第29話:疑惑の覆面調査員と、残された「黒い手紙」
「……いいか、二人とも。今日は非常事態だ」
深夜1時。
バックヤードでの朝礼で、店長のタナカはかつてないほど険しい表情をしていた。
その手には、本部からのFAXが握りしめられている。
「情報が入った。今夜、このエリアに『本部特務・覆面調査員』が回ってくるらしい」
「覆面調査員?」
リリスが首を傾げる。
「客のフリをして店を評価する監査役だ。ただし、ウチの本部のやり方は知ってるな? 評価が『不可』なら、減給や解雇じゃない……『店舗ごとの消去』だ」
「ひぃぃぃっ!?」
リリスが青ざめる。
死神グリムも、心なしかフードを深く被り直した。
『……魂の消滅か。笑えない冗談だ……』
「というわけだ。今夜来る客は全員『神様』だと思え。少しのミスも許されないぞ」
「は、はいっ! 任せてください!」
『……最善を尽くそう』
深夜2時。
緊張感が張り詰める店内に、その客は現れた。
自動ドアが開き、入ってきたのは、黒いロングコートを目深に被った男だ。
種族は不明。だが、その手には「黒い革のメモ帳」が握られている。
(((……あいつだ!!!)))
タナカ、リリス、グリムの目配せが交錯した。
間違いない。商品を一つ手に取るたびに、メモ帳に何かをカリカリと書き込んでいる。
鋭い眼光が、棚の埃や、商品の賞味期限をチェックしている。
「い、いらっしゃいませー!!(裏返った声)」
リリスが満面の笑み(ひきつり気味)でカゴを渡す。
『……床は清浄だ。舐められるほどにな……』
グリムが、自分の鎌で磨き上げた床をアピールするように、わざとらしく掃除をする。
そして、タナカはレジで待ち構える。
男がレジに来た瞬間、それは訪れた。
「……あの」
男が低い声で言った。
「……この棚の配置、少し変えた方がいいんじゃないか?」
来た。指摘だ。
ここで反論すれば『不可』、言い訳しても『不可』。
正解は一つしかない。
「貴重なご意見、ありがとうございます!!」
タナカは90度の角度で深々と頭を下げた。
「直ちに検討し、改善いたします! お客様の視点こそが、我々の宝ですので!」
「……ほう」
男は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに満足げに頷いた。
「素晴らしい熱意だ。……うん、いい店だな」
「へ?」
男はフードを脱いだ。
現れたのは、あどけない顔をした『ダンジョン建築学の学生』だった。
「いやー、僕、店舗デザインの勉強してるんです! この店の陳列、独創的で参考になるなぁと思ってメモしてて……。いやぁ、店員さんの意識も高くて感動しました!」
「……が、学生さん?」
「はい! あ、これガムひとつください」
男は――ただの意識高い系の学生は、爽やかに買い物を済ませ、笑顔で手を振って帰っていった。
「応援してますんで! 頑張ってください!」
「……はぁぁぁぁぁ…………」
自動ドアが閉まった瞬間、三人はその場に崩れ落ちた。
「な、なんだぁ……ただの学生さんかよぉ……」
リリスがへなへなと座り込む。
『……紛らわしい。寿命が縮んだぞ(死んでいるが)』
グリムも大鎌を杖にして息をつく。
「……まあ、いい予行演習になったな」
タナカもネクタイを緩め、汗を拭った。
「誰も来なかったってことは、ウチの店は調査対象から外れたのか、あるいは別の日に来るのか……。ま、今夜はもう安心だ」
「ですね! あー怖かった! 店長、コーヒー淹れますね!」
店内には、安堵の笑い声が戻った。
平和な日常。
トラブルは去り、またいつもの業務が始まる――はずだった。
「……ん?」
カウンターを拭いていたタナカの手が、ふと止まった。
レジの端。
POPの影に隠れるようにして、「それ」は置かれていた。
黒い封筒だ。
高級な質感の紙に、金色の蝋で封がされている。
「……なんだ、これ」
さっきの学生が忘れたのか?
いや、彼はこっち側には来ていない。
もっと前……いつの間に?
タナカは、震える手で封筒を裏返した。
そこには、見覚えのある本部の紋章と、たった一行のメッセージが刻印されていた。
『調査終了。評価:E(排除対象)』
「……え?」
タナカの思考が凍りついた。
いつ来た? 誰が置いた?
学生のときか? いや、その前の……あの「何も買わずにトイレだけ借りていった老婆」か?
それとも、「立ち読みしていた子供」か?
『評価:E』。
それは、店舗閉鎖どころか、存在の抹消を意味する最低ランク。
『追伸: "清掃班" を派遣しました。到着まで、あと10分』
店内の照明が、ジジッ……と音を立てて明滅した。
リリスが明るい声でコーヒーを持ってくる。
「店長ー? どうしました? 顔色が悪いですよ?」
タナカは顔を上げられなかった。
自動ドアの向こう、暗闇の奥から。
「何か」が、無数の足音を立てて近づいてくる気配がした。
ダンジョン地下99階。ここでは、トラブルが去った後の静寂こそが、本当の終わりの始まりなのだ。
【あとがき:停電した店内で】
リリス「あれ? 店長、なんか急に電気が消えましたよ?」
タナカ「……リリス、グリム」
リリス「はい?」
タナカ「裏口を開けておく。お前たちは先に帰れ」
グリム「……タナカよ。貴様の手が震えているのは、寒さのせいか?」
タナカ「……いいから行け。これは店長命令だ。……俺は少し、『最後の残業』をしていくからな」
リリス「やだなぁ店長、怖い顔しないでくださいよ! すぐ復旧しますって! ほら、お客様も来ましたよ?」
タナカ「……!!」




