4回目の告白
「今日も難しい?」
午後の授業を受ける準備をしていると、私のすぐ後ろでサアヤが言った。
「うん、ごめんね」
洸がそう答えている。
本当に困る。
聞き耳を立てているつもりはないのに、洸たちの会話が自然と耳に入ってくるようになった。
「ノノちゃん、まだ元気にならないの?」
別の女が訊く。
ノノは確か、雄犬だ。病気なのだろうか。
ていうか、ノノって女の子みたいな名前やな。
「うん、なかなか良くならなくて」
「そっかぁ、うちらがお見舞いに行くのもダメぇ?」
「うん。可愛い女の子たちが一斉に来たら、ノノ、びっくりしちゃうよ」
「やだぁ」
他の子にも可愛いとか言うんだ。
洸がそういう人間だと知っていたはずなのに、実際に耳にすると、少しモヤモヤした。
窓の外では、秋雨が静かに降り始めていた。
***
「あ」
電車が発車する間際に誰かが飛び込んで来たと思ったら、洸だった。
ガラガラの車両の中で、ロングシートの反対側の端に座っている私と目が合う。
明らかに私に気づいた様子だったのに、洸はこちらに寄ってくることなく、向こうのシートに腰を下ろした。
そして、窓の外に知り合いがいるのか、電車が動き出すのと同時に、ぺこりと頭を下げた。
車窓が流れて、洸が頭を下げた相手だと思われる人が私からも見えた。
それは、私たちと同じ青風高校の制服を着た、知らない女の人だった。
その人は、窓から消える寸前まで、ずっと手を振り続けていた。
電車の中で英語の参考書を開いたけど、アルファベットがぐにゃぐにゃと歪んでいて、ひどく読みづからかった。
***
「今日は同じ電車だったね」
先に階段を降りていった洸は、改札を出たところで、何食わぬ顔で声をかけてきた。
本当に分からない。何を考えているのか。
けど、あれこれ言うのも違うかと思って、返しに困りながら駅の外に出た。
結構降っている。
「傘持ってないの?」
傘を広げながら洸にそう尋ねた。
洸の制服が、雨に濡れて、みるみるうちに透明になっていく。
「あはは、気にしないで」
「気になるよ」
洸と一緒に駅の中に戻って、カバンの中を探る。
確か、折り畳みの傘を入れてたはず……。
あ。
傘を持って出る時に、要らないと思って玄関に置いてきたんだった。
「理乃ちゃん、本当に大丈夫だよ。濡れて困るものは持ってないし、僕は割と頑丈だから風邪ひいたりもしない」
洸が再び駅の外に足を踏み出す。
ふと、疑問が浮かんだ。
「さっきまでは濡れてなかったよね。学校から駅まではどうしたの?」
訊きながら、答えが予想できてしまった。
あの、手を振ってた女の人か。
「先輩が傘に入れてくれて」
案の定、洸はそう答えた。
「ふうん」
なぜだろう、私、あの女の人に対抗心を抱いている。
「いいよ、そんなことしたら理乃ちゃんが濡れちゃう」
傘を差しかけると、洸はやんわりとそれを押し戻してきた。
「先輩の傘には入ったのに?」
「理乃ちゃんには、風邪を引かせたくない」
「先輩は風邪引いてもいいの?」
その時、洸の肩にピンク色の染みが付いているのが見えた。
「理乃ちゃんは特別ーーん?」
私が傘を閉じたから、洸がきょとんとする。
傘を押し付けると、洸は戸惑いながらも持ってくれた。
自分でもなぜなのか分からない。
このリップの染みがどうしても許せなかった。
洸の方に一歩近づくと、雨が容赦なく釣り注いできた。
洸が、慌てたように傘を開いて差し掛けてくる。
その肩を掴んで、その染みをこすり落とした。
洸の肩に付いたピンク色の口紅は、雨であっけなく消えた。
「気づいてなかった。ありがとう……」
洸が、私に傘を差し掛けたままお礼を言う。
その傘の柄を、洸の方に傾けた。
そのまま洸の方に身を寄せて、強引に相合傘に持ちこむ。
「言っとくけど、私はリップとか塗ってないから、心配ないよ」
「理乃ちゃんにされたら僕、溶けてなくなっちゃうかも。今すでにやばいのに」
「何がやばいの」
「理乃ちゃんが近すぎて、ドキドキしすぎてやばい」
「はいはい」
まともに聞いた私が馬鹿だった。
「あのさ」
黙って歩く洸に、ずっと気になっていた疑問をぶつけてみることにした。
「何で、他の場所では私に絡んでこないの?」
洸は、駅からの帰り道でしか私に話しかけてこない。
学校でも、さっきの電車の中でも、私のことをスルーしてくる。
まるで、見えていないみたいに。
洸は、すぐには答えなかった。
「理由を言ったら、理乃ちゃんに最低だと思われそうだな」
そう呟いて、答えるのを渋った。
「ああ、やっぱり」
私は思わずそう呟いた。
洸は、複数の女の子と、こういうことをしているのだろう。
他の女の子に、私といるところを見られたら困るから、他の場所では話しかけてこないのだろう。
そんなこと、分かってた。
むしろ、安心した。
「ちゃんと入ってて」
洸は、傘を反対の手に持ち替えて、私の腰を引き寄せた。
無意識に洸から少し離れていたようだ。
にしても、口で言えや。
心臓に悪いやろ。
心の中でそう罵っていると、傘を持つ洸の腕がびちょびちょなのに気づいた。
「洸くんこそ、ちゃんと入ってよ」
仕方なく、洸の手の上から傘の柄を握る。
「ごめん、本当に溶ける」
洸がその場で立ち止まったから、私も足を止める。
「何アホなこと言ってんの」
自分はやりたい放題しておいて、私から近づくと大げさに動揺してみせる。
本当に、何考えてるのか分からない。
慣れてるくせに。
「ねえ、ノノちゃん具合悪いんでしょ。早く帰らないと」
立ち尽くしたままの洸に、そう声をかける。
言ってから、しまったと思った。教室での会話を盗み聞きしてたことがバレる。
いや、わざと盗み聞きしたわけじゃないけど。
「ノノは、具合が悪いわけじゃなくて……」
洸は、盗み聞きをしたことを責めることなく、そんなことを言った。
洸は、飼い犬の体調不良を理由に、放課後の練習を断っているようだった。
それは嘘だったのだろうか。
私と一緒に帰るために?
