第25話:ゴブリン坊やと、決死の「おつかい」
ダンジョン地下99階。
華やかな光が届かない、湿った岩壁の裂け目の奥に、その集落はあった。
最弱の種族、ゴブリンたちの隠れ里。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
カビ臭い寝床で、ゴブリンの母親が苦しそうに体を丸めていた。
人間なら一晩寝れば治るような風邪でも、栄養の足りない彼らにとっては命に関わる重病だ。
熱に浮かされた母の肌は、土気色に乾いている。
「母ちゃん……母ちゃん、しっかりして……」
枕元で必死に呼びかけているのは、まだ人間の膝丈ほどしかない、幼いゴブリンの男の子・ゴブ太だった。
大きな耳と、不安げに揺れる瞳。握りしめた手は小刻みに震えている。
母は薄く目を開け、枕の下から小さな布袋を取り出す。
中に入っていたのは、欠けた銅貨や、薄汚れた銀貨。彼女が必死に貯めた、なけなしの全財産だ。
「……ゴブ太。よくお聞き……」
「うん、聞いてるよ母ちゃん」
「ここからずっと西へ行ったところに……夜でも昼のように輝く『光るお城』があるんだよ……」
「光る……お城?」
「そこへ行って……**『赤いお薬』**を買ってきておくれ……」
ゴブ太は息を呑んだ。
長老から聞いたことがある。
その城は、鋼鉄の鎧を着たオークや、凶暴な冒険者たちが集う場所。
中には、どんな傷も一瞬で治す秘薬や、黄金色に輝く食料が山のように積まれているという。
そして、そこを支配するのは――『青いエプロンの魔王』だと。
「……で、でもオイラ、まだ子供だし……」
「ゴホッ、ゴホッ……! 頼んだよ……ゴブ太……」
母の手がガクリと落ちる。
ゴブ太は唇を噛み締めた。
怖い。足がすくむ。でも、このままじゃ母ちゃんが死んじゃう。
「……わかった! オイラ、行ってくる!」
ゴブ太は金貨の袋を腰紐に結びつけ、護身用の「ひのきの棒」を握りしめた。
巣穴の外には、どこまでも深い闇が広がっていた。
ゴブ太は走った。
影に怯え、水滴の音にビクつきながら、ひたすら西へ。
やがて、暗闇の先に、信じられないものが現れた。
「うわぁ……」
それは、漆黒のダンジョンに切り取られた「光の箱」だった。
ガラス張りの壁からは、目がくらむほどの白い光が溢れ出している。
中には、見たこともない鮮やかな色の物体が、壁一面に並んでいるのが見えた。
『ダンジョンマート』。
ここが、光るお城。
ゴブ太はゴクリと唾を飲み込み、ガラスの壁に近づいた。
入り口には扉がない。ただ透明な結界があるだけだ。
ゴブ太がおっかなびっくり近づくと――。
ウィィィィン……プシュウ……。
「ひっ!?」
透明な壁が、音もなく左右に割れた。
まるで、獲物を招き入れる巨大な口のようだ。
足がすくむ。逃げ出したい。
でも、母ちゃんの苦しそうな顔が脳裏をよぎる。
ゴブ太は目を瞑り、叫び声を上げそうになるのをこらえて、光の中へと飛び込んだ。
ヒュォォォォ……。
瞬間、肌を刺したのは「寒さ」だった。
ダンジョンの湿った空気とは違う、乾燥した人工的な冷気(冷房24度)。
そして、鼻をくすぐる香ばしい匂い。
ゴブ太は恐る恐る目を開けた。
「……おっきい……」
そこは、巨人の国だった。
見上げるほど高い棚が、渓谷のように連なっている。
床は鏡のようにピカピカに磨き上げられ、天井には無数の太陽が輝いていた。
通路の向こうから、巨大なオークが歩いてくる。
ゴブ太にとっては、見上げるような巨像だ。踏まれたら終わりだ。
ゴブ太は棚の影にへばりつき、息を殺して進んだ。
目指すは「赤いお薬」。
なんとか、ドリンクコーナーの前までたどり着くことが出来た。
色とりどりの瓶が並ぶ中、ひときわ赤く輝く小瓶を見つける。
「あった! 母ちゃんの薬だ!」
しかし、絶望が彼を襲った。
ポーションが置かれているのは、棚の「2段目」。
人間の大人なら腰の位置だが、身長50cmのゴブ太には、見上げるような断崖絶壁だった。
「(と、届かない……!)」
ゴブ太は必死に手を伸ばした。
ジャンプしてみる。「とうっ!」……指先さえ届かない。
ツルツルした棚によじ登ろうとするが、爪が立たずに滑り落ちた。
焦りで涙が滲んでくる。
早くしないと、恐ろしい魔物に見つかってしまう。
もう一度ジャンプしようとした、その時。
ヌッ……。
ゴブ太の全身が、巨大な影に覆われた。
心臓が凍りついた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、青いエプロンを纏った、無表情な巨人が立っていた。
