泣きたい気分。たすけて
泣きたい気持ちになること、ありますよね。
泣きたい気持ちを抱えた「私」は、これまで素晴らしいと思っていたことが全てくだらなく感じられる夜を過ごしていた。
何をするにも意味がないような、どうしようもない虚無感。
ここ最近はまた、この感覚がお友達だ。
ベッドに横たわったまま、ただただ天井を見つめる。もう、十時間以上見つめている。昨日の、今日も。
以前は胸を躍らせていた先の予定も、子供の頃から大切に温めてきたきらきらした夢も、今は遠い世界の出来事のように感じられる。
「なんで、こんなに虚しいんだろう」
スマホの画面に映る SNS の投稿たちが、どれも空虚に思えた。
「全部、くだらない」
自分の声に驚く。こんな風に思ってしまう自分が怖い。でも、それすら今は どうでもいい感情の一つでしかない。
時計の針が刻む音が、異常に大きく聞こえる。
この部屋の空気が、少しずつ重くなっていくような気がした。息苦しい。けれど、動く気力なんか1mmもない。
「たすけて」
誰にも聞こえない声で、「私」は暗い部屋に向かって呟いた。返事がないことは分かっていた。この言葉は、きっと「私」だけに向けたものだから。
この虚無の気持ちを抱く夜は、わたしが大切にしてあげたい。
Googleで検索をする。
「全部くだらなく感じてしまう」
出てきた答えは「少しずつ前を向きましょう」というものばかり。
「前を向かなきゃ、いけないの? どーして?」
呟いた言葉が、むなしく部屋に響く。
そもそも前を向くって、なんだよ。
前とか後ろとか、横とか、どっちにだって向いてるほうが前だろうがよ。
その疑問が湧くや否や、焦りと虚無が混ざり合って、また得体の知れない感情となって「私」を包み込む。
いや、わかってるの。頭じゃわかってるけど。
「前を向かなければ」という焦りと、そんな焦りすら意味がないような感覚の間で揺れながら、ふと目に入ったのは、部屋の隅にある半分開いたクローゼット。
そういや、2週間前に買ったワンピースが、まだ一度も着ていないまま眠っている。
「着替えてみようかな……」
自分でも意外な発想だった。でも、このまま動かないで一日を終えるよりは、ちょっとばかり気分がよくなるかもしれない。
半開きの戸をガララと開け、かかっているワンピースに触れる。
若草色の厚手のニットワンピース。
裾にほどかれたシフォンの柔らかなプリーツが指先をくすぐった。
二月は、まだ寒いけれど暦の上では春である。
春色の明るい色を着て、体を冷やさずにお出かけできたらたまらないじゃないか。
そう思って、ルミネで買った。
ゆっくりと持ち上げ、くぐるように、身に纏う。
「あ……」
鏡に映る「私」は、さっきまでと少し違って見えた。
あれ、「私」ってこんな顔してたっけ?
鏡の前で一瞬だけ目を伏せる。耳の奥に、むかしの自分の声がよみがえった。
深夜一時、布団をかぶって、友達といつまでも電話してた夜。
明日のことなんて忘れて、「てかさ、聞いてよ」と笑い転げて、気づけば通話時間が三時間を越えていた。あの頃の私は、世界を怖がってなんかいなかった。むしろ世界のほうが、私の話を聞きに来るとすら本気で思っていた。
今は違う。電話をかける指が動かない。着信音どころか通知音が鳴るのも怖くて、スマホを裏返しにして見えないところに置く。
昔は当たり前にできていたことが、今はなぜか、できない。
鏡に映る知らない人間の顔が張り付いた頭部を理解した瞬間、やけに脳みその重さを感じた心地がした。
だけど、それは苦しいものではなく。
鏡の中の「私?」は、どこか物憂げな表情を浮かべている。でも、さっきまでとは確実に違う。
着替えただけなのに、不思議と心が少し軽くなったような気がする。
着替えただけでも、成長だ。
大きな一歩だ。
「このまま……寝ちゃおうかな」
そう考えた瞬間、胸が妙に締め付けられた。
「ダメな気がする……」
鏡に映る「私?」が、別の人間で、問いかけてくるように見える。
このまま今日という一日を、終わらせていいの?
