6回目の告白
文化祭を終えて数日後、学校が平穏を取り戻した頃、大きめの台風がやってきた。
昼過ぎから降り始めた雨は、帰る頃には滝のようになっていた。
靴をびちょびちょにしながら、学校から駅まで歩いて、徐行運転中の電車に乗る。
電車の窓を叩く大粒の水滴を眺めながら、ふと洸のことを考えてしまった。今日はちゃんと傘を持ってきただろうかと。
あれ以来、洸が話しかけてくることはなくなった。
元の生活に戻れると思ったのに、今でも洸のことを考えてしまう。
電車を降りて、ホームの階段を降りる。
改札へ向かう数メートルの距離に、未だに鼓動が早くなる。
洸に会えることを、心が期待している。
私はしばらく、この痛みに苦しみ続けるのだろう。
これは、自分の愚かさに対する代償だ。
駅を出て、傘を広げる。
横殴りの雨が容赦なく吹き付けてきて、眼鏡のレンズに水滴をつけた。
それで私は仕方なく眼鏡を鞄の中にしまって、鞄を抱きしめながら、何とか歩き出した。
あと少ししたら雨風が収まるらしいから、それまでお母さんの事務所で過ごすつもりだ。
***
事務所に着くまでに、制服がすっかりびしょ濡れになった。
傘を閉じて足早にマンションに入ろうとした時だった。
「おい!何してるんだ」
聞き覚えのある声が背後から聞こえて、肩をびくつかせた。
「あん?誰やお前」
こっちもよく知ってる声だ。
振り向くと、洸がパパの肩を掴んでいた。
「パパ、こんなとこで何してんの?」
私はまず父親に声をかけた。
パパは、黒いウィンドブレーカーのフードを目深に被り、両手に買い物袋を提げている。
こんな大雨のなか、傘も差さずに歩いて買い物に行くなんて、狂気の沙汰としか思えない。
「えっ、お父さん?」
洸が慌てて手を離す。
「すみません、理乃さんの後をつけているように見えて、てっきり……」
申し訳なさそうに、何度も頭を下げている。
確かにパパの格好は不審だけど、そんな買い物袋パンパンな不審者おらん。
っていうか。
「洸くん、何で傘差してないの?」
洸の方も傘を差さずにずぶ濡れだ。
手に傘を持ってるのに。
ん?それって……。
「傘を拝借しておりましたので、お返しいたします」
洸が、横にした傘をパパに両手で差し出した。
まるで刀を献上するみたいに。
「こいつ、理乃の友達か?」
パパが私に問いかけてくる。
友達、ではない気がするけど、それ以外に表現のしようもなくて、あいまいに頷く。
「何や、えらい度胸あるやんか、兄ちゃん。すぐそこ俺んちやし、いったん上がり」
「え、いや……」
洸が私の方を見て渋る。
私が二度と話しかけるなと言ったのを気にしているらしい。
この状況じゃ仕方ない。
そう思って、不本意ながら頷いた。
この滝雨のなか歩いて帰られたら、罪悪感が半端じゃないし。
***
「兄ちゃん、俺の服貸したるから、シャワー浴び。もぉちょいしたら小降りになるゆうてるし、それまでここにおったらええわ」
パパがびちょびちょのまま家に上がって、寝室からそう叫んでいる。
小降りになるのを知ってるのに、何でこのタイミングで買い物に出かけたんや。
そうツッコみたいのを我慢して、私は黙って洗面所にかかっていたタオルで床を拭く。
洸が久しぶりで、何かしていないと、自分を保てそうになかった。
「え、いやそんな、悪いです」
洸はパパに対して恐縮しきりだ。
「ええから。兄ちゃん、家どこや」
「緑葉です」
「そりゃえらい遠いやんか。車で送ろか?」
「いえ、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
「ほうか?ほんなら、これに着替え。身長同じくらいやし、サイズは問題ないやろ」