死んだ魚のように濁った瞳が、遥か高みからゴブ太を見下ろしている。
魔王だ。
この城の主だ。
怒られる。いや、殺される。
ゴブ太は頭を抱えて、床にうずくまった。
震えが止まらない。母ちゃん、ごめん、オイラだめだったよ。
しかし、衝撃は来なかった。
スッ。
魔王の巨大な手が伸び、2段目にあったポーションを鷲掴みにした。
そして、そのままゆっくりと下ろし――
トン。
ゴブ太の目の前の床に、静かに置き直した。
「え……?」
ゴブ太が顔を上げると、魔王は一言も発さず、ダルそうに首を鳴らしながら去っていった。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
「(……オイラに、くれた?)」
ゴブ太は震える手でポーションを抱きかかえた。
冷たい。本物だ。
まだだ。まだ終わっていない。
母ちゃんは言っていた。「出口にいる魔王に、お金を捧げなきゃいけない」と。
ただで持ち帰れば、きっと呪い殺される。
ゴブ太は、城の出口にある関所へと向かった。
そこには先ほどの魔王が鎮座していた。
ゴブ太の視点では、レジ台は高い城壁のようにそびえ立っている。
向こう側は見えない。
ゴブ太はポーションと、手汗で湿った銅貨の袋を、精一杯の背伸びをしてカウンターの縁に乗せた。
ゴブ太の指先しか届かない高さだ。
「く、ください!!」
ありったけの声を張り上げた。
すると、壁の向こうから、魔王がヌッと身を乗り出した。
近い。
顔が近い。
魔王の瞳の奥にある「虚無」が、ゴブ太の魂の底まで見透かしてくるようだ。
「……いらっしゃいませー」
低く、地を這うような声。
魔王の巨大な手が伸びてきて、銅貨を回収する。
ジャラリ、と金を確認する音が響く。
「(た、足りなかったらどうしよう……命で払うのかな……)」
魔王は奇妙な機械を取り出し、ポーションにかざした。
ピピッ!(魔術の発動音)
「ひぃっ!」
ビクッとするゴブ太。
魔王はポーションを白い袋に入れた。
そして、レジ横の箱から、何か鮮やかな包み紙の「丸い棒」を一本取り出し、袋の中にポンと放り込んだ。
「……?」
魔王は袋をゴブ太に差し出した。
「……持てるか? 気をつけてな」
その声は、相変わらず低く、抑揚がなかった。
けれど、そこには不思議と冷たさはなかった。
「あ、ありがと……!」
ゴブ太は袋をひったくると、全速力で自動ドアへ走った。
後ろを振り返ってはいけない。
光るお城が遠ざかるまで、絶対に立ち止まってはいけない。
「母ちゃん! 買ってきたよ! お薬だよ!」
巣穴に戻ったゴブ太は、急いでポーションの蓋を開け、母に飲ませた。
最上級の回復薬は劇的に効いた。
母の呼吸が穏やかになり、土気色だった顔に赤みが戻っていく。
「ああ……ありがとうゴブ太……。偉かったねぇ、怖くなかったかい?」
「う、うん! 全然平気だったよ! オイラもう大人だからね!」
ゴブ太は鼻をすすりながら、精一杯胸を張った。
そして、袋の底に残っていた「丸い棒」を取り出した。
「これ……魔王様が入れてくれたんだ」
鮮やかな包み紙を開けると、甘いイチゴの香りが漂った。
チュッパチャプスだ。
一口舐める。
「……あまっ!」
口いっぱいに広がる、とろけるような甘さ。
今まで食べた木の実や虫とは比べ物にならない、魔法の味。
ゴブ太は飴を舐めながら、あの青いエプロンの巨人のことを思い出した。
無愛想で、目が死んでいて、とっても怖かったけれど。
「(……いい魔王様だったな)」
甘いイチゴ味は、ゴブ太にとって「勇気の味」として記憶に刻まれた。
一方、ダンジョンマートの店内。
「店長。さっきのチュッパチャプス、在庫ズレますよ?」
レジ点検をしていたリリスが首を傾げた。
タナカは品出しの手を止めずに答えた。
「自腹で買ったんだよ。レジの金庫に40円入れといた」
「えっ、店長が奢りですか? 珍しい」
「別に。……あんな小さい客、初めてだったからな。あと、俺の顔見て腰抜かしそうだったから、詫び賃だ」
「あはは! 店長、やっぱり子供には甘いんですね~」
「うるさい。仕事しろ」
タナカは顔を背け、モップ掛けに戻った。
その横顔は、いつもの死んだ魚のような目だったが、ほんの少しだけ口元が緩んでいるように見えた。
ダンジョン地下99階。
ここでは時々、小さな勇者による大冒険が繰り広げられている。
そして魔王は、勇者の健闘を密かに称えているのだ。




