地下道の奪還
下水の空気は冷たいのに、エリシアのランタンの光だけがやけに白かった。
水の滴る音。遠くで走る水の音。石壁に反射する祈りの文様。
「この先。上に出る梯子がある」
エリシアが淡々と言う。
「モグの店の裏床に繋がってる?」
「正確には“近い場所”。監察局は、聖堂関係者の避難路を複数持っている。……あなたの友人の店は、偶然その上に建ってただけ」
偶然、ね。
俺は布包みを抱え直す。レグルスは静かに脈打っている。遮断印の残り香がまだ効いているが、完全ではない。
不意に、表示が視界の端に浮かんだ。
――《微弱権能:導き(仮)》
――《対象:鉄の“気配”》
――《反応:強(近距離)》
強? 近い。
俺の鼓動が速くなる。モグが――すぐ上だ。
エリシアが石壁の一部に手を当て、隠された金具を引いた。
ぎ、と重い音。
壁が、観音開きのようにずれて、狭い縦穴が現れる。鉄の梯子が上へ伸びていた。
「上は、倉庫じゃない。路地裏の物置」
「十分だ」
俺が先に上る。梯子を握った瞬間、指先が微かに痺れた。
――鉄が怒っている。
上で何かが起きている。
蓋を押し上げた先は、古い物置の床下だった。
板の隙間から、灯りと影が見える。声も聞こえる。
「……モグ。隠してるだろう。レインを」
クロードの声だ。硬い。冷たい。嘘を吐くことに慣れている。
「知らねえって言ってんだろ」
モグの声は掠れていた。殴られたな。
「犬が迷っている。匂いが切れている。……誰かが手を貸した可能性がある。教会か、錬金術師か」
クロードが言った瞬間、別の声が重なった。
「勘違いするな、ギルドの犬。教会が街の鉄屑屋に興味を持つと思うか?」
……ローデン司祭。
最悪の組み合わせだ。ギルドと教会が同じ部屋にいる。
つまり――繋がってる。
俺の喉が乾く。
「どちらでもいい」
クロードが淡々と続ける。
「聖気の異常が出た。市の共鳴もあった。レインは何かを持っている。それを出せば、お前の処罰は軽くなる」
モグが、唾を吐く音。
「軽くなる? 誰が信じるか。……お前らみたいなのは、約束を守る顔してねえ」
ローデンが低く笑った。
「老いぼれ、口が過ぎる。神の前で――」
「神の前なら、殴るなよ」
モグの声が、逆に笑っている。
俺の拳が震えた。
今すぐ飛び出して殴りたい。だが、飛び出した瞬間に終わる。相手は二勢力、人数も不明。
エリシアが背後から、俺の袖を引いた。
「待って。ここで出たら、あなたが捕まる」
「モグが――」
「分かってる」
エリシアは息を吸って、床板の隙間から室内を見た。
「……人数、四。クロード、部下二。ローデンと護衛一。犬もいる」
犬。嗅ぎ分け。遮断印は残りが薄い。
エリシアが小さな封蝋片を取り出し、俺に渡した。
「これ、もう一枚。遮断印。犬用」
「……まだ持ってたのか」
「監察局だから」
言い方が相変わらずだ。
俺は頷き、布包みに封蝋粉を擦り込んだ。レグルスの脈がさらに沈む。
そして、俺は“導き”を使う。
床下の鉄――釘、蝶番、留め金。その流れが、うっすらと線になって見える。
――鍵。
店と物置を隔てる、裏扉の鍵が見えた。鉄の舌が掛かっている。
俺は指先に魔力を集め、鍵の内部だけを温めた。
炉じゃない。煙も出さない。熱だけを、ピンポイントで。
鉄が膨張して、噛み合わせが緩む。
カチ、と小さな音。
鍵が“勝手に”外れた。
エリシアが目を細める。
「……やっぱり、あなたの鍛冶は厄介ね」
「褒め言葉として受け取る」
俺たちは物置の床板を静かに外し、裏扉の陰へ滑り込んだ。
次は――囮。
俺は足元に落ちていた錆び釘を拾い、魔力を一滴。
釘が微かに震え、遠くの金属へ共鳴が走る。
――カン。
店の表側、遠い棚で音が鳴った。
「……何だ?」
部下の一人が反応した。
「また共鳴か?」
クロードが舌打ちする。
「犬を回せ。二人、見に行け」
足音が二つ、遠ざかる。
残るのは、クロード、ローデン、護衛、犬、そしてモグ。
――今なら、やれる。
エリシアが小さく息を吐き、ローブの内側から銀の札を出した。
監察局の紋。
彼女はその札を、扉の隙間から“見えるように”差し込む。
「私が出る。あなたは、その隙にモグを連れて」
「お前が矢面に立つのか」
「私の仕事。あなたの仕事は鍛冶。……助けたいなら、手を動かして」
