封蝋の二重印
路地に出た瞬間、空気が“切れて”いた。
風が通っているのに、肌に当たらない。臭いがあるのに、鼻が拾わない。――狙撃手がいるときの空気だ。
先頭を走る白ローブの男――さっきまで命令を繰り返していた監察局の男が、角で手を上げた。
「止まれ。頭を下げろ」
次の瞬間、頭上を矢が裂いた。
ヒュン――。
石に当たり、乾いた音で砕ける。黒い矢羽。毒の匂いが遅れて刺さる。
「……ちっ」
男が短く舌打ちし、壁の陰へ身体を押し込んだ。
「誰の矢だ」
俺が低く言うと、男は視線だけでこちらを見た。
「“消す”矢だ。所属を出さない。……使う派か、回収寄りの何か」
エリシアがモグを支えたまま、息を吐く。
「こっち。三つ目の逃げ道がある」
「監察局の?」
「監察局のじゃない。……私の」
エリシアが石壁の継ぎ目に指を差し込む。見えない金具を引くと、壁がわずかに沈み、狭い裂け目が開いた。
中は暗い。だが空気が乾いている。下水の臭いがない。
「入れ」
男が先にモグを引き受けるように腕を伸ばした。
俺は一瞬だけ躊躇し、結局、モグを渡した。
借りを返すには、生き残るしかない。
裂け目の先は、古い保管庫だった。
石の棚、埃、鉄の扉。昔ここは聖堂の外庫だったのか、壁に薄い祈りの文様が残っている。
男はモグを床に寝かせ、ミレイと呼ばれていた女がすぐに膝をついた。
「……酷い」
ミレイの声は小さい。怒りではなく、痛みの種類の声だ。
モグがかすれ声で笑う。
「……見た目より、頑丈だ……」
「黙って」
ミレイが布を出し、血を拭う。手つきが慣れている。
エリシアは扉の前に立ち、耳を澄ませている。狙撃手の気配を測っているのか、それとも追手の足音か。
俺は男の背中を見る。
こいつは味方か。
それとも、別の種類の刃か。
レグルスが、膝の上で静かに脈打った。
視界の端に、淡い表示。
――《導き:真偽判定(微)》
――《対象:目の前の男》
俺は息を吐き、口を開いた。
「……名は?」
男は少しだけ間を置いてから答えた。
「ルシアン。監察局第二班の監察官だ」
「さっきの命令は、ヴァルター大監察官からだと言ったな」
「そうだ」
ルシアンは懐から封書を取り出した。
厚い羊皮紙。赤い封蝋。銀十字の刻印。
だが、それだけじゃない。
封蝋の上に、もう一つ――黒い蝋が重ねられていた。
黒蝋の刻印は、十字ではなく“鍵”。
俺の喉が乾く。
「……二重封蝋?」
ルシアンの目が冷たくなる。
「本部命令は、こういう形で来ることがある。表の封蝋は“監察局”。黒蝋は――」
エリシアが低く言った。
「回収班」
その言葉に、空気が沈んだ。
回収派。
聖遺物を“守る”ではなく、“手に入れる”ための連中。
ルシアンは黒蝋を指先で撫で、わずかに眉を動かした。
「俺も今日初めて見た。……命令文はこうだ」
ルシアンが封書を開き、短い紙片を見せる。
そこに書かれていたのは、たった二行。
> 対象:シスター・エリシア
> 付随物:聖遺物疑いの剣(回収)
俺の中で何かが冷えた。
“回収”――あいつらの言葉だ。
そして、付随物。
俺は“物”扱い。
エリシアが唇を噛む。
「私の帰還命令に、剣の回収が付くのは不自然。……誰かが本部へ捻じ込んだ」
「その可能性が高い」
ルシアンが淡々と頷く。
ミレイが小さく声を出した。
「……ガルドは?」
その名で、さっき剣へ手を伸ばした男が脳裏に浮かぶ。
ルシアンは答えなかった。
代わりに、扉の外へ一瞬だけ視線を投げ、短く言った。
「逃げた」
エリシアの目が細くなる。
「……やっぱり」
ガルドは内通者だ。矢が飛んできたタイミングも、妙に良すぎた。
レグルスが脈打つ。
『……刃は、内側にある』
分かってる。
敵は外だけじゃない。
「レイン・グラント」
ルシアンが俺の名を呼んだ。
「お前の言い分は筋が通っている。だが、それを“証拠”にしなければ、監察局は動けない。……今この瞬間、俺が庇っているのは命令違反だ」
「庇ってるつもりか?」
俺が刺すように言うと、ルシアンは一度だけ目を閉じた。
「違う。判断だ」
言葉が硬いのに、妙に嘘がない。
視界の端の表示が、薄く点滅する。
――《真偽:白》
白。
少なくとも、今は。
俺は息を吐き、懐から金属板を取り出した。
ディランの脅迫文が刻まれた板。