いやいや、都合よく考えるな、私。
いや、都合よくって何やねん。
「あのね、理乃ちゃん」
ひとりで混乱している私に、洸が真剣な目を向けてくる。
「誤解してると思うけど、僕が好きなのは、理乃ちゃんだけだよ」
まさか。
そんなこと、ありえない。
「信じてないね、理乃ちゃん」
私の心を読んだみたいに、洸は力なく笑った。
「でも、信じてほしい。僕が他の場所で理乃ちゃんに話しかけないのは、理乃ちゃんに迷惑をかけたくないからなんだ」
洸のこめかみを、雨が流れ落ちる。
「僕ね、自分で言うのもなんだけど、女の人から執着されやすくて、誰か1人を特別扱いすると、大変なことになる。みんなの前で理乃ちゃんに話しかけたら、特別なのがバレちゃうから……」
洸は、深刻なトーンでそう言った。
「ほんまに、自分で言うのもなんやな」
思わず、関西弁全開でツッコミを入れてしまった。
茶化さないと、感情がぐちゃぐちゃになりそうだった。
信じたい自分と流されまいとする自分の間で。
洸はいきなり、私に傘を押し付けて、傘の外に出た。
「え、ちょっ」
「時々出る理乃ちゃんの関西弁、マジで可愛い!」
雨に打たれながら、洸が顔を手で覆って叫ぶ。
「脳が溶ける。っていうか、普通に溶けてなくなりそう。可愛すぎてホント無理。好き。好き」
雨音に負けない声量でブツブツと呟いている。
何なん、この時間。
私、帰ってええ?
「ごめん、取り乱しそうになったので、頭を冷やしてきました」
しばらくして洸は、何事もなかったみたいに傘の中に戻ってきて、自分の奇怪な行動をそう説明した。
じゅうぶん取り乱していたように見えたけど。
「それで、信じてもらえた?」
歩き出しながら、洸が訊いてくる。
「もう、どうでもいいよ」
私はそう言って、洸の頭上に傘を差しかけた。
洸は、雨に濡れて髪が伸びて、いつもよりも少し幼く見える。
「どうでもよくはないなぁ」
傘を私の方に傾けながら、洸が不本意そうにそう呟いている。
***
「そういえば、洸くんって中学はどこだったの?」
お母さんの事務所の前で、何の気なしにそう尋ねた。
同じ駅で降りて、同じ方向に家があるということは、割と近所のはずだ。
同じ中学校に通っててもおかしくないけど、私は洸のことを高校に入るまで知らなかった。
「ん?緑葉中学だけど」
洸の答えに衝撃を受ける。
「え、こっからめっちゃ遠いじゃん」
どう考えても、最寄駅はここじゃない。
2つくらい向こうの駅だ。
小さい頃、パパが漕ぐ自転車の後ろに乗って、緑葉の方まで遊びに行っていた。
一度だけ歩いて行ったこともある。子供の足だったとはいえ、1時間半くらいかかった記憶だ。
「ああ、あはは」
洸が、しまったというように笑う。
笑ってもごまかされない。
「まさか、ここから歩いて帰る気じゃないよね?駅に戻って電車に乗った方が早いよ」
ずぶ濡れの洸にそう確認する。
「大丈夫だよ。理乃ちゃんのことを考えながら歩いてたら、すぐだし」
「いいから、そんな嘘つかなくて」
「本当のことなのに」
洸が私に別れを告げようとしてくるのを引き留める。
「ちょっとここで待ってて」
「ん?理乃ちゃん、傘……」
洸が傘を返そうとするのをスルーして、マンションの中に駆け込む。
事務所に置きっぱなしになっていたパパの傘を手に、洸のもとに戻った。
「これ、使って」
「え、いいの?お父さんの傘なんじゃ……」
「今は誰も使ってないから」
「ん?」
「何でもない。じゃあね」
慌ててごまかして、踵を返した。
ここが本当の家じゃないことがバレるところだった。
マンションのエレベーターの前で振り向くと、洸が小さく手を振っていた。
たったそれだけのことなのに、心臓が騒がしくなって、考えるな、考えるな、と自分に言い聞かせていた。