冷たいのに、優しい言い方だった。
エリシアが扉を開けた。
「……そこまでにしなさい」
店の空気が、ぴんと張った。
クロードが振り向く。ローデンが眉をひそめる。犬が低く唸る。
エリシアは堂々と、店の真ん中へ歩いた。
「聖堂監察局、シスター・エリシア。ここで何をしているの?」
クロードが一瞬だけ顔を引きつらせた。
「……教会の監察が、なぜ鍛冶師ギルドの案件に口を出す」
「聖気の異常が出た。私の案件よ」
ローデンが鼻で笑った。
「監察局は“管理”が仕事だろう。現場に来る必要は――」
エリシアは視線だけでローデンを黙らせた。
あの司祭が、言葉を飲み込む。
……この女、やっぱり格が違う。
その隙に、俺は影の中を滑った。
モグの椅子の影まで。
モグは顔を腫らし、片腕を押さえていた。俺を見て、一瞬だけ目が見開かれる。
「……若造……」
「喋るな。立てるか」
「立てる……が、痛え」
「痛いのは後で直す」
鍛冶師が言う台詞じゃないが、今はそうするしかない。
俺はモグの身体を支え、裏へ引く。
だが犬が気づいた。
鼻息が近づく。唸りが強くなる。
――まずい。
遮断印は効いてるはずだ。だがモグは殴られて血が出てる。血の匂いまで遮断できない。
犬が飛びかかる――その瞬間。
俺は床に転がっていた鉄皿を蹴った。
ギン、と音が鳴る。
その音に、俺は魔力を乗せた。熱じゃない。“共鳴”だけ。
犬の首輪の金具が震え、嫌がるように鳴った。
犬が一瞬、後退する。
クロードが叫んだ。
「――何だ! 今の!」
気づかれた。
エリシアが即座に声を張った。
「クロード監察官。あなたの犬が聖堂の管理物に触れた。汚れたら責任が取れるの?」
「管理物……?」
「あなたたちが探している“聖気の異常”は、ここじゃない。別の地点で確認された。――今すぐ撤収しなさい」
嘘だ。だが言い切りが強い。
クロードが歯ぎしりする。
「……ローデン司祭。あなたはどう見る」
ローデンは一瞬だけ迷い、そして薄く笑った。
「監察局に逆らうのは得策ではない。……今夜は引け」
引け、だと?
つまり司祭は、ここで騒ぎを大きくしたくない。監察局に“繋がり”を嗅がれるのが怖い。
やっぱり黒だ。
俺はモグを抱え、裏扉へ向かう。だがクロードが最後に言った。
「……モグ。次はお前の店ごと差し押さえる。ギルド規約と治安維持の名目でな」
モグが、掠れた声で笑った。
「勝手にしな。鉄屑は……燃えるぞ」
俺は奥歯を噛む。
この借りは、利子付きで返す。
裏庭の板塀の穴を抜け、路地へ出た。
エリシアは数分遅れて合流した。顔色ひとつ変えていない。
「成功。……でも時間は稼げただけ」
「分かってる」
モグが俺の肩に寄りかかったまま、唸る。
「若造……お前、面倒の塊だな……」
「悪い」
「謝るな。……面白えから乗ったんだ。今さら降りねえ」
モグの声が少しだけ柔らかくなる。
エリシアが言った。
「モグ。あなた、さっきの連中の会話で何か聞いた?」
モグがゆっくり頷く。
「……聖堂の庭。聖樹だ。あいつら、今夜か明日に“芯”を抜く算段をしてる」
俺とエリシアが同時に息を止める。
「……本当か」
「ローデンが言ってた。『祭礼の前に処理する』ってな。……芯を抜けば、外に持ち出せる」
祭礼。
つまり、人が集まる。
警備も強まる。
でも逆に――紛れ込める。
レグルスが、布の中で強く脈打った。
視界に表示が浮かぶ。
――《必要素材:聖樹芯》
――《反応:強(移動予定)》
――《推奨:奪取(優先)》
「……向こうが先に動くなら」
俺は言葉を絞り出した。
「奪うしかない」
エリシアが静かに頷く。
「明日、聖堂は“祭礼準備”で混乱する。内部の監察も分断される。……その隙に行く」
モグが苦笑した。
「俺の店はどうすんだ」
「守る」
俺は即答した。
「……守れるように、鍛える。拠点を変える。追われても燃えない炉を作る」
モグが目を細める。
「言うようになったじゃねえか」
エリシアが付け足す。
「あなたの“炉”は、道具じゃない。あなた自身。……でも、身体が折れたら終わりよ」
「折れない」
レグルスが脈打つ。
『……折れるな』
俺は布包みを抱え直し、夜の王都を見上げた。
遠くに、聖堂の尖塔が見える。
あそこに、聖樹芯がある。
そして――あそこから、奪い返す。
奪われたもの全部を。




