銀髪の修道女
「……今の。あなた、何をしました?」
錬金術師ギルドの競り市――“月の三日市”の喧騒が、嘘みたいに静まった。
星屑銀の露店を囲んでいた客たちが、視線だけを行ったり来たりさせている。露店主は汗を拭き、教会の交渉役は苛立った顔で塊を睨んでいた。
そして、俺の前に立つ銀髪の修道女。
若い。だが目が、若くない。
刃物みたいに澄んでいて、逃げ道を先に塞ぐ種類の視線だ。
「あなたから……“聖”の匂いがする」
俺の掌の中で、布に包んだレグルスが小さく脈打つ。
『……警戒しろ』
ああ、分かってる。
俺はゆっくり息を吸って、笑うふりをした。
「匂い? ここは触媒と香料の匂いだらけだ。修道女さんの鼻のほうが――」
「誤魔化さないで」
言葉が途中で切られた。
圧がある。声を張っていないのに、周囲の空気が従ってしまう。
教会の交渉役が不機嫌そうに眉を寄せる。
「シスター、遊んでいる暇はない。星屑銀は――」
「黙ってください、ローデン司祭」
修道女は振り返りもせず、きっぱり言った。
司祭――ローデン。男が一瞬だけ言葉を失い、悔しそうに黙る。
……力関係が分かった。彼女は単なる付き添いじゃない。
「名前を」
修道女が言う。
「あなたの名前を教えて。逃げるなら、今のうちです」
脅しじゃない。忠告だ。
俺は心の中で舌打ちした。門番も、露店主も、教会も、錬金術師もいるこの場で走ったら終わる。追われる。掴まる。最悪――布包みを暴かれる。
レグルスの存在が露見した瞬間、俺は“回収対象”だ。
「……レインだ」
名字は言わない。
修道女は頷いた。
「私はシスター・エリシア。聖堂監察局の者です」
聖堂監察局。
教会の中でも、聖遺物や異端の調査をする連中――モグが嫌な顔で口にしていた“面倒くせえ連中”の中核だ。
エリシアは俺の抱える布包みを見た。
「それを見せて」
「ただの鉄屑だ。買ったわけでも盗んだわけでもない」
「見せて」
同じ言葉なのに、今度は“命令”の形をしていた。
背中に冷たい汗が流れる。
――どうする。
俺は足裏の感覚を確かめる。人垣。露店の台。警備の位置。出口は二つ。だが視線が集まっている。動けば目立つ。
レグルスが脈打つ。
表示が一瞬、視界の端で点滅した。
――《危険:聖気検知》
――《対策:遮断/偽装/離脱》
遮断? 偽装?
俺が考えるより先に、エリシアが小さな木札を取り出した。
十字の刻印。銀色の糸で縁取られている。
「その場で祈りの確認をします。抵抗しないで」
ローデン司祭が薄く笑う。
「見つかれば、処罰だ。素直に――」
「黙ってくださいと言ったはずです」
エリシアの声は冷たいのに、やけに優しかった。
……分からない。敵か味方か。
でも、“見つかれば終わり”だけは確実だ。
俺は決めた。
壊す。土俵を。
星屑銀のときと同じだ。目立たず、でも確実に。
俺は布包みの中に指先を滑り込ませ、レグルスへほんの一滴だけ魔力を流した。
熱が返ってくる。小さな、静かな炎。
その炎を――空気へ。
見えない“火花”みたいに散らす。
鍛冶の火は、炎だけじゃない。熱の流れ。圧の波。鉄が鳴く直前の緊張。
俺はそれを、周囲の金属へ共鳴させた。
露店の台。指輪だらけの錬金術師の器具。客の腰の短剣。警備の槍先。
カン、とどこかで金属音が鳴った。
次に、別の場所でカン。
カン、カン、カン――。
まるで誰かが遠くで金床を叩いているみたいに、会場のあちこちが小さく鳴り始める。
「なっ……何だ!?」
露店主が慌て、客がざわつく。
エリシアの眉が一瞬だけ動いた。
「……共鳴?」
その瞬間を、逃さない。
俺は人垣の揺れに紛れて半歩下がり、荷物を抱え直す。視線が散った。警備が周囲を確認し始める。
ローデン司祭が叫ぶ。
「警備! 不審者だ! そいつを――」
「静粛に!」
エリシアが声を張った。司祭の声が潰れる。教会側の人間が動揺する。
――今だ。
俺は一気に背を向け、客の列の隙間へ滑り込んだ。
走らない。歩く。早足。視線が追ってくる前に、角を曲がる。
出口――ではない。出口は詰まっている。
俺は屋台の裏へ入り、布の幕を押し上げ、通路を抜けた。
油の匂い、薬草の匂い、湿った石の匂い。
裏側は、表より暗い。
「レイン!」
呼ばれた。
心臓が跳ね上がる。
――追ってきた?
