第9話 縁が離れる
アリシアは子爵邸におらず、レイナード邸を出てからの足取りもつかめなかった。
直ぐにヒューバートは街の警ら隊にもアリシア捜索を依頼したが、アリシアがレイナード邸を出たのが結婚式の翌日で行方不明から三日以上経ってからの依頼に警ら隊は「なぜ今頃?」と不信感を隠そうとはしなかった。
(本当に、どうして今頃……だ)
探し始めてから三日たつが、依然としてアリシアの行方は分からない。
警ら隊から若い女性の死体が見つかったと聞いて詰め所に行ったが、幸いなことにアリシアではなかった。
「若旦那様、少しお休みなさっては……」
ヒューバートに声をかけたのはマリサだった。
マリサはアリシアが行方不明だと分かると、あの朝ヒューバートとアランが『離縁』や『子ども』の話をしているのを聞いたこと、噂を鵜呑みにしてアリシアを追い出してしまったことをヒューバートに説明した。
離縁も子どももマリサの勘違いで、噂は事実無根だとアリシアの子爵邸での暮らしをヒューバートが説明するとマリサは泣いてヒューバートに謝罪した。
それ以来マリサは眠れていないらしく顔色が酷く悪い。
それはボッシュも同じで、彼は最低限の睡眠時間でアリシアの捜索の陣頭指揮をとっている。
ボッシュもマリサも忠義心の強く、レイナード家の財政が悪化して給金が払えなくなっても文句ひとつ言わずに尽くし、屋敷にいない父と母の代わりにヒューバートたち兄妹を慈しんでくれた。
「少し休め」
ヒューバートの言葉にマリサは力なく首を横に振る。
「俺を守ろうとしてくれたのは分かっているから……」
「若旦那様……」
泣き崩れるマリサは小柄だったが、ヒューバートが悪いことをすれば捕まえて尻を叩き、幼い妹が夜泣きをすれば夜の間ずっと抱っこをして子守唄を聞かせてくれた。
彼女はヒューバートたちにとって善人だったが、彼らの敵と見なしたアリシアに対しては善人ではなかっただけなのだ。
「アリシアとは離縁する」
アリシアを探しながらずっと離縁状を見続け、この抜け一つない完璧な離縁状がアリシアの意思と判断してヒューバートはこの書類を神殿に提出することに決めた。
薄暗闇の中で聞いた自分の花嫁になれて嬉しいというアリシアの言葉も離縁状を前にしては朧気で、彼女が本当はあまり幸せでなく「もっと幸せになることを夢見て姿を消したのではないか」とヒューバートは思うようになっていた。
婚姻は大変だが離縁は簡単と思い知ったのは、アリシアが残した離縁状の空欄に自分が必要事項を記入して神殿に提出したときだった。婚姻の時はあれこれ確認した上に追加書類もあったのに、離縁は離縁状一枚で確認もすぐ終わり。
結婚式から八日目の朝、予想の十分の一以下の時間でヒューバートとアリシアは元夫婦になった。
人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、ヒューバートとアリシアの離縁のニュースは瞬く間に社交界を駆け抜け、離縁届の提出からわずか一週間で王都中の貴族が知ることになった。
二人の話題で社交場は盛り上がり、アリシアには『七日間の花嫁』という名がつき、新聞が取り上げると平民の間でも話題になった。
離縁は二人の問題だが、アリシアにのみ悪意のある名がついたのは大商会の長で次期侯爵である自分への忖度だとヒューバートも分かっていた。
ホットな話題で盛り上がりたいという欲はあるが、レイナード商会を敵に回したくないという保身。それは理解できることであったため、これについてヒューバートから彼らに何かをお願いしようとは思わなかったし、レイナード邸の使用人が大量に解雇されたということが話題になればヒューバートがどれほど不快に思っているかを察して『七日間の花嫁』と嘲笑する者がかなり減ることは想像がついた。
使用人を大量に解雇した上に、妹のミシェルも母と一緒に領地に行ったので侯爵邸の中はかなり人が減り、ヒューバートもほとんど商会近くのアパルトマンで生活していたため屋敷はがらんとした空虚な建物になった。
シトロ商会の会長ベン・ルー・シトロが訪ねてきたのはこの頃だった。
「若旦那様、シトロ商会の方がこれを見てほしいと……」
ボッシュがヒューバートに渡したのは買い取り証明書。中古品の買い取りで発行されるそれは珍しいものではないが、売り主の欄を見て慌てて日付を見る。
「応接室に案内するように。すぐに行くと伝えてくれ」
震える手でネクタイを締めてヒューバートが応接室に行くと、南国の香りを漂わせる男がいた。
「お会いできて嬉しいです。私はベン・ルー・シトロと申します。早速ですが、こちらの品に見覚えはありますか?」
男が開けたベルベットの箱の中には婚約指輪代わりにとアリシアに贈った腕輪と金色のシンプルな指輪。ヒューバートは黙ってうなずく。
「確認が取れましたので、こちらをお受け取りください」
満足気にうなずいたベンがテーブルの上に置いたのは金色に輝く貨幣が数枚。
「なぜ私に? 買い取り金ならば受け取るのは売り主、アリシアであろう?」
「アリシア嬢からのご依頼なのです。売ったお金はレイナード侯爵令息に渡してほしいと」
「アリシアと名乗った女性の特徴は?」
「金髪に淡い緑色の瞳の女性です」
サインの字と男が語った容姿。ヒューバートはアリシアだと確信できたが、ベンの意図が計りかねた。一般的に考えれば盗品かどうかの確認とも言えるが、それならば警備隊が同行しているはずだった。
「なぜ屋敷に? 私に用事ならば商会のほうに来ると思うのだが」
「この件はレイナード商会ではなく、レイナード侯爵家の問題だと思いましたので。腹の探り合いは得意ではないので白状しますが、数カ月前にレイナード家が金髪で萌黄色の瞳の『アリシア』という名前の女性を探していたのを覚えていたのです」
「彼女は貴殿のところに?」
「残念ながら彼女がどこにいるかは分かりません。それに彼女が店に来たときに私は商会にいなかったのですよ。いれば引き留めておいたのですが」
「そうですか」
思わず入った力がベンの答えで抜ける。そんなヒューバートの様子にベンは少し驚いた顔をしたが、直ぐに商人の笑顔を浮かべた。
「それにしても彼女は大した目利きですね。うちの店に来る方の多くは年輩の査定員を選ぶのですが、彼女は迷わず私の息子に査定を依頼したそうです」
「自慢の跡継ぎのようだな」
「親子の情は何物にも代えがたいですからね。親馬鹿と言われても仕方がありませんが、うちの倅はいい目をしているのですよ」
そう言うベンの目が期待する何かを理解できたヒューバートは金貨の山の半分を彼に渡した。
「この件はコールドウェル子爵には秘密にしておきます」
一人きりになった応接間でヒューバートは積み重なった金貨を見ていた。
金貨の清廉な輝きがヒューバートに借りを一切作りたくないというアリシアの姿に見えた。
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