パパはそう言って、洸に着替えを押し付けた。
そして、床を拭いている私に声をかけた。
「理乃、そんなんええから、兄ちゃん洗面所に案内して、タオル出したって」
「パパがしてよ。私ここに住んだことないから、タオルの場所とか分からん」
「え」
洸が驚きの声をあげたから、ここを私の家だと偽っていたことを思い出した。
まあいいか。
パパは、洸を洗面所に連れて行ったあと、私にも服を差し出してきた。
「パパな、買い物から帰るところやって、急いで家に戻らなあかん。理乃もこれに着替えて、雨が小降りになってから帰ってきたらええわ。パパが後で車で迎えに来てもええし、な」
パパは買い物袋を手に、まくしたてるようにそう言った。
いやいや。
ありえへん。
年頃の娘を男と2人にする父親がどこにおんねん。
「ほんなら、何を気前よく家に上げてくれてんの。だいたい、何でわざわざこんな雨がひどい時に買い物してるん」
パパに遭遇しなければ、洸と関わらずに済んだのに。
そう思ったら腹が立って、私は声を尖らせた。
「理乃が心配やったんやんか。いつもこんくらいの時間の電車やゆうてたやろ」
「そしたら車で迎えに来てくれたらええやろ。傘も持たんで意味分からん」
「理乃がどの電車で帰ってくるか分からんやんか」
「迎えに行くて連絡くれたら済むことやろ」
「パパの連絡、いつも無視するやん」
……確かに。
ぐうの音も出なくて、私は咄嗟に言い返せなかった。
「お前は何をそんなに怒ってんねん。あれか、パパにここにおってほしいんか」
パパが能天気にからかってくる。
ムカつく。
「そんなわけないやろ。早よ帰って」
「おう。ほんなら、兄ちゃんによろしくね」
パパはそのまま慌ただしく家を出ていった。
しかも、洸が返してくれた傘を持っていった気がする。
これじゃあ洸を追い出すこともできん。
どうしてくれんねん。
***
タオルで自分の鞄を拭いているところに、洸が洗面所から出てきた。
パパがいないことに戸惑ったのか、部屋の中を見回している。
「あの、お父さんは……?」
意を決したように、私にそう訊いてきた。
「家に帰った。ごめん、ここ私の家じゃなくて、母親の事務所なんだ。父親は一時期ここで暮らしてたの」
ずっと嘘をついていたことを謝る。
洸は、分かっていたというように小さく頷いた。
「じゃあ、僕も帰るよ」
そう言って、私に背を向けた。
「いま雨ひどいよ」
玄関に向かう洸を追いかける。
後ろ姿が、パパにそっくりだ。
パパのスウェットを着てるし。
「僕のことは気にしないで。理乃ちゃんも着替えたほうがいいよ」
洸は立ち止まらずに、そう返してきた。
さっきから私の顔を全然見ない。
それはいいけど。
「父親が傘を持っていっちゃったの。だからーー」
しばらくここにいたら。
そう言いかけたのを遮られた。
「理乃ちゃん、僕が怖いでしょ?こないだはひどいことを言っちゃったから」
洸が裸足で靴を履きながら言う。
「あれじゃあ、身体目的だって誤解されても仕方がない。本当は誤解を解きたいけど、今はダメだ。傘も返せたし、今日は帰るよ」
私と顔を合わせないまま、玄関に置いていた鞄を取って、本当に帰ろうとした。
そのびちょびちょの鞄を掴んで、引き止める。
「どうして、今はダメなの?」
そんなこと言ったら、こっちだって今は帰せない。
外でゴォゴォいってるし。
「制服、透けてる。そんな格好で僕の前に出てきちゃダメだよ」
洸に指摘されて、慌てて持っていたタオルで身体を隠す。
洸の鞄から手を離してしまった。
「じゃあね。理乃ちゃんも、気をつけて帰って」
「待って」
スウェットの裾を掴むと、重たい抵抗があった。
「お父さんの服が伸びる」