いや、違う。声はすぐ後ろではない。前からだ。
路地の入口に、銀髪が立っていた。
エリシア。
先回りされた。
「……早いな」
「あなたが出口へ向かわないのは分かっていた。逃げ慣れてる目をしてる」
褒められて嬉しいはずがない。
俺は布包みを抱え直し、立ち位置を探る。路地は狭い。壁は高い。逃げ道は――背後か、彼女を押し退けるか。
エリシアは手を上げた。
「待って。拘束しない。今は、あなたを連れて行くために来たんじゃない」
「なら何のために?」
「確認。……そして取引」
取引。
教会がそんな言葉を使うのか。
エリシアは一歩だけ近づき、声を落とした。
「あなたが持ってるのは聖遺物。しかも、ただの聖遺物じゃない。“剣”でしょう」
心臓が、嫌な音を立てた。
バレてる。断言に近い。
「証拠は?」
「匂い。共鳴。あなたの魔力の流し方。……それに」
エリシアの視線が、俺の胸元に落ちる。
星屑銀の欠片を隠した布の内側。
「あなた、さっき星屑銀を拾ったわね」
……見られてた。
俺は笑えなくなった。
「追い剥ぎでもする気か」
「違う」
エリシアは首を横に振った。
「私は“回収派”じゃない。正確に言うと――回収派に渡したくない」
意味が分からない。
教会なのに、教会に渡したくない?
「聖堂の中に、二つの派閥がある」
エリシアは淡々と続ける。
「聖遺物を守る派と、聖遺物を“使う”派。……そして使う派は、目的のためなら手段を選ばない」
ローデン司祭の顔が脳裏によぎる。あの男が値切りと圧で市場を支配しようとしたのは、単なる倹約じゃない。力の誇示だ。
「あなたの剣が“使われる”側に回ったら、街が燃える」
「……大袈裟だな」
「大袈裟じゃない」
エリシアの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「十年前、聖剣は一度“消えた”。記録から抹消され、保管庫からも、目録からも消された。……それをやったのが使う派。つまり、内部犯」
俺の背中に、ぞくりと寒気が走る。
レグルスが廃材捨て場にあった理由が、急に現実味を持つ。
「今、また匂いが戻った。だから監察局が動いてる。だけど――上層部に知られたら、あなたは捕まる。剣も奪われる。たぶん生きては帰れない」
「……それを止めたい、と」
「止めたい」
エリシアは小さく息を吐き、懐から小さな封蝋の筒を出した。
白い蝋に銀の十字。祈りの文様が刻まれている。
「これは“遮断印”。短時間だけ、聖気の匂いを薄められる。完璧じゃないけど、追跡を遅らせることはできる」
俺はそれを見つめる。
欲しい。喉から手が出るほど。
でも、罠かもしれない。
「条件は?」
「一つ。あなたが持ってる剣を、ここで抜かないこと。……もう一つ」
エリシアは俺を真っ直ぐ見た。
「修復を進めて。剣の“状態”を私に知らせて。あなたが逃げ切れたとしても、素材を集める過程で絶対に目をつけられる。私の情報がなければ、あなたはいつか詰む」
「俺を監視するってことか」
「守ると言って。信じなくていい。でも、あなたは一人じゃ無理」
モグの顔が浮かんだ。あの老人だって、いつまでも俺を匿えるわけじゃない。
そして、レグルスの声。
『……選べ』
俺は、封蝋の筒を受け取った。