ルシアンへ渡すと、彼は指先で刻み跡をなぞった。
「……これは鍛冶師の刻みだな」
「刻印の癖がある。角度、力の入り方、刃先の返し。俺なら“誰の手か”当てられる」
ルシアンの目が細くなる。
「当てられる、では弱い。第三者にも分かる形にしろ」
俺は笑えない笑いを漏らした。
「鍛冶師に“形にしろ”って言うのか」
「言う」
ルシアンは淡々と言った。
「お前は鍛冶師だ。なら、鍛冶師のやり方で証拠を作れ」
その言葉は、妙に胸に刺さった。
――俺の土俵に引きずり込め。
俺が第九話で言った言葉が、ここで返ってくる。
俺は頷いた。
「分かった。作る」
エリシアが俺を見る。
「どうやって?」
「刻み跡は、手癖だ。刃の角度が同じなら、金属の“バリの起き方”も同じになる。……写しを取る」
俺は床の鉄片を拾い、指先に魔力を集めた。
炉はない。
でも、今の俺には“聖火反転”がある。
熱が暴れず、必要な場所だけを柔らかくできる。
鉄片を薄く伸ばし、板状にする。そこへ、ディランの文字をなぞるように刻みを入れる。
力の角度を合わせる。返しの癖を再現する。
カン、カン。
槌は石。金床も石。だが音は、確かに“鍛冶の音”だ。
ミレイが手を止め、息を呑んで見ていた。
ルシアンも黙っている。
最後に、俺は二枚の板を並べた。
ディランの板と、俺の写し板。
そして、ルシアンに言う。
「比べろ。バリの向き。刻みの底の微細な抉れ。……同じだ」
ルシアンの視線が鋭くなる。
彼はしばらく見つめ、やがて短く息を吐いた。
「……証拠になる」
エリシアが小さく笑った。
「あなた、ほんとに“鍛冶”で殴るのね」
「殴れるものは全部使う」
俺は言った。
「火も、鉄も、証拠も」
そのとき、扉の外で微かな音がした。
――コツ。
誰かが、合図のように一度だけ叩いた音。
エリシアが即座に身構える。
ルシアンが手を上げた。
「俺の合図だ」
「信用できる?」
「信用するな。確認しろ」
ルシアンはそう言って、扉の小窓から外を覗き、短く頷いた。
「第二班の連絡員。……状況が悪い」
ルシアンが低く告げる。
「本部が“回収”を正式に動かした。今夜から、聖剣疑いの対象は“生死不問”。名目は異端鎮圧」
モグが藁の上で、掠れ声を漏らした。
「……はは……早えな……」
エリシアの目が冷える。
「……ローデンが通した」
「ローデンだけじゃない」
ルシアンが封書の黒蝋を指で弾く。
「監察局の中に、回収派の手が入っている。……だから俺たちは、正面から本部へ戻れない」
俺は剣を握り直した。
空気が少しだけ熱を持つ。レグルスが静かに応える。
「じゃあ、どうする」
ルシアンが淡々と言った。
「“記録”を奪う。動かぬ証拠を突きつける。監察局の上層を動かすには、それしかない」
エリシアが頷く。
「ギルドの除名記録。刻印台帳。依頼書の原本。……全部」
俺の胸の奥が燃えた。
それがあれば、ディランを“天才”から“偽造者”へ落とせる。
バルドーの“規約”の正体も剥がせる。
「場所は」
俺が問うと、ルシアンが一言で答えた。
「鍛冶師ギルド本部の地下保管庫。……そこに、刻印台帳がある」
エリシアが息を吐いた。
「正面突破は無理よ」
「だから裏道だ」
ルシアンが言う。
「監察局には、ギルドを監査するための“出入口”がある。存在はギルド幹部しか知らない。……俺が知っている」
ミレイが小さく呟いた。
「……私たち、戻れなくなる」
ルシアンは答えなかった。
代わりに、封書の黒蝋を握り潰した。
黒い蝋が砕け、鍵の刻印が歪む。
「もう戻れない。……戻る価値のある監察局に、戻すんだ」
その言葉に、俺は息を止めた。
硬い男だと思っていた。
命令の人間だと思っていた。
でも――こいつは、命令を“折って”形を変えようとしている。
鍛冶と同じだ。
折れたなら、叩き直す。
俺は剣の柄を握り直し、静かに言った。
「……行くぞ」
レグルスが脈打つ。
『……火は、道を照らす』
モグが藁の上で、痛み混じりに笑った。
「……若造……ギルドの金庫破りか……やっと職人らしくなったな……」
「寝てろ。生きろ」
「生きるさ……借りを返されるまでな……」
俺は頷いた。
敵は増えた。
だが――“叩く相手”が、はっきりした。
ギルド本部の地下保管庫。
そこへ向かう。
今度は逃げるためじゃない。
奪い返すために。