「着替えるから。洸くんに訊きたいことがあるの。今帰ったら、今度こそ二度と洸くんと口利かない」
我ながら、何をしているのだろうと思った。
洸のことを忘れようと思ったのに、こんなに必死に引き留めてる。
台風が悪いのだ。
やがて、洸の身体から抵抗が抜けた。
「離して。服が伸びちゃう」
「洸くんが帰るって言うから」
「帰らないから。早く着替えてきて。理乃ちゃん、風邪ひいちゃう」
洸は観念したようにそう言った、
***
「ーーっ」
パパのスウェットに着替えた私を見て、洸はバッと顔を背けた。
「え、そんなに変?」
確かにブカブカだけど、腕まくりすれば行けると思ったのに。
「いや、変じゃないけど、」
洸が、目を逸らしたまま答える。
「久しぶりの理乃ちゃんにその格好は、眩しすぎる」
「ああ、はいはい」
この人は、そういう生き物なんだった。
冷蔵庫の中に未開封の麦茶のペットボトルを見つけて、応接用のテーブルの上でコップに注ぐ。
「あ、ありがとう……」
洸は、椅子に座って恐縮そうにしている。
洸の向かいの椅子に腰を下ろした。
「それで、」
私は、面接官みたいに洸に問いかける。
訊きたいことがあると言って引き留めたからには、洸に何かを訊く必要がある。
「洸くんが私に可愛いとか好きとか言う目的は何?」
直球でそう尋ねてみた。
せっかくの機会だから、ずっと気になっていたことを訊こうと思った。
洸の目的が分かれば、この胸のモヤモヤが晴れるかもしれない。
「目的?」
洸は、コップを握りしめたまま、少しフリーズした。
そして、目をキョロキョロさせながら答えた。
「目的なんかないよ。心の声が漏れてるだけで」
そんなわけあるかい。
そう思ったけど、次の質問に行くことにした。
「じゃあ、洸くんの言う『好き』って、どういう意味?」
好きの定義が、私とは違うのかもしれないと思った。
いや、私の中には好きの定義が明確にあるわけではないけど、少なくとも気軽には言えない。
「す、好きは好きだよ」
洸は再び目をキョロキョロとさせた。
「理乃ちゃんと一緒にいると嬉しいし、離れると寂しい」
その答えは、何だかよく分からなかった。
「洸くんには、そういう子が何人もいるの?」
そう訊いたら、洸はがっくりとうなだれた。
「……理乃ちゃんだけだって言ってるのに」
小さな声でそう呟いている。
言ってたけど。
そんなの信じられるか。
洸はパッと顔を上げた。
やっと目が合った。
「考えてみたら、自己紹介もまだだったね。よく知らない人から好きだって言われても、怖いだけだよね」
「え、いや……」
「僕は、大原洸、16歳。173センチ、60キロ。生まれも育ちも緑葉。趣味は野球。父親は会社員で、母親は実家で親の介護中。大学生の姉が2人。両方とも家を出てる。それでーー」
い、いきなり何が始まってん。
思わず聞き入ってしもたやないか。
「私そんなこと訊いてな……じゃあ洸くんは今、お父さんと2人暮らしなの?」
乗せられてしまう私も私だ。
私が尋問してたはずなのに。
「父親はほとんど家にいないから、実質ひとりみたいなものかな」
そうだったのか。
それは少し寂しそうだと思った。
「あ、でも、犬がいるって……」
ノノという名前の犬がいたはずだ。
「ノノは、死んだんだ」
洸はさらりとそう言った。
思いがけない言葉に、衝撃を受けた。
「えっ?あ、具合悪いって……あれ、それは違うんだっけ?」
ノノは具合が悪いわけではないと洸が言っていたのを思い出して、混乱する。
「うん。具合が悪いのは嘘。そう言えば、放課後の練習に出なくて済むから」
洸はそう打ち明けて、自嘲するように笑った。
「もしかして、」
私は麦茶で喉を潤す。
