聖堂の庭と眠る結界
モグを連れて帰る場所を変えた。
あの店は、もう“安全な拠点”じゃない。クロードは次から店ごと差し押さえると言った。言った以上、必ずやる。
俺たちは城壁沿いの外れ、崩れた職人街のさらに奥――昔の鍛冶場跡にモグを寝かせた。炉は潰れ、煙突は折れ、床は煤で黒い。だが俺には、ここが一番落ち着く。
「……若造、帰ってきたな。墓場に」
モグが藁の上で笑う。頬の腫れが痛々しい。
「墓場じゃない。再開だ」
俺はそう言いながら、錆びた金床代わりの石に手を置いた。冷たい。けど、胸の奥は熱い。
エリシアは壁際に立ったまま、周囲を見回している。監察局の目だ。入口、窓、足跡、匂い――逃げ道の数まで数えている顔。
「短く話すわ」
彼女が言った。
「聖堂の庭は今夜、“祭礼前夜”で忙しい。外回りの見張りは増える。でも内部は、逆に穴ができる」
「人が多いほど、盲点も増える」
「そう。……ただし」
エリシアの声が少しだけ硬くなる。
「庭には結界が張られている。聖剣を眠らせるための結界。入った瞬間、あなたの剣は静かになる」
俺は布包みの上からレグルスを握った。
脈はある。けど、どこか薄い。
「眠らせる?」
「暴走防止。持ち込み防止。持ち出し防止。……三つの意味がある」
嫌な予感しかしない。
「その結界、俺の“炉のない鍛冶”にも効くのか」
「効く。完全には殺さないけど、鈍る」
鈍る、か。
鍛冶師にとって、火が鈍るのは致命傷に近い。
俺は息を吐き、星屑銀の欠片――伸ばした糸を指先に巻き付けた。
「じゃあ、火を“通す”道を作る」
エリシアが目を細めた。
「……それ、どういう意味?」
「星屑銀は受け皿だ。魔力を拒まない。なら、結界に弾かれにくい通路になる」
言いながら、自分の声が少しだけ震えているのが分かる。
怖い。でも――やる。
モグが咳払いした。
「おいおい。行く前に、これ持ってけ」
老人が投げてよこしたのは、小さな鉄片の束だった。釘、薄い板、短い鎖。全部、錆びている。
「武器か?」
「道具だ、若造。鍛冶師は手元で勝つ」
俺は受け取って頷いた。
「借りは増えるな」
「増やせ。返せるようになりゃ勝ちだ」
モグは笑ったまま、目を閉じた。
聖堂は、夜でも明るい。
尖塔の下、白い石造りが月光を跳ね返し、灯火が列を作って揺れている。祭礼の準備なのか、修道士や見習いが忙しなく行き来し、荷車が触媒や布や樽を運んでいた。
エリシアはローブのフードを深くかぶり、歩調を合わせた。
「裏の排水路から入る。庭の外壁の下に、監察局だけが知ってる通路がある」
「また下水か」
「あなた、文句が多い」
「湿気が嫌いなだけだ」
エリシアが小さく鼻で笑う。
そして、俺たちは地下へ降りた。
結界は、空気だった。
見えない。触れられない。なのに境界が“分かる”。
庭の外壁の下、排水路の出口に近づいた瞬間、肌に薄い膜が張り付いたみたいに息が重くなる。
レグルスの脈が、すっと沈んだ。
――静かになった。
胸の奥が、ひやりとする。
「……これが」
「そう。安寧結界。聖気を“整える”」
エリシアが囁く。
「ここでは、強い魔力の波が立ちにくい。あなたの剣も、あなたの火も、眠らされる」
俺は布包みを握りしめる。
そして、星屑銀の糸を結界の“境”にそっと伸ばした。
指先に魔力を集め――流す。
……いつもの感覚なら、じわりと熱が返るはずだ。
返らない。
代わりに、糸がほんの少しだけ白く光った。
そこだけが、結界の中へ“刺さった”ように見える。
「通った……」
俺の声が勝手に漏れる。
エリシアが目を細めた。
「結界に穴を開けたの?」
「穴じゃない。道を作っただけだ。……たぶん、すぐ閉じる」
「十分」
エリシアは短く言って、先に進んだ。
庭は、静かすぎた。
外の祭礼準備の喧騒が嘘みたいに遠い。白い石畳。剪定された低木。噴水の水音だけが響く。
そして中央に――聖樹。
巨大な古樹が、内側から淡く光っている。葉は夜なのに黒くなく、深い緑が透けて見える。幹には無数の祈り札が打たれ、根元には白い花が供えられていた。
……美しい。
でも、俺は鍛冶師だ。美しさの裏にある“素材”を見てしまう。
あの幹は、密度が異常だ。
木なのに、鉄みたいに“詰まっている”。
視界の端に、薄い表示が浮かんだ。
――《必要素材:聖樹芯》
――《反応:強(中央)》
その瞬間、レグルスが微かに脈打った。
眠っているはずなのに、反応がある。
「……始まってる」
エリシアが低く言った。
聖樹の根元――白い布で囲われた作業場に、数人の修道士と護衛がいる。中央には、銀の器具と、黒い箱。
箱の縁に刻まれた文様が、結界と同じ“整う”気配を放っている。
あれが、芯を運ぶ容器だ。
そして、そこに――ローデン司祭。
……やっぱり来てる。
「祭礼の前に処理する、って話は本当ね」
エリシアが息を吐く。
「監察局の許可は?」
「あるわけない」
エリシアの声が冷たくなる。
そのとき、作業場の奥から、見覚えのある影が現れた。
