贖罪:家政婦長マリサの場合
【注意】流産、堕胎などデリケートな表現が含まれています。
「レイナード邸の新しいお仕着せ、とてもすてきですね。夫人の店で作られたのですか?」
「ええ、そうです。侯爵様が結婚の記念にと新調してくださいましたの」
レイナード邸に出入りの商人と侍女の立ち話に、家政婦長のマリサは足を止めた。
「ご結婚に侯爵夫人のご懐妊、幸せが続きますね。これは最近手に入った隣国の香油なのですが、お祝いとして侯爵夫人にお渡し願えませんか」
「申し訳ありませんが、そういったものを私どもが勝手に受け取ることはできません」
「そんなこと仰らずに」
「申しわけありません……やっ、ちょっと!」
香油を無理矢理押し付けられそうになった侍女が声を荒げる。明らかに礼を失した態度。マリサが仲裁しようとしたとき――。
「何をしているのです!」
ムチのようにピシッと飛んできた声に二人は動きを止める。苛立った商人の目を毅然とした態度で受けるその揺るぎない姿に、侍女は安堵の表情を浮かべる。
「イジー様」
「遅くなってごめんなさい、警備を呼ぶのに手間取って遅くなってしまったわ。大丈夫?」
(慄えているあの侍女より臆病だったあの子が随分と立派になって……)
15歳のときにレイナード邸にきて下女として働きはじめたイジー。丁寧な仕事振りが気に入ってマリサは目をかけていた。
最初の結婚でヒューバートはイジーをアリシアの専属侍女にした。マリサが目をかけるほどの人材であることがきっかけでヒューバートの目にとまり、人柄などを総合評価しての人事だったが「庶民の下女で十分だと思っている」という悪意ある噂が広まった。
原因は貴族社会に疎いアリシアの補佐にするために受け入れた男爵家の令嬢たち。
貴族令嬢なので『雇用』ではなく『行儀見習い』なのだと聞いてヒューバートはそうしたが、その行儀見習いが妾候補の意味をもつことをヒューバートは知らなかった。つまりヒューバートにその気は一切なかったのだが、令嬢も家族もそれを期待し、自分こそがアリシアの専属侍女に選ばれると思っていた。この専属侍女の座こそ、数いる妾候補の中から妾に選ばれたということだからだ。
そして選ばれたのが元下女のイジー。
自分たちを押しのけてヒューバートの妾に選ばれたと大いなる誤解を受けたイジーは彼女たちの陰険ないじめに遭ったが、それでもイジーは耐え、アリシアにも真摯に仕えた。
その後、ヒューバートによって屋敷の者は一旦解雇されたがイジーなど数名はその後すぐに再雇用し、5 年前にマリサは自分の後任としてイジーをヒューバートに推薦した。イジーのことを覚えていたヒューバートは快くマリサの補佐役に任命した。
「け、警備?」
「当然です。ここまでも漂うその強い香り、妊婦によくない香りです。それを奥様に贈るなど、よからぬ企みと判断するのは当然。無理やり押し付けるなどなおさら怪しいですわ」
(もう十分育った……こうして二の足踏んでいるのは未練でしかないわ)
マリサがお仕着せのポケットを上からたたくと、毎日持ち歩いている辞職願いがカサリと音を立てた。
マリサには行くところがないが、前侯爵夫人に相談したところ領地の屋敷での仕事が用意されることになっている。
もうここにいる理由はない。
そうと決まったらマリサはアリシアのもとに向かうことにした。
こうして辞めることを意識すると、二十歳になる前からここで侍女として働いていた過去が走馬灯のように脳裏に巡る。
マリサはレイナード侯爵家と縁のある商家の次女として生まれ、幼馴染でありレイナード侯爵家の傍系にあたる男爵家の嫡男と婚約をしていた。
十六歳になる頃、両家の親が「そろそろ結婚を」と言い始めた頃に事態が急変した。
婚約者に、格上の伯爵家から縁談が持ち込まれたのだった。
貴族社会において序列は絶対な上に、高位と下位には越えられない大きな壁があった。
そんなことを貴族である婚約者が知らないわけがないのに、婚約者は必ずマリサと結婚すると、親を必ず説得してみせると言った。
婚約者がそう言ったのには、マリサのお腹には婚約者の子がいたからだった。
婚約者の親である男爵夫妻も知っていた。
二人とも成人しているし、婚約期間も五年と長いほうだったため「結婚するいいキッカケになった」と男爵夫妻も喜んでいた。
だから、マリサは大丈夫だと思ってしまった。
何を口実に男爵夫人に誘われたかは、古い記憶でマリサはもう覚えていない。
ただとても暑い時期で、夫人を待っている間に出されたハーブティーを二杯飲んだ。
ずっと待っていた。
庭を見たり、廊下の音に耳をすませたり。
静かな時間、壁の時計の長い針が一周まわったところで、再び喉の渇きを覚えたマリサは人を呼んで今度は紅茶を頼もうとした。
そのとき、不意に下腹部を強い痛みが襲った。
月のものが始まるような、それよりももっと強い痛み。
何十年経とうと、きっと死ぬまで忘れない痛み。
あまりの痛みに気を失ったマリサが意識を取り戻すと、男爵夫人と知らない女性の声が聞こえた。
『私より先に子を産むことは許せない。私が男の子と女の子を産んだあと、女の子なら許してあげられるかもしれないけれど』
『それにしても!こんなに苦しむとは聞いていません。まだ妊娠初期だから、軽い痛みと眩暈くらいだと仰ったではありませんか!」
『だって、万が一があったら困るわ。だから三倍の量を飲ませたの、確実に堕胎できるでしょ?こんなに苦しむなんて知らなかったのよ』
不貞腐れた女性の声と、『堕胎』という言葉にマリサはゾッとした。
