鞘が呼ぶ、炉が鳴る
保管庫の空気が、粘った。
ディランが指を立てた瞬間、床の石が俺の靴裏を掴むみたいに重くなる。呼吸まで遅くなる感覚――こいつの“重り”だ。
「さあ、返して」
整った声。整った笑み。整った悪意。
俺は剣を抜かないまま、柄を握り直した。布越しにレグルスの鼓動が強くなる。
『……鞘……!』
保管庫の奥、黒い箱がきしんだ。
封印札が自分から浮き、鍵の刻印が淡く光る。箱の隙間から漏れるのは、古い光――白でも金でもない、どこか“夜明け”みたいな色だった。
ルシアンが低く言う。
「触るな。あれは回収派の箱だ。開いたら――」
「開きかけてるのは、俺のせいだ」
レグルスが呼んでいる。逆に言えば、今ここで止めないと、ディランが“鍵”で最後まで開ける。
エリシアが一歩前に出て札を構えた。
「ディラン、下がりなさい。これは監察局の――」
「監察局?」
ディランが笑い、指先を軽く弾いた。
重りが増す。
棚の鉄が軋み、台帳の留め具が鳴る。鉄は正直だ。圧に弱い。だからこそ、鍛冶師が叩けば形になる。
――形にする。
俺は息を吐いて、足元に落ちていた釘を二本拾った。指先に“聖火反転”の熱を落とす。赤くしない。煙も出さない。ただ、鉄の“噛み合わせ”だけを変える。
釘を床の溝――封印線の外側へ滑らせ、棚の脚の下へ差し込んだ。
カチ。
ほんの僅か、棚の傾きが変わる。
ディランの重りの“線”が、そこで一度乱れた。
「……へえ」
ディランが目を細める。
「君、戦い方まで鍛冶師だね」
「鍛冶師は、現場で勝つ」
俺は小さく返し、次の釘を棚の反対側へ。
カチ。
重りの均衡が崩れる。足裏の吸い付く感覚が、ほんの少しだけ抜けた。
――今。
俺は床の鉄片を蹴った。
ギン、と鈍い音。
その音に“共鳴”だけを乗せる。熱じゃない。圧でもない。鉄が鳴く直前の緊張だけ。
棚の留め具が一斉に震えた。
台帳が、束が、鍵付きの箱が――微かに揺れる。
ディランが一瞬だけ視線を逸らす。
その瞬間を、エリシアが逃さなかった。
「――停止」
銀の札が飛び、ディランの足元へ貼り付く。
空気が張り、重りの波が半拍止まる。
俺はその半拍で、ルシアンへ叫んだ。
「証拠!」
「持て!」
ルシアンが金属板の束を抱え、除名記録と刻印台帳の写しを掴む。紙の原本は重い。燃やされれば終わる。だが金属板は残る。
ディランが舌打ちした。
「邪魔」
札を足で剥がし、重りを落とし直す。
エリシアが歯を噛む。
「……この距離で剥がすの、早すぎる」
「付与の才能は本物なんだよ」
ディランが俺を見て笑った。
「だから、僕が管理するのが一番“整う”」
同じ言い回し。
胸の奥が冷える。こいつはローデンと同じ言葉を使う。偶然じゃない。
――繋がってる。
黒い箱が、もう一段開いた。
中から見えたのは――鞘。
黒ではない。白でもない。煤けた灰色のようで、光が当たると深い藍に変わる鞘。表面に走る細い銀線が、星屑銀に似ていた。
そして、鞘口の金具に刻まれていた古代文字。
レグルスの刃にあった文字と、同じ筆致。
『……帰還』
レグルスが、布の中で強く脈打った。
鞘が、まるで生き物みたいに“息”をした。
「……来るな!」
ディランが反射で叫んだのは、俺じゃない。
鞘に向かってだ。
こいつ、分かってる。鞘が“鍵”になることを。
ディランが一歩踏み込む。
重りが床を這い、鞘のある箱へ伸びる。
――取らせない。
俺は“導き”を見る。
敵意の線が、鞘へ刺さる。次に、剣へ。次に、俺の喉元へ。
順番が見えた。なら、折る。
俺は足元の釘を一本、指で折った。断面に聖火反転の熱を当て、薄い刃にする。即席の“削り針”。
それを床の封印線の溝の端へ当て、ほんの一息だけ削った。
溝は石だ。だが溝の底は鉄粉を混ぜた導線になっている。そこを削れば、流れが変わる。
――カン。
小さな音。だが空気が一瞬だけ“迷う”。
封印線が、鞘へ向かっていた反応を逸らした。
代わりに、ディランの“重り”の流れが、溝に吸われる。
「……っ!」
ディランの足が、半歩沈んだ。重りが自分に絡んだ。
その隙に、鞘が動いた。
箱から、ふわりと浮く。
俺の布包みに向かって、まっすぐ。
「――!」
反射で手を伸ばす。