窓の外に目をやると、街灯が柔らかな明かりを投げかけている。
夜の街を歩くという選択肢が、突然魅力的に思えてきた。
「散歩、行ってみようかな」
その言葉を口にした途端、心臓が小さく躍った。突然湧き上がってきたこの衝動は、まるで暗い水の底から浮かび上がってきた泡のよう。
ただ――
小心者の「私?」は、時計を見やる。時間は夜22時半。
こんな時間に、今から外に出てもいいものだろうか。
成人しているというのにこんなにも臆病で小心者すぎる自分が、嫌になる。
こんなとき、さっと外に出られる「わたし」だったら、よかったのに。
二月の夜風は冷たく肌を刺すだろう。けど、その痛さすら今は心地よく感じられそうだ。
「このまままた寝たら、きっと後悔する。……ワンピースもシワになっちゃうし」
その確信は、さっきまでの虚無感とは真逆の、不思議なほど鮮やかな感情だった。夜の街を歩くという選択肢が、急にとびきり魅力的な冒険のように思えてきた。
鏡の中の「私?」も、かすかに頷いているように見えた。
着替えるというたった一つの何気ない行動が、思いがけず「私」の中の何かを動かし始めた。
焦って行動することへの不安と、それでも一歩を踏み出したいという気持ちの間で揺れながら、結局「私?」は玄関のドアに手をかけた。
この選択が正しいかどうかは分からない。でも、今この瞬間、動き出すことで見えてくる何かがあるはずだ。
玄関に立ち、靴を履く。
ただ、そこで座り込んでしまった。
靴紐を結ぶみたいに、気持ちと自分の行動をさっと結べたらいいのに。朝起きて顔を洗う、清潔な衣服を着る、髪を洗う、食べ物を腐らせない、お菓子意外の食べ物を口にする、返信を返す——かつては呼吸みたいにできていた小さなことたち。
今はできないすべてのことたち。
外に出たら、できて当たり前の人たちが闊歩している世界とつながる。
「なにも急いで出る必要なんてない」
「でも、今このやる気になった気持ちを逃してしまうの?」
相反する思いが、心の中でぶつかり合う。
玄関の細長い鏡に映る「私?」の顔は、どこか不安げだ。
やはり、知らない人の顔に見える。
再度スマホの時計を確認する。夜の11時過ぎ。
こんな時間に出かけることが正しい選択なのか、誰も教えてはくれない。教えてくれる人はいない。聞ける人がいない。
「結構、怖いよな……」
誰も聞いていないのに、冷静なトーンで呟いた。
思ったより声で低くて驚いた。
けど、驚きながらも、手は自然とドアノブに伸びていた。
”がちゃり”という小さな音が、妙に心臓を高鳴らせる。
開いたドアの向こうから、冷たい夜風が頬を撫でていく。
ふと、「いつかの夜の散歩」を思い出す。
飲み会の帰り、胃の中はたいしたことない食べ物でいっぱいに詰まっているはずなのに、心はぽっかり空いていた。駅前のコンビニで、特に欲しくもない菓子パンやカップラーメン、ジュースを買って帰った。どれもカロリーはしっかりあるものなのに、腹に満ちる感じはどこにもなかった。
別の夜。恋人のような人と、同じコンビニでアイスを買った。歩きながらセブンイレブンのまるでマンゴーアイスを食べて、指先が冷たくなって、笑って、名前を呼ばれた。味は忘れたのに、溶けた雫が手の甲を伝った”ひやり”とその不快感は、まだ思い出せる。あのときの夜は、いくぶんあたたかかったと思う。
そんな夜をいくつか思い出したら、気を紛らわせる気がした。
何かあれば歩けたけれど、何もないから歩けない。
ドアの隙間から外を少し覗いてみる。
駅の方へと続く街灯の明かりは、まるで「私」を誘うように揺らめいていた。
「……ダメだったら、すぐ戻ればいい」
この選択が正解かどうかは、誰にもわからない。
でも、今この瞬間、動き出すことで見える景色があるはずだ。
深呼吸をして、私は一歩を踏み出すことにした。
玄関のドアを閉める音が、小さな決意の音のように響いた。
夜の街へ向かって歩き始める「私」の足取りは、不思議と軽かった。
駅へ向かう角を曲がると、小さなカフェの前で足が止まった。シャッターはないが、内側からロングのカーテンが閉められている。「CLOSE」の看板がかかっていた。そりゃそうだ。
けれど、ガラス越しに、もうひとつの貼り紙が目に留まった。
『春メニュー はじまります』——おそらく店主が描いたのだと思われる手描きの苺と、曖昧なパステルのミモザ。
胸の奥で、かすかな音が鳴る。
明日、という言葉が、こんなにも具体的に目の前にぶら下がっている。
苺ミルクのパンケーキと、コーヒーゼリーの苺のせ。知らない名前の並びが、今日の私に小さな興味をくれる。「……明日、来てみようかな」口に出すと、言葉はふわり白い息になって消えた。
「いや、明日は来れなくても……春のうちには来られるかな」
できないことは、まだ山ほどある。けれど——苺ミルクなら……いや、コーヒーゼリーの方なら、味が想像できる。想像できるものは、たぶん、手に入れられる。そう思えた自分を、少し誇らしく思えた。
いろんな夜が毎日やってきますね。
無理に進まないで止まってもいいって思える夜があることは、救いになるなと考えることがあります。