ただの想像だと分かっているが、あのとき体から何かが剥がれ落ちる感じがした。
顔の傍に布の袋が置かれた。
何か分からなかったのは男爵夫人もだったようで、布袋の中身を女性に訊ねた。
『口止め料と手切れ金。意識戻っているみたいだから、この女に渡しておいて』
短い悲鳴が聞こえて、男爵夫人と目が合った。
その目は恐怖に引きつっていて、その目に灯る罪悪感から彼女も知っていたのだと悟った。
『……赦さない』
マリサの喉から漏れた呪詛の言葉は男爵夫人に恐怖は与えられたが、もう一人の女性、婚約者を奪っていく伯爵令嬢には通じなかった。
男爵夫人も、泣いてはいたが、泣きながらでも一番立場の弱い庶民のマリサを切り捨てたのだ。
マリサの両親は伝手を使ってマリサを王都にあるレイナード家の町屋敷の侍女として、男爵家や伯爵家の目に届かないところにマリサを送り出した。
そうしてやってきたレイナード邸でヒューバートに出会った。
侯爵夫人であるカトレアと年齢が近いこともあって、マリサは『乳母』という立場でヒューバートを養育することになった。
そのあとミシェルが生まれて、カトレアは領地に行った。
領地の改善に忙しくなるからとカトレアは子どもたちをおいて単身領地に行き、子どもの養育はマリサに任された。
(私は、産めなかった子どもの代わりにヒューバート様とミシェル様を育てた)
我が子の代わり。
だから醜悪な貴族、ヒューバートを金で買おうとしたアリシアがマリサは許せなかった。
ヒューバートに我が子を重ねたように、アリシアにあの伯爵令嬢を重ねてしまった。
◇
「アリシア様、少しよろしいですか?」
入室の許可をもらって部屋に入ると、ヒューバートと家令のボッシュもいた。
新婚であることを理由に新妻のそばから離れず、このところヒューバートは屋敷で仕事をすることが増えていた。
そしてとうとうアリシアの書斎に間借りするようになったらしい。
「アリシア様、こちらを受け取ってください」
そう言って机の上に辞職願いを置く。
その封筒をじっと見たアリシアは、
「以前から思っていたんですけど、マリサとヒューバート様の字はそっくりね」
意外なことを言われたマリサとヒューバートは思わず顔を見合わせる。
ヒューバートの顔は照れくさそうで、マリサの顔は懐かしそうで。
「家庭教師を雇う余裕がなかったから、字や計算はマリサが教えてくれたんだ」
「私は商家の生まれなので。礼儀作法はボッシュ様がご担当を」
「私はレイナード家の傍系の出なので」
そうなのね、とアリシアは封筒の字をなぞる。
「この字をみるとね、ヒューバート様はマリサたちに大事に育てられたんだなって思うの」
アリシアのペリドットのような澄んだ瞳がマリサの顔をじっと見る。
次の瞬間にアリシアの眉間にギュッとシワが寄って、
「……なんか、お腹が……」
アリシアの言葉にマリサの背筋がゾクリと粟立つ。
妊娠初期、腹部の痛み。
マリサは急いでアリシアに駆け寄り、体を支えながら脈を測る。
「ご気分は?吐き気や目眩は?」
「……大丈夫」
ふう、と息をつくアリシアと冷静に症状を確認するとマリサ。
対照的に男たちは、
「アリシア?大丈夫か!?ボッシュ!!」
「落ち着いてください、坊ちゃま。ほら、ヒッヒッフーヒッヒッフー」
的はずれなことをしている男二人にマリサはイラッとした。
「違います!!それは分娩のときで、急いで医師の手配を!侍女と料理長を呼んで、奥様が口にしたもの、かいだニオイの確認を」
マリサの厳しい声に男二人はピタッと動きを止め、「分かった」と同時に立ち上がって二人で扉につかえるから、
「何をなさっているので……奥様?」
アリシアの体の震えが痛みをこらえながらの強張りではなく、笑いをこらえているのだと気づいたマリサは怪訝な目をアリシアに向ける。
「ご、ごめんなさいね。その……あまりにもヒューバート様たちが役に立ちそうもないから」
先ほどの男二人の醜態が浮かんだマリサは同意したい気持ちでいっぱいだったが、使用人根性で何とか堪える。
しかし、楽しそうに笑うアリシアの姿にマリサの口許も苦笑で緩んでしまう。
「やはり、このお腹の子を守るにはマリサの力が必要だわ。ごめんなさい、辞職したいというマリサの希望は叶えられないわ」
マリサの表情が困ったような、複雑そうな、泣きそうな顔になる。
「……奥様」
「我が子を守るために母親が危険を排除するのは当然のことでしょう?この家からマリサがいなくなったら……また、ヒッヒッフーよ?」
「……陣痛の際はヒッヒッフーが役に立つと思いますが」
「そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。マリサがここで働いていてくれるほうが確実だわ。職業を選択する自由については基本的に賛成だけれど、我が子を守るためだもの、あなたの自由を私は奪うわ」
程度の差はある。
同意なく薬を盛ることは犯罪であり、それが腹の子を殺すものだと分かって与えたならば殺人に相当する罪だ。
それでも、男爵夫人も子どもを守りたかっただけなのだとマリサは思いたい、そう思えるようになった自分に少し驚く。
『いけないこと』と分かっていて、子どもを守るためには仕方ないと罪を犯したのはあの日の男爵夫人も、あの日のマリサも同じなのだ。
「それでは、これからもよろしくね」
そう言ってアリシアはマリサの辞職届を破き、ニッコリ笑う女主人に「かしこまりました」とマリサは頭を下げた。