鞘は俺の掌を避けるように滑り、布の上から剣へ“噛み合った”。
カチン。
金属が正しく収まる音。
布越しに、鞘が剣を呑み込む感覚がした。
次の瞬間、空気が変わった。
レグルスの鼓動が、外に漏れなくなる。聖気の匂いが沈む。まるで“鞘が蓋”になったみたいに。
視界の端に表示が弾けた。
――《聖剣修復:第一工程 補完》
――《付属:正鞘 回収》
――《効果:聖気遮断(強)》
――《導き:精度上昇》
「……遮断、強?」
エリシアが息を呑む。
ルシアンが短く言った。
「逃げるぞ。今なら追跡が鈍る」
ディランが笑った。
「へえ。鞘まで戻したんだ。君、本当に運がいいね」
「運じゃない」
俺は鞘を握り締めた。
「拾ったものを、戻しただけだ」
ディランの笑みが、少しだけ薄くなる。
「じゃあ、奪う」
重りが、今度は“真っ直ぐ”来た。床ではなく空気そのものが沈む。膝が折れそうになる。
――ここで抜けば勝てるかもしれない。
でも、抜けば封印線が反応する。警報が鳴る。ギルド全体が動く。
目的は決闘じゃない。証拠を持ち帰ること。
俺は抜かない。
代わりに、鍛冶で逃げ道を作る。
鞘の銀線――星屑銀に似た導線へ、聖火反転の熱を一滴だけ通した。
鞘が温かくなる。暴れない熱。
その熱を、周囲の鉄へ散らす。
棚の蝶番。格子の閂。扉の金具。
“噛み合わせ”を一斉に狂わせる。
カチ、カチ、カチ。
錠前が勝手に外れる音が連続する。
ルシアンが目を見開いた。
「……開けたのか」
「開けた。閉める準備もしてる」
俺は走りながら、扉の蝶番へ指を滑らせる。熱を落とす。溶かすんじゃない。固着させる。
ディランが追ってくる。重りが背中を叩く。
エリシアが札を投げる。白い膜が一瞬、背後を遮る。
「走れ!」
ルシアンが先に通路へ飛び出し、俺が続き、エリシアが最後尾に回った。
――最後に、扉。
俺は蝶番の付け根に、釘を一本差し込んだ。聖火反転で一瞬だけ柔らかくし、石に噛ませる。
そして、冷ます。
蝶番が“死んだ”。
扉は閉まるが、二度とすぐには開かない。
内側から、ディランの声。
「……いいね! 本当にいい!」
扉が叩かれる。だがすぐには開かない。蝶番が耐えている。
俺たちは闇の通路を走った。
石壁の隠し扉を抜け、夜風が頬を叩いた瞬間――胸の奥の重さがすっと抜けた。
鞘の効果だ。聖気遮断。追跡も鈍る。
ルシアンが息を整えながら言う。
「証拠は?」
「ある」
俺は鞘に収まった剣を握り、もう片方の手で金属板の束を確認した。
除名記録の矛盾。バルドーの署名。ローデンの承認印。刻印台帳の写し。
叩くための鉄は、揃った。
エリシアが振り返り、暗いギルド本部の影を睨む。
「ディランが回収派の箱を持っていた。……つまり、回収派はギルド内部に常駐している」
「常駐じゃない」
ルシアンが低く訂正した。
「“手を伸ばせる位置”にいる。……もっと厄介だ」
俺は鞘を撫でた。
鞘の銀線が、わずかに脈打つ。レグルスは静かだ。けれど、芯は確かに燃えている。
視界に表示が浮かんだ。
――《推奨:証明》
――《次工程:真名開示(条件:公的記録の奪還)》
「……真名開示」
エリシアが小さく呟く。
「剣の“正体”を、世に出す条件」
「世に出せば、狩られる」
「出さなければ、消される」
ルシアンが淡々と言った。
「だから“証明”だ。狩る側を、逆に縛る証明」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
ギルドの鐘じゃない。聖堂の鐘でもない。
――街の警鐘。
誰かが、もう騒ぎを“異端鎮圧”に変え始めている。
エリシアが唇を噛む。
「間に合わない。回収派が街に手を回した」
ルシアンが短く言った。
「第二班の隠し保管庫へ向かう。ここで証拠を“固定”する。……そして次は、本部の審問台を叩く」
俺は頷いた。
逃げるためじゃない。
叩くために、形を整える。
その背後で、ギルド本部の石壁が、ようやく内側から軋んだ。
ディランが扉を破ろうとしている。
でも、もう遅い。
鞘の中で、レグルスが静かに脈打った。
『……炉は、次の場所へ』
俺は走り出した。
証拠と、鞘と、仲間と――
そして、次に叩くべき“台”へ向かって。