「電車の中で初めて話した時、洸くんが悲しそうな顔してたのって……」
気を抜いているところを見られちゃった、と洸は言った。
「うん。ノノが死んだのは、あの日の前の晩だった」
そうか。
あの時は、愛犬を亡くしたばかりだったんだ。
「洸くんが私に絡んできたのは、寂しさを埋めるためだったんだね」
可愛いも、好きも、ノノに向けていた言葉だったのかもしれない。
私はそう、自分を納得させようとした。
でも。
「違うよ」
洸はそれを否定した。
「確かに、一緒にいたいって意味では、ノノと理乃ちゃんは同じだけど、僕にとって理乃ちゃんは、それ以上の存在なんだ」
テーブルの上に、身を乗り出してきて続ける。
「電車で初めて話した時から、僕は理乃ちゃんのことしか考えられなくなった。これが人を好きになるということなんだって、初めて知ったんだ」
あかん。
流されたらダメなのに、久しぶりに洸から好きだと言われて、心臓がうるさくなってる。
「僕の気持ち、分かってもらえた?僕が好きなのは理乃ちゃんだけだって、信じてもらえた?」
洸が追い打ちをかけるように言う。
「だ、だったら、」
流されまいと、私は抵抗する。
「好きなんだったら、付き合いたいとか、き、キスしたいとか思うものじゃないの?知らないけど」
洸は、好きだと言うだけで、私との関係を進展させようとしてこない。
「キスしていいの?」
「え?」
洸が椅子を引く。
「僕と付き合ってくれるの?」
私のことをまっすぐに見据えて、そう訊いてくる。
目が怖い。
吸い込まれそうで。
「あ、あかん」
慌てて拒否する。
ガタッと洸が立ち上がる。
「あかんよ?あかんからね!」
必死に拒否する。
洸がこちらに向かってくる。
このままじゃ、キスされる。
キスしたら最後、私はきっと流される。
洸にとってキスは、誰とでもできるものなのに。
口を塞いで、来たる襲撃に備えていると、洸は私の隣の椅子を引いて、ストンと座った。
「ああ、緊張した」
そう言って、深いため息をついている。
「……はあ?」
それはこっちのセリフだ。
本気でキスされるかと思った。
「理乃ちゃんのことを正面から見るの、慣れてなくて。ちょっと、可愛すぎた……」
急に席を移動した理由を、洸はそう説明した。
紛らわしい。
「僕さ、」
私のうるさい心臓をよそに、洸は真剣なトーンで言った。
「理乃ちゃんと付き合うなんて、想像したこともなかった。それで、こないだ理乃ちゃんに訊かれた時、テンパっちゃったんだ」
喋りながら、自分のコップを手前に引き寄せている。
「あの時、もしも付き合えたら、理乃ちゃんのこと全部知りたいなって思った。けど、何て答えたらいいか分かんなくて、気づいたらあんなことを口走ってた。最低だった。ごめん」
「……はあ」
我ながら気の抜けた返しだった。
そんな私を見て、洸は質問にちゃんと答えていなかったことに気付いたようだった。
「もちろん、理乃ちゃんと付き合ったりキスしたりしたいって思うけど、想像するだけで理乃ちゃんを汚しちゃいそうで……」
ボソボソとそう付け足した。
頭の中がグラグラして、洸の言葉が耳から耳へと抜けていく。
私が尋問していたはずなのに、すっかり洸のペースに乗せられている。
このままじゃ、心臓もたへん。
ここはいったん休戦や。
私は床に置いていた鞄から、英語の教科書を取り出した。
「理乃ちゃん?」
「ちょっと勉強する。洸くんは好きにしてて」
洸に対して休戦宣言をした。
「ああ、うん」
私の急な申し出に、洸はすんなり頷いて、コップに口をつけた。
洸の喉がゴクリと鳴る音にすら、緊張してしまう。
教科書を開く。
He has had a dog since he was a child.
