月下の約束
机に置かれた白い紙の上に大量の錠剤が乗る。押し潰され、歪んだ包装シートが無造作に散らばっていた。水が入ったペットボトルは錠剤を飲むために用意してある。
いざ目の前に並べてみると、これだけの量を摂取するのはなかなか骨の折れる作業に思えてきた。
でもやらなければならない。決心はついていた。
「その量じゃ死ねないな」
自分以外は誰もいないはずの部屋で声が聞こえて、ビクリと体が硬直する。掴みかけた錠剤がいくつか床に落ちた。
住人の女性は、ゆっくりと声がした方向へ振り返る。
「最近の睡眠薬は効力を弱めてある。その数では致死量には程遠い」
声は男だった。古びたレコードにも似た、ノイズが入った音にも聞こえた。
「死神……」
「ああ、その通り」
女性は冷静に声の主を見た。
目深に被ったフードのせいで顔はよく見えない。まるで黒い霧に覆われたような身なりが、風のない部屋の中でゆらゆらと揺れる。
冷静に凝視する女性に死神は言った。
「ほぅ、驚かないのか」
「私の魂を狩りに来たんでしょう? もう覚悟はできている。地獄でもどこへでも連れて行って」
死神の表情を窺い知ることはできないが、微かに「ふっ」と漏れた息遣いが聞こえ、女性を鼻で笑ったようにも感じる。
「寿命が残っている人間の魂は狩れない」
「寿命が残っている? 私、まだ死ねないってこと?」
臆することなく死神に問いかける女性。
「言っただろう。その薬の量では死ぬことはできないと」
大量にかき集めたつもりだったが、これでも足りないと言うのか。悔しさに女性は目を閉じる。
が、やにわにクローゼットを開けると、段ボール箱を漁りだす。
「あった」
と手にしたものは束ねたロープ。この部屋へ引越してくる時に、積荷を固定するために使ったものだ。
薬がダメなら別な方法で命を絶てばいい。
そこにいた死神を押し退けるように、持ってきたイスを窓際へ置く。イスの上に立ち上がると、天井から吊るされた物干し竿にロープをかけた。
「これなら死ねるわ」
自信たっぷりに話しかけるが、死神は首を横に振る。
「それも無理だ」
女性は少々ムッとした。
「どうして? 薬より確実でしょう?」
言いながら輪を作ったロープに首を通す。
「お前、体重何キロあるんだ?」
あまりにも失礼な質問に女性も言い返す。
「そんなこと、どうでもいいでしょう。あの世へ連れて行くのに体重制限でもあるの?」
女性は太っているわけではない。むしろ小柄で華奢だ。
「物干し竿の耐荷重を知っているか? このサイズならせいぜい二十キロが限界だろう。大人の人間がぶら下がればどうなるかわかるか?」
女性は無言になり、苦々しく物干し竿を見上げた。
「見たところ、これはアルミ製だ。荷重がかかれば折れ曲がるか、取付金具ごと外れる。最悪の場合、天井のパネルが――」
「わかったわよ!」
眉間に皺を寄せて女性が死神を睨む。
「……そうか」
ロープを取り外し、イスから降りた女性に死神が聞く。
「なぁ、どうしてそんなに死を選ぼうとする? 見たところ、何不自由なく暮らしているようだけど」
都会のマンション。決して広いとは言い難いが、ひとり暮らしには十分すぎるほどの大きな一室だ。
「そんなこと、あんたには関係ない。迎えに来たのなら確実に死ねる方法を教えてよ!」
窓際に取り残されたイスに、力なく座り込む女性。薄暗い部屋の床には、眠らない街の灯が女性の影を映し出していた。
「言っておくが、俺はお前を迎えに来たわけじゃない。死を導く香りに誘われて来てみただけだ」
「なによそれ。自殺の見物に来たってこと? 悪趣味ね」
「お前こそ、死ぬつもりにしては準備が稚拙だな」
机の錠剤を見つめる死神は、その下に敷かれている紙に目を止めた。遺書のようだ。白い紙に書かれた遺書には、怨嗟を感じる字で数人の氏名が連ねてある。
「察するところ、職場のイジメが原因か? お前の気の強さが裏目に出て標的にされたか? あるいは仕事を要領良くやりすぎて妬まれたか?」
女性は、はっきりと見ることのできない死神の顔を覗き込み、口元を緩ませた。
「死神って、人間の命しか興味がないのかと思っていた」
「死神を恐れない人間がなにを考えているのか知りたくなってな」
死神も笑ったように見えた。
イスから立ち上がった女性は、窓を開け、ベランダへ出た。空気は冷えていたが、風は穏やかだった。
蒼い月が東の空から都会を見下ろしている。
窓の脇に立つ死神。その足元に影はない。
「私……、頑張ったんだよ。親に大学まで行かせてもらって、いい会社に就職して、仕事だって一所懸命覚えてさ。なのに、誰も認めてくれない。ううん、認めようとしない。学歴が高いとか、仕事ができるって悪いことじゃないのに。なんか恨まれちゃって、無視されるようになって……。どうやら私は会社の中で均整を保つことが苦手な不適合者らしい。そうまで言われたら私のいる場所はないよね」