細身。整った顔。余裕の笑み。
ディラン。
ここにいる。
鍛冶師ギルドの人間が、聖堂の庭に。
「……繋がってるどころじゃないな」
俺が呟くと、エリシアが一瞬だけ歯を噛んだ。
「最悪の証拠ね。……でも、今は見るだけ。奪うのは“運搬中”が一番」
俺も同意だ。ここで暴れたら、結界の中で包囲される。
だが――作業が進む。
銀の器具が幹へ刺さり、祈りの言葉が低く唱えられる。すると幹の中心から、白く細い“芯”がゆっくり引き抜かれていくのが見えた。
木なのに、光っている。
繊維なのに、金属みたいに整っている。
俺の喉が鳴った。
――あれが、聖樹芯。
ローデンが低く命じる。
「急げ。監察局が動く前に運ぶ。……箱に入れろ」
修道士が芯を黒い箱へ収めようとした、その瞬間。
芯の先端が、床の石に擦れた。
ほんの少し。
欠片が――落ちた。
白く小さな、木片。
だが、落ちた瞬間に“音”がした。
木片なのに、金属みたいな澄んだ音。
俺の視界に表示が走る。
――《聖樹芯:欠片(微量)》
――《取得可能》
エリシアが、俺を見た。
「……取れる?」
「取る」
迷いはない。
俺は影を踏み、噴水の縁を使い、花壇の陰へ滑った。護衛の視線の角度、足音の間隔、祈りの声の切れ目――全部が“鉄の道”みたいに見える。
結界のせいで鈍い。でも、導きが残っている。
欠片まであと数歩。
そのとき、庭の片隅で“動くもの”がいた。
鎧。
白い装飾鎧が、独りで立っていた。
人が入っていないのに、首がゆっくりこちらへ回る。
空っぽの兜の奥に、淡い光。
「……庭番」
エリシアが唇を噛んだ。
「動く鎧よ。結界の番犬。触れたら起きる」
遅かった。
鎧が一歩踏み出した。
石畳が、きしむ。
その音が、妙に大きく響いた。
護衛の一人が顔を上げる。
「……何の音だ?」
まずい。
俺は瞬時に判断し、床に落ちていた錆び釘を摘まんだ。
魔力を流す。熱じゃない。圧と共鳴だけ。
釘が震え、鎧の足首の継ぎ目へ吸い込まれるように滑った。
ギン、と金属音。
鎧が体勢を崩す。
その一瞬で、エリシアが銀の札を投げた。
札が空中で燃えるように光り、鎧の胸へ貼り付く。
「――停止」
祈りの言葉。
鎧の動きが、半拍だけ止まる。
俺はその隙に欠片を拾った。
指先が、熱くなる。
木片なのに、確かに熱い。
……手応え。
だが、止まった鎧が“割れる”ように動いた。
停止の札が剥がれ、光が噴き出す。
「無理矢理動いてる……!」
エリシアの声が短くなる。
結界の中で、これはまずい。騒ぎが大きくなる。
俺は星屑銀の糸を指に巻き付けたまま、鎧の膝へ飛び込んだ。
継ぎ目に糸を通し、きゅっと締める。
星屑銀は魔力の道。
俺はそこへ魔力を流し、継ぎ目だけを一瞬“焼く”。
赤くならない。煙も出ない。
でも――金属の噛み合わせが、溶けて固まる。
鎧の膝が“固着”した。
動きが、止まる。
「……鍛冶で、関節を殺した?」
エリシアが息を呑む。
「今やるなって?」
「褒めてない!」
護衛の声が飛ぶ。
「そこだ! 誰だ!」
視線がこちらへ向く。
ローデンが叫ぶ。
「侵入者だ! 捕らえろ!」
――終わった。
いや、終わらせない。
エリシアが俺の腕を掴んだ。
「逃げる!」
俺は聖樹芯の欠片を握りしめ、走った。
結界の膜が重い。息が苦しい。足が粘る。
でも、星屑銀の糸が指で光っている。
道は、まだある。
噴水の影へ。低木の間へ。外壁へ。
背後で、ディランの声が聞こえた。
「……へえ。やっぱり君か」
軽い声。楽しそうな声。
「ねえ、司祭。あの逃げ方、普通じゃないよ。――“火”がある」
ローデンが苛立って吐き捨てる。
「構わん! 追え! 監察局が来る前に奪え!」
エリシアが歯を噛む。
「……最悪。あなたの同期、勘が鋭すぎる」
「俺はもっと最悪だ。……ここで捕まると、モグも終わる」
外壁の下、排水路の入口が見えた。
俺は星屑銀の糸を結界の境に当て、もう一度、魔力を流した。
糸が白く光り、膜が薄く“ほどける”感覚。
エリシアが先に潜り、俺も続く。
背後で矢が飛んだ。石に当たって弾ける音。
最後に、庭の静けさが破れる。
警鐘が鳴った。
――ゴォン、ゴォン、と。
そして、ディランの声が、遠くで笑った。
「逃げてもいいよ、レイン。君がどこへ行くか――その剣が教えてくれるから」
ぞくりとした。
結界の外へ出た瞬間、レグルスが強く脈打った。
『……追われる』
視界に表示が浮かぶ。
――《聖樹芯:欠片(微量)》
――《修復進行:可能(中)》
――《警告:追跡付与の疑い》
追跡付与。
つまり――ディランかローデンが、何かを仕込んだ可能性。
俺は握った欠片の熱を感じながら、息を吐いた。
「……取れた。でも、戦争が始まったな」
エリシアが、暗い地下道でこちらを見る。
「ええ。もう“材料集め”じゃない。……奪い合いよ」
俺は布包みを抱え直した。
聖樹芯の欠片は、掌の中で光っていた。
小さい。だが、確かな一歩。
そして――追跡の影。
次は、逃げるだけじゃ終わらない。