「……分かった。だが俺の条件も一つ」
エリシアが頷く。
「言って」
「俺の剣は、俺が鍛える。誰にも渡さない。教会にも」
エリシアは少しだけ目を細め――やがて、笑った。
ほんの一瞬。祈りの像みたいな硬さが消えた。
「その言い方、嫌いじゃない。……じゃあ、取引成立」
次の瞬間、遠くから怒声が聞こえた。
「探せ! 逃がすな!」
「さっきの不審者だ!」
ローデン司祭の声だ。
エリシアは舌打ちし、俺の手首を掴んだ。
「来て。こっち」
「おい――」
「抵抗しないで。今、あなたが捕まれば終わり」
引かれるまま、路地の奥へ走る。石段を下り、狭い通路を抜け、古い排水路の蓋を開ける。
湿った空気が顔を叩いた。
「……下水?」
「王都の裏道。監察局の通路でもある」
エリシアは迷いなく進む。暗闇の中で、彼女の銀髪だけが月光を拾っていた。
数分後、別の路地に出た。
背後の騒ぎは遠い。
俺は息を整えながら、封蝋の筒を握り締めた。
「……助けられたのか、俺は」
「借りを作っただけ」
エリシアはきっぱり言う。
「あなたは鍛冶師。私は監察。目的は違う。でも今は利害が一致してる。……それだけ」
それだけ、か。
俺は頷き、布包みを抱え直した。
「モグのところへ戻る」
「そうして。追跡は始まる。ローデン司祭は執念深い」
エリシアは一歩引き、最後に言った。
「レイン。次の素材――聖樹芯。あなた、それを取りに行くなら、必ず私に知らせて。あれは教会の“庭”にある」
教会の庭。
つまり、真正面から盗りに行けば“異端”扱い。
俺は乾いた笑いを漏らした。
「……面倒が増えたな」
「増えたんじゃない。元から、そういう剣を拾ったの」
それだけ言って、エリシアは夜の中へ溶けるように消えた。
モグ鉄屑商会に戻ると、老人は俺の顔を見た瞬間に察した。
「……嗅ぎつけられたか」
「教会の監察局だ。銀髪の修道女――エリシアって名乗った」
モグが嫌そうに顔をしかめる。
「監察局……最悪に近いな。だが、最悪じゃねえ。最悪は“回収派”だ。お前を生きたまま連れていかねえ」
俺は封蝋の筒を見せた。
「遮断印をくれた。取引だと」
「……取引?」
モグは胡散臭そうに鼻を鳴らしたが、すぐに真顔になった。
「若造。協力者は必要だ。だが、教会は教会だ。信じるな。使え」
「分かってる」
俺は星屑銀の欠片を取り出した。青白い光が、指先を淡く照らす。
レグルスが脈打ち、表示が浮かんだ。
――《星屑銀:欠片(微量)》
――《修復進行:可能(低)》
――《次工程:芯材補填》
――《必要素材:聖樹芯》
モグが低く唸る。
「……次は木か。聖堂の庭なら、盗むのは地獄だぞ」
「盗まない方法も探す。……だが時間がない」
俺の頭の中で、ローデン司祭の怒声がまだ響いている。
追ってくる。必ず。
そのとき、店の戸が叩かれた。
――ドン、ドン、ドン。
モグがすっと目を細め、俺を見る。
「……今夜、もう一つ面倒が来た」
戸の向こうから男の声。
「モグ爺さんよぉ。聞きたいことがある。最近、妙な若造が出入りしてないか?」
その声を、俺は知っていた。
ギルドの連中だ。
モグが、口元だけで笑った。
「さあ、若造。次は“隠れる”鍛冶だ」
俺は布包みを抱き締め、息を殺した。
そして、レグルスが静かに脈打った。
『……来る』