女性はベランダの手すりから身を乗り出して階下を見た。
五階から見下ろす街は明るかった。通り過ぎていく車の色も、享楽に耽る若者たちの姿も、はっきりと見て取ることができる。
「それでも味方がいたんだ。あんたみたいに理詰めで話す鬱陶しい奴だったけどね。あいつだけは私を理解してくれてた」
「とんだもの好きだな、そいつは」
あはは、と声を上げて女性は笑う。
「もの好きだね。私を映画に誘ったんだよ。でも、その映画観たかったんだ。他の仲間には聞こえない、特別な周波数で鳴く孤独なクジラの話。私、柄にもなくお洒落してさ、待ち合わせ場所でずっと待っていたんだ」
「ずっと?」
死神は女性の表情を注視していた。
すぐに笑顔が消え、唇を噛みしめて、眠らない夜の街を眺めながら女性は答えた。
「あいつは来なかった。映画が始まる時間になっても。映画が終わっても」
「そうか。信じていたんだな」
「裏切られた悔しさよりも、この世界で私の声は誰にも届かないんだって諦めがついた」
死神は空を見上げた。月が南の空高くへ逃げていく。
「理由があったんだろう」
とても静かな声だった。
「うん。事故があってね。亡くなったと知ったのは、翌日の仕事が終わる頃だった。結局私は、また会社でひとりぼっちだよ」
「そいつの死も、命を絶ちたい理由のひとつなのか?」
「後追いってこと? やめてよ、好きだったわけじゃない」
女性は苦し紛れに言ったのか、首を振り、あとに続く言葉を探していた。
「誘ってくれたのは嬉しかったよ。だけどもう何もかもが上手くいかないの。こんな人生なんてどうでもよくなった。所詮、神様なんて誰も助けられやしないのよ」
女性はベランダの手すりを掴む手に力を込めた。ここから飛び降りれば命はないだろう。
真っすぐに死神を見据えて言った。
「これであなたの役目は果たせるね。なんなら動画でも撮って私を貶めたあいつらに見せてやってよ。私が地面に叩きつけられて死ぬ姿を」
と、口元に自嘲めいた笑いを浮かべる。
死神は微動だにしない。
「なぜ死に急ぐ? 生きたくても生きられなかった者もいるというのに」
「そうね。命を交換できるなら譲ってあげてもいい」
「それはできない」
即答されたことに女性は深いため息をついた。
「神様は助けない。死神は殺さない。それって、頑張っている人を笑い、夢も希望も持たない人が大手を振って歩くこの社会と同じだね」
押し黙る死神に、女性は続けて捲し立てる。
「止まない雨はないなんて言うけど、私はいつも雨にうたれてばかり。太陽はいつになったら出てくるの? 私はずっと我慢し続けなければいけないの? こんな世界で生きる意味はどこにあるのよ」
死神が沈黙を破った。
「意識の相違だな」
同意や慰めが欲しいわけではなかった。言いたいことを言って少しは溜飲が下がればそれでよかった。なのに、死神の否定するような言葉に怒りが湧く。
「はぁ?」
「雨が止まないなら雨を楽しめばいい。太陽が見たければ雨雲のない場所へ行けばいい。お前はなぜ行動をしないんだ?」
「あんたに何がわかるって言うのよ?」
「味方がいたんだろう? お前と同じ孤独な男は幸せに生きていた。なのにお前はどうだ。不幸という殻に閉じこもり、闘うことも自分を守ろうともしなかった。逃げるだけの人生に何を得ようというのだ」
「違う! 私だってあの人のように孤高に生きてみたかった。声をかけられて、少しだけ明るい未来が見えていたのに――」
堪え切れずに溢れた涙が頬を濡らした。
「未来を諦めるな。昨日までの自分しか知らないくせに、明日の自分に失望してどうする?」
手すりを背にして女性は座り込んだ。脱力した指先が小刻みに震えている。
死神は月を見た。
月面は表情を変えることなく、柔らかな光で地上を包み込む。
見上げたまま、座っている女性に話しかけた。
「確実に死ねる方法を見つけたんだ。死ぬのは今じゃなくてもいいだろう?」
ひと呼吸おいて女性が答えた。
「死神らしくないセリフね。お節介なところもあいつにそっくり」
ふん、と死神が鼻を鳴らす。
「お前に鎌を振るう死神などいない」
女性は立ち上がり、死神と同じように月を見上げた。
やがて流れてきた雲が月を覆い、辺りは黒い霧のような闇に隠された。
声だけが女性の耳に届く。
「次に会うのはお前の寿命が尽きる時だ。どうしても辛いなら声を上げろ。その声は同じ境遇の人にだけ聞こえて、必ずお前を助けてくれるはずだ」
蒼い月が再びその姿を露わにした時には、死神の姿はなかった。
代わりに足もとに小さな紙が舞う。拾い上げたそれは、観に行くと約束していた映画のチケットだった。