(彼は子供の頃から犬を飼っています)
hasとhadが連続している理由が、早速分からない。こんな単純な英文も解読できないなんて、先が思いやられる。
ええと、have a dogは、『犬を飼っている』だ。since he was a childで、『彼が子供の頃から』。
そういえば、洸も子供の頃から犬を飼っていたのだろうか。洸は小さい頃、どんな子供だったのだろう。
……あかん、集中や、集中。
***
How long have you been studying English?
(あなたはどのくらいの間、英語を勉強しているのですか?)
ただでさえ複雑な現在完了進行形が、疑問形になったことで、集中の糸がぷつりと切れた。
それとともに洸の存在を思い出した。
慌てて横を向くと、洸はテーブルに頬杖をついて、こちらを向いた体勢で眠っていた。
時刻は5時近く。
私は1時間くらい洸を放置していたらしい。
さっきは濡れた色をしていた洸の髪の毛先が、水分を失って跳ねている。
ほんまに、どうしたもんやろ。
心の中でそう呟きながら、その毛先にそっと触れる。
洸の髪は溶けそうなくらい柔らかくて、軽く撫でただけで簡単に思い通りになった。
しばらく髪を撫でていた私は、我に返って手を引っ込めた。
さらさらな髪の手触りが心地よくて、癖になりそうだった。
「やめないで」
洸が急に言葉を発したから驚いた。
「起きてたの?」
そう尋ねると、すらりと目が開く。
「ちょっとだけうとうとしてた。昨日寝たのが遅くて」
「ふうん。夜更かし?」
「うん。文化祭の後も毎晩オンライン通話する流れになっちゃってて」
「ああ、市村さんたちと?」
「そう」
シンデレラの劇の練習をオンラインでやっていると言っていた。
私は洸の連絡先すら知らないのに。
「現在完了進行形が疑問形になると、頭がこんがらがるよね」
洸の声に、我に返った。
「え?」
洸の連絡先を知らないことにモヤモヤしていた私は、洸が何を言っているのか咄嗟に理解できなかった。
そんな私に、洸は英語の教科書の一文を指差してきた。
「苦戦してるみたいだったから」
「ああ。え、見てたの?」
「ダメだった?」
「いや、いいけど」
なんか恥ずかしい。
「僕はもう、文法とか考えないで、How long have you been -ingの形をまる覚えすることにした」
なるほど。それは賢いかも。
「英語、得意なの?」
洸はあまり勉強しそうなタイプには見えない。
「僕、授業聞いただけで、そこそこできちゃうんだよね」
「嫌味か」
「あはは」
なんか、洸とさっきより自然に話せてるかも。
勉強パワー、あなどれない。
「雨、小降りになったっぽいね」
洸が窓の方に目をやって言う。
確かに、さっきまでゴォゴォいっていた雨音が、静かになっている。
「止んでるかも」
窓のレースのカーテンをめくって確認した。
「じゃあ、今のうちに帰ろっか」
洸の言葉に従って、教科書を鞄の中に手早くしまう。
その時、テーブルの上に並んだ2つのコップが目に入った。
もし、私が洸のコップに口をつけようとしたら、洸はどんな反応をするだろう。
ふとそんな好奇心が首をもたげる。
女子と軽いノリでキスをするくらいだから、間接キスぐらい、何とも思わないだろうか。
何気なさを装って、洸のコップを持ち上げてみる。
「あ、それ、僕が口つけたよ」
あっさり止められた。
「ああ、私のこっちか」
間違えたふりをして、コップを下ろす。
どうしても、訊いてみたくなった。
「洸くんはさ、誰とでもキスできるの?」
自分のお茶を飲もうとした洸がむせる。
「ええ?」
訊きかえされて、自分の聞き間違いだったのかもしれないと思いかけた。
