしい。
近づいてみると、彼女は木の根元に生えていた小さなキノコを指さしていた。
見覚えがある。
洞窟の中で分けてもらったものに似ていた。
(同じか?)
正直、自信はない。
毒キノコだったら終わりだ。
でも桜花は迷いなくそれを採った。しかも、まず自分で食べるのではなく俺に差し出してくる。
思わず苦笑する。
(いや、まずお前が食えよ)
というか、毎回それだな。
俺は受け取って、しばらくキノコを見つめた。
……分からん。
でも、洞窟のものと見た目も匂いもかなり近い。少なくとも強い毒がある感じはしない。
小さくちぎって口に入れる。
少し青臭いが、食べられないことはない。
しばらく待つ。
異常なし。
(いけるか)
俺は残りを半分にして、桜花に返した。
彼女はまた不思議そうに目を瞬かせたあと、受け取って食べた。
なんだろう。
そのやりとりが妙に自然になってきている。
分け合うことが、当たり前みたいに。
人間社会では普通のことだ。けれど、この世界では多分そうじゃない。
少なくとも群れの中では、強いやつが取っていた。
でも桜花は差し出すし、俺も半分返している。
変な関係だ。
だけど、悪くない。
俺たちはそのあとも周辺を探し、食べられそうなキノコと木の実を少し集めた。量は十分とは言えないが、とりあえず今日をしのぐくらいならなんとかなるかもしれない。
問題は寝る場所だ。
地面でそのまま寝るのはまずい。夜に獣が来たら終わる。木の上が安全、という話は知っているが、今の俺たちにうまく登れるだろうか。
試しに近くの木に手をかけてみる。
ごつごつした樹皮で、爪は引っかかりやすい。
……いけるかもしれない。
俺は足をかけ、ゆっくり体を持ち上げてみた。人間だった頃よりずっと軽い体のおかげか、思ったより登れる。
ただし、慣れていないので遅い。
少し登ったところで下を見ると、桜花が心配そうに見上げていた。
俺は降りてきて、今度は彼女に木を指さした。
登れ、という意味で。
桜花は首をかしげたが、俺がもう一度登って見せると、意図を理解したらしい。
真似して木に手をかける。
……が、うまくいかない。
足が滑る。
腕の力も足りないのか、少し上がってはずるっと落ちる。
「ギャ……」
明らかにしょんぼりしていた。
俺は一瞬、先に登ってしまおうかとも思った。
正直、その方が楽だ。
ここは生き残るための世界で、綺麗事を言っていられる状況じゃない。
でも。
桜花がもう一度木に手をかけるのを見て、そんな考えは消えた。
彼女は諦めていなかった。
小さな手で必死に幹にしがみついている。
腕も足も震えているのに、それでも登ろうとしていた。
置いていくなんて、できるわけがなかった。
俺は桜花の横に回り込み、まず自分が少し登った。それから手を伸ばして、彼女の腕を引く。
桜花が驚いた顔で俺を見る。
俺はもう片方の手で木を叩いた。
ここに足をかけろ、というつもりで。
なんとか伝わったらしい。
桜花は言われた通りに足を置き、俺はその体を引き上げる。
一歩。
また一歩。
何度か繰り返し、ようやく太い枝のところまでたどり着いた。
桜花は枝の上に座り込むと、しばらく呆然としていた。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「ギャ!」
嬉しそうだった。
それを見た瞬間、思わず笑いそうになる。
(大げさだな)
でも、初めてできたことって、こういうものかもしれない。
俺たちはその枝の上で、少しだけ休んだ。
下よりは安全そうだ。少なくとも視界が広いし、何か来ても気づきやすい。落ちたら危ないが、眠るときは幹にもたれればなんとかなる……と思いたい。
太陽は少し傾き始めていた。
森の光が柔らかくなっていく。
思ったよりも早く時間が過ぎていたらしい。
今日はここまでにするしかない。
俺は集めた木の実をいくつか取り出し、桜花に渡した。
桜花は受け取ると、少しだけ口をつけてから、また俺に差し出してくる。
またか。
俺は苦笑しながら受け取り、今度は最初から半分に割って返した。
桜花はその様子を見て、小さく「ギャ」と鳴く。
なんだか笑われた気がした。
……気のせいかもしれないけど。
食事を終えたあと、辺りはだんだん暗くなってきた。
森の夜は怖い。
昼間とは違う気配が満ちてくる。遠くのどこかで獣が鳴いた。木々の間を渡る風の音さえ、不気味に聞こえる。
桜花の肩がびくっと震えた。
無理もない。
俺だって怖い。
でも、怖いなんて言っていられない。
俺は枝に背中を預け、周囲を警戒しながら座った。
桜花も最初は少し離れたところに座っていたが、しばらくすると、じりじりとこちらへ寄ってきた。
そして、最後には俺の腕に軽く触れるくらいの距離で止まる。
振り向くと、桜花は少しだけ目を伏せた。
……怖いんだろうな。
俺は何も言わず、そのままにしておいた。
追い払う理由なんてない。
しばらくして、桜花の体重がそっと俺の肩にもたれかかった。
驚いて横を見る。
彼女は目を閉じていた。
眠ろうとしているらしい。
俺は少しだけ体を固くしたが、すぐに力を抜いた。
温かかった。
思っていたよりもずっと。
(……あったかいな)
ゴブリンなのに、なんて考えが一瞬よぎって、すぐに打ち消した。
違う。
多分、そういうことじゃない。
桜花だからだ。
俺を信じて、隣にいる。
それが妙に心に響いた。
俺は暗い森を見つめながら、静かに息を吐いた。
事故で死んで、ゴブリンに転生して。
最弱で、何も持っていなくて。
それでも今、こうして生きている。
しかも一人じゃない。
隣には桜花がいる。
頼りなくて、小さくて、優しい。
守らなきゃいけないと思う。
同時に、俺もこいつに助けられている気がした。
たぶん、精神的に。
(……生きるか)
ぼんやりと思う。
(今度は、ちゃんと)
ただ生き延びるだけじゃない。
できるなら。
桜花と一緒に。
そう思ったところで、桜花の寝息が小さく聞こえた。
寝るの早いな。
少しだけ笑ってしまう。
俺はそのまま目を閉じず、暗闇の向こうを見続けた。
夜の森は怖い。
でも、今は耐えられる。
守るものがあるからか。
それとも、隣に誰かがいるからか。
たぶん、その両方だ。
こうして俺たちの、森での最初の一日は終わった。
明日、生きていられる保証なんてどこにもない。
それでも。
今日より少しだけ上手くやれればいい。
そんなふうに思えたのは、多分――




