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第9話:大賢者と、コーヒーの抽出儀式

「……いい匂いだ」

深夜2時。

『ダンジョンマート』の店内には、香ばしい焙煎珈琲の香りが漂っていた。

レジ横に設置された**「全自動ドリップコーヒーマシン」**が稼働している音と香りは、ここが地下99階であることを忘れさせる。

「店長ぉー、コーヒーマシンの豆、補充しときましたよー」

リリスが空になった豆の袋を捨てながら言った。

「サンキュ。……いやー、地上じゃ当たり前だけど、ダンジョンじゃ『豆から挽く』のが珍しいらしくてバカ売れなんだよな」

タナカはダスターでカウンターを拭きながら呟いた。


売れるのはいいが、このマシンは手入れが面倒だ。粉受けのトレーを掃除したり、飛び散ったしずくを拭いたり。

タナカにとっては「手間のかかる金ヅル」だった。

その時、自動ドアが開いた。


チャララ・チャララ・チャラララ~♪


現れたのは、床まで届く長い白髭を蓄え、豪華なローブを纏った老人だった。

手には捻じれた樫の木の杖。頭にはトンガリ帽子。

絵に描いたような**「大賢者」**である。

老人は鼻をひくつかせ、震える声で言った。

「おお……この香りじゃ。噂に聞く、覚醒の黒き聖水……」


彼はカウンターまで歩み寄ると、厳かに告げた。

「店主よ。**『黒き聖水ブラックコーヒー』**を所望する。徹夜の魔術研究で、MPが枯渇してしもうた」

「いらっしゃいませ。冷たいのでいいですか?」

「うむ。キンキンに冷えたやつを頼む」

「レギュラーで100円になります」

タナカは冷凍ケースから、氷だけが入ったプラスチックのカップを取り出し、会計を済ませて渡した。


「……?」

大賢者モーガンは、渡されたカップを見て眉をひそめた。

「店主よ。これには氷しか入っておらんぞ? 液体はどうした? 詐欺か?」

「あー、セルフなんで。あそこのマシンにセットして、自分でボタン押してください」

タナカはレジ横のマシンを指差した。

「なんと……。客に魔術儀式を行わせるとは……」


モーガンはブツブツ言いながら、恐る恐るマシンの前へと移動した。

目の前には、黒光りする巨大なコーヒーマシン

モーガンはゴクリと唾を飲み込んだ。

「これが……異界の錬金術が生んだ抽出器……」

彼は手元のカップを見た。まずはこのフタを剥がさねばならない。


ペリッ……といきたいところだが、老人の乾いた指先ではなかなかフィルムが掴めない。

「ぬぬぬ……! この封印、強固じゃな……!」

3分ほど格闘し、ようやくフタを剥がすことに成功した。

「ふぅ……。第一関門突破じゃ」

モーガンはカップを抽出口の下にセットした。

そして、最大の試練が訪れた。

**「ボタン選択」**である。

マシンのパネルには、二つのボタンが青く光っている。

【ICE・R】

【ICE・L】

「アール……と、エル……?」

モーガンは賢者としての知識を総動員して、この文字の意味を解読しようとした。

手元にあるカップは、タナカから渡された小さい方のカップだ。


しかし、彼の脳裏に閃いたのは「サイズ」ではなく「魔術理論」だった。

(……そうか! 読めたぞ!)


『R』= Rapidラピッド

高速詠唱。威力は低いが、素早く発動する初心者向けの術式。

『L』= Longロング

長詠唱。長い溜め時間を必要とするが、その威力と質量は絶大。達人のみが扱える奥義。


モーガンのプライドが鎌首をもたげた。

(ワシは魔界最高齢の大賢者モーガンじゃぞ? 今さら学生が使うような『ラピッド』など選べるか!)

彼は震える指を、【ICE・L】のボタンへと伸ばした。

(ワシのカップには、もっと強大な魔力こそがふさわしい! 魅せてくれよう、最大出力の黒き聖水を!)

「いけぇぇ! !」


ポチッ。


その瞬間。

『ウィィィィィィィン!!』

「おおっ!? 機械が咆哮しておる!?」

マシンの内部で、豆が粉砕される音が響く。

モーガンはそれを「精霊の詠唱」だと確信し、杖を振り上げて同調した。

「来たれ! 深淵より出でし黒き奔流よ! 我が器を満たせ!」

チョロロロロ……

ノズルから、黒い液体が注がれ始める。

芳醇な香りが広がる。


「良いぞ……! その調子じゃ!」

水位が上がってくる。

氷がカランと音を立てる。

カップの縁まで、あと数センチ。

「……む?」

水位は止まらない。


Rサイズのカップの限界ラインを超えても、Lボタンのプログラムは止まらない。

「お、おい? まだ出るのか? もう満杯じゃぞ?」

ドボボボボ……。

表面張力が限界を迎えた。

黒い液体が、カップの縁から決壊し、受け皿へと溢れ出す。

「ぐわぁぁぁぁ!! 止まれ! 詠唱中止! キャンセルじゃ!!」


モーガンは慌ててボタンを連打するが、一度発動した術式は止まらない。

「ば、馬鹿な!? ワシの魔力が強すぎて、カップが耐えきれんというのか!? 暴走しておる!!」

足元に飛び散る熱いコーヒー。

大賢者のローブが茶色く染まっていく。


「あーあ」

タナカがダスター片手にやってきた。

「お客さん、それRカップですよ。L押したら溢れるに決まってるでしょ」

「な……なに……?」

モーガンは呆然とした。

「RはRapidラピッドではないのか……? LはLongロングでは……?」

「レギュラーとラージっすね」

「……」

ピーッ。

抽出終了の電子音が虚しく響いた。


受け皿はコーヒーの海となり、カップからはダラダラと雫が垂れている。

タナカは慣れた手つきで受け皿を拭き、新しいカップに中身を移し替えてあげた。


「ほら。次からは気をつけてくださいね。機械の掃除、めんどくさいんで」

「か、かたじけない……」

モーガンは小さくなった。

大賢者の威厳は、コンビニの床に飛び散ったシミと共に消え失せた。

彼はストローでズズッとコーヒーを啜った。

「……ではまたな。98階に戻って研究の続きじゃ」

トボトボと帰っていく老人の背中を見送りながら、タナカは汚れたマシンのトレーを取り外した。


「はぁ……。だから言ったんだよな、全自動はメンテが大変だって」

ダンジョン地下99階。

ここでは大賢者の叡智も、ボタン一つのかけ違いの前には無力である。

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