サアヤたちと屋上にキスしに行ったように見えたのは。
でも。
「ああ、あの時の。聞こえてた?」
洸が、思い出したように頭をかきながら言ったから、淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「立ち聞きする気はなかったんだけど」
「理乃ちゃん、図書室に本を返しに行く途中っぽかったもんね」
洸の言葉に驚く。
学校では私のことが見えていないのかと思っていた。私と目が合っても、洸は何の感情も見せないから。
「あれは、あの子たちにキスしたいって言われて」
洸は麦茶を飲み干して、キスをした理由を述べた。
ということは、したいと言われたら、洸は誰とでもキスをするのだろうか。
キスの、その先も。
「じゃあさ、」
なぜだろう。
意地になった。
「私が今、キスしたいって言ったら、どうする?」
試すような気持ちで、そう尋ねた。
一瞬、時が止まった。
私を見つめる洸の瞳が、ゆらゆらと揺れる。
「で、でも、」
洸がどもりながら言う。
「理乃ちゃんさっき、あかんって何回も言ってたけど」
確かに言った。
洸のせいで、私はすっかり支離滅裂だ。
「私、そんな関西弁で喋ってないし」
わざと論点をズラした私を、洸がじっと見つめてくる。
手に持っていたコップを、テーブルの上にそっと戻している。
「いいの?」
私の方に一歩近づいて来る。
「いいよ」
私は、強がって答えた。
洸の喉仏が、ひとつ上下する。
さらに近づいてきて、顔を寄せてくる。
ああ、ちょっと怖いかも。
待って、やっぱダメかも。
唇が触れる寸前に、ギュッと目を閉じた。
でも、いつまで経っても唇に触れる感触は訪れない。
そのまま、何秒経っただろう。
恐々と目を開けた時、洸の顔は普通の距離に戻っていた。
「ごめん、できない」
申し訳なさそうに洸は謝った。
それを聞いて、ホッとすると同時にモヤモヤした。
サアヤたちの誘いには、簡単に乗ったのに。
でも、食い下がるのも惨めで。
「いや、私もキスってどんなもんなのかなって思っただけで、したいとは思ってなかったから大丈夫だよ」
私はそう意地を張った。
「何でそんなこと……」
洸は怒ったようだった。
「軽々しくそんなことしちゃダメだよ」
「どうして?」
洸の論理が理解できなくて尋ねる。
「洸くんは軽々しく女の子とキスするくせに、どうして私はダメなの?女だから?」
だとしたら、幻滅だと思った。
キスに、男も女もない。
「そうじゃなくて」
洸はそれを否定した。
「僕にとって理乃ちゃんが、大事な人だからだよ」
***
外は肌寒かった。
雨は降ってないけど、風がかなり強い。
「また降ってくるかもしれないから、電車で帰りなよ」
マンションの前で、洸に駅の方向を示した。
私の家とは反対方向だ。
「理乃ちゃん、僕のこと許してくれた?」
洸がおずおずと尋ねてくる。
私がまだ怒っていると思っていたのだろうか。
というか、私はいつ、洸のことを受け入れたのだろう。
当然のように、明日も洸と一緒に帰る気になっていた。
「今さら何言ってんの」
私はズルくごまかした。
洸に対しても、自分に対しても。
「良かった。家まで送るね」
洸が当然のように言う。
いやいや。
「送ってくれなくていいから。ここから歩いて20分くらいかかるし、緑葉とは違う方向だよ」
そう断ると、洸はがっくりと肩を落とした。
「ここから20分も?僕、理乃ちゃんを家まで送ってるつもりだったのに。そんなに僕と歩きたくなかったんだね」
うう。罪悪感がすごい。
「違うから。いつもここで勉強してから帰ってるの。家より捗るから」
って、何で私が言い訳せなならんねん。
