桜色の瞳
ネズミを倒した後、しばらくその場に座っていた。
体は回復したとはいえ、精神的な疲労は残っている。
初めて命をかけて戦った。
初めて自分の意思で誰かを守った。
その事実が、じわじわと実感になってくる。
俺は隣を見る。
小さいゴブリンが座っていた。
もう震えてはいない。
ただ、じっと俺を見ている。
警戒でも恐怖でもない。
信頼。
そんな目だった。
(……なんでそんな目するんだよ)
俺は苦笑したくなった。
俺はただ必死だっただけだ。
かっこいい理由なんてない。
でも――
助けたのは事実らしい。
その時だった。
洞窟の奥から声が聞こえた。
「ギャ!」
「ギャギャ!」
他のゴブリン達だ。
どうやら騒ぎが収まったらしい。
俺は立ち上がる。
ネズミの死体を見る。
(これ……食えるのか?)
そう思った瞬間。
別のゴブリンが近づいてきた。
大きい個体。
多分この群れの中で強い方。
そいつはネズミを見る。
そして俺を見る。
奪われると思った。
でも違った。
「ギャ」
短く鳴いた。
そしてネズミを引きずっていった。
他のゴブリン達の方へ。
分配するらしい。
(……意外だな)
完全な奪い合いではないらしい。
最低限のルールはあるみたいだ。
小さいゴブリンは俺の横から離れない。
完全に俺の後ろにいる。
ついてくる気満々だ。
(まあ……いいか)
その時だった。
突然。
洞窟の奥から別の音がした。
重い足音。
ドン……
ドン……
ドン……
空気が変わる。
さっきのネズミとは違う。
もっと危険。
本能が警告する。
ヤバい。
次の瞬間。
巨大な影が見えた。
洞窟の奥から現れたのは――
巨大な狼だった。
普通の狼じゃない。
大きさが異常だ。
馬くらいある。
黒い毛。
黄色い目。
牙が剣みたいに長い。
「グルルル……」
低い唸り声。
ゴブリン達が凍りつく。
完全な格上。
勝てる相手じゃない。
次の瞬間だった。
パニックになった。
全員一斉に逃げ出した。
統率も何もない。
ただ逃げる。
生き残るために。
俺も走った。
本能のままに。
後ろを見る余裕もない。
ただ走る。
横を見る。
小さいゴブリンも走っている。
必死に。
俺の後ろを。
追ってくる。
洞窟の中は迷路みたいだった。
右。
左。
分かれ道。
どっちが正しいか分からない。
でも止まれない。
後ろから遠吠え。
震える。
走る。
走る。
そして――
光が見えた。
出口?
外?
考える前に飛び出した。
眩しい。
光が強い。
目が慣れない。
でも止まれない。
外に出た。
そして振り返る。
誰もいない。
群れがいない。
洞窟の入口だけ。
静か。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに。
気づいた。
(……はぐれたな)
完全に。
群れから。
俺は周囲を見る。
初めて見る外の世界。
森だった。
高い木。草。風の音。土の匂い。空。
青い。
(異世界だな……)
本当に。
実感した。
その時。
後ろから小さな音。
振り向く。
小さいゴブリン。
息切れしている。
でも来た。ついてきた。
俺を見る。
安心した顔。
(……お前もか)
二匹だけになった。
完全に。
群れもいない。
仲間もいない。
拠点もない。
ただ森の中。
そして――
二匹。
俺は考える。
(これからどうする)
(生き残れるのか)
(食料は)
(寝る場所は)
分からないことだらけ。
でも。
隣を見る。
小さいゴブリン。
俺の横に座った。
不安そう。
でも離れない。
(……一人じゃないか)
それだけで少し違った。
俺はそいつの目を見る。
赤い。
でも真っ赤じゃない。
薄い赤。
どこか優しい色。
どこか見覚えある色。
そして思い出した。
日本の春。
桜。
(……桜色だな)
そう思った瞬間だった。
ふと思った。
(名前……ないな)
俺も。
こいつも。
名前がない。
ただのゴブリン。
ただの個体。
でも。
こいつは違う気がした。
俺についてきた。
俺を信じた。
だから――
俺は小さく言った。
(桜花)
もちろん声にはならない。
でも心の中で呼んだ。
(桜花)
(お前の名前だ)
すると――
文字が浮かんだ。
――個体名登録――
――桜花――
え?
表示を見る。
小さいゴブリン:
名前:桜花
表示された。
(名前付くのか……)
驚いた。
でも納得した。
名前は個体識別。
つまり特別扱い。
桜花は俺を見る。
「ギャ?」
首をかしげる。
俺はもう一度思う。
(桜花)
すると。
少し嬉しそうな顔をした。
気のせいかもしれない。
でも。
伝わった気がした。
その瞬間だった。
桜花が小さなキノコを出した。
どこから持ってきたのか。
俺に渡す。
まただ。
また分ける。
(優しいな……)
この世界では珍しい性格だ。
俺は受け取った。
そして思った。
(守るか)
自然にそう思った。
義務じゃない。
借りでもない。
ただ――
そうしたいと思った。
それだけ。
俺は森を見る。
(まずは生き残る)
(そのために強くなる)
(そのために――)
隣を見る。
桜花。
(こいつも守る)
決まった。
今の目標。
二匹で生きる。
それだけでいい。
俺は歩き出した。
森の奥へ。
桜花もついてくる。
小さな足音。
二つ。
こうして――
最弱ゴブリンと、
桜色の瞳の少女ゴブリンの、
二匹の旅が始まった。