「じゃあ、これからは家まで送ってもいい?」
何でやねん。
「だから私はここでーー」
言いかけて、思った。
洸は家に帰ってもひとりなんだと。
「寂しいんだったら、ここで一緒に勉強してってもいいよ」
私はそんなことを持ちかけていた。
まあ、今日みたいに気の利いたことを教えてくれそうやし、ウィンウィンや。
「え?本当に?いいの?やった!」
何度も確認する洸の声が裏返っている。
喜びすぎやろ。
「じゃあ、帰ろう」
洸が駅とは反対の方向に歩き出す。
「だから、洸くんは電車ーーわっ」
ひときわ強い風が吹いて、身体を持っていかれそうになった。
洸が私の背中に手を当てて、支えてくれる。
「ね。家まで送らせて」
爽やかな笑顔で、押し切られた。
ついでに鞄も取り上げられた。
「そういえば、何で洸くんここにいたの?」
観念して、家に向かって歩き出しながら尋ねた。
洸はさっき、マンションの前でパパに突っかかっていた。
「ああ、理乃ちゃんに傘を返したかったんだけど、なかなか話しかけられなくて……」
「だからって何もこんな台風の日に……まさか、毎日ついてきてたんじゃないよね?」
「……ごめん。僕はストーカーです」
その腕をはたいた。
本当に、変な人だ。
「理乃ちゃんのお父さん、カッコよかったな。理乃ちゃんが時々関西弁になるのは、お父さんの影響だったんだね」
洸がそんなことを言う。
パパがかっこいいとかありえん。それに。
「私、関西弁なんか使ってない」
「ええ?それは無理があると思うけど。関西弁、嫌なの?」
「嫌や」
私の関西弁丸出しの返しに、洸が吹き出す。
「理乃ちゃんの、そういうちょっと抜けてるところが、可愛くて、すごく心配」
「何がやねん」
あかん。いっぺん関西弁になったら戻らん。
「理乃ちゃん、危なっかしいんだもん。さっきも危うくキスしちゃうところだった」
洸の口調が小言じみてくる。
「もっと自分を大事にしないとダメだよ。理乃ちゃんは可愛いんだから」
「あ、そっか」
その時、分かったのだ。
自分が何でモヤモヤしているのか。
「私、洸くんが他の女の子とキスするの、嫌かもしれない」
洸の方こそ、自分を大事にしていないように見えるから。
「分かった」
洸は、理由も聞かずに、あっさりと承諾した。
「理乃ちゃんが嫌なら、もうしないよ」
そう約束して、この話を終わらせた。
その後は、弟の話や文化祭のことなど、他愛もない話をして歩いた。
***
「今日は、理乃ちゃんとたくさん話せて嬉しかった」
私の家の前で、洸は別れ際に言った。
「学校で僕が理乃ちゃんを見てニヤけちゃっても、無視してね。僕のせいで理乃ちゃんがいじめられたりしたら嫌だから」
またそんなこと言って、
そう思って聞き流そうとしたけど、ひとつだけ引っかかった。
「さっきも思ったんだけど、洸くんって学校で私のこと見えてるの?」
いつも無視されるから、見えていないのかと思っていた。
私の言葉に、洸は明るく笑った。
「あはは、そりゃ見えてるよ。でも、感情が漏れないようにほっぺたの裏を噛んでるから、怖い顔しちゃってるかも」
何やそれ。
そんなん知ったらめっちゃ恥ずいねんけど。
「……なるべく洸くんの視界に入らないようにする」
「助かる。授業中は見放題だけど」
洸の席は私の斜め後ろだ。
「見放題って、やめて」
「そりゃ見るでしょ。好きな子の後ろ姿は」
「もう嫌や、明日から意識してまうやろ」
「ふふ、意識してくれるの?」
「あほ」
「理乃ちゃんが可愛いのが悪いんだよ」
そう言って、私に鞄を返してくる。
「じゃあ、また明日ね。お父さんによろしく」
軽く手を振って、洸は帰っていった。
私の頬に火照りを残して。