第8話 花嫁は隠れる
「昨日からやけに警ら隊を見るけど、何かあったのかね?」
「人を探しているらしいぞ」
宿の客の言葉にアリシアが反射的に顔を背けると、宿の女将であるアルマが『大丈夫』と言うようにポンポンと肩を叩いてくれた。
「申しわけありません。お泊りのお手続きを続けさせていただきます」
アリシアは大きく深呼吸して、宿に来たばかりの客に滞在する日数と必要な部屋数を尋ねて、いまの空き室と調整する。
「姉ちゃん、仕事が早いなあ。アルマ、いい受付嬢が入ったじゃねえか」
「そうでしょう? この子ったら字も綺麗だし計算もできちゃうから、宿の裏方の仕事は全部任せちゃってるの。今日はいつもより多めにご飯を作っちゃう」
気さくなやり取りから、この客がこの宿の常連だとアリシアにも分かった。
「アルマの料理は絶品だからな。 なあ、姉ちゃん。いつまでここで働いてくれるんだい?」
「目標金額が貯まるまでです」
王都にいたらいつコールドウェル子爵に見つかるか分からない。
子爵にとっていまのアリシアにはレイナード侯爵家との縁をつなぐだけでなく、本人たちは理解しようとしないが彼らの生活を支えている生命線でもある。
アリシアは離れにいる間に読書ばかりしていた。先祖が集めた書物は沢山あったのでアリシアが飽きることはなく、中でも先祖が残した領地経営の手記は読んでいて面白かった。
それを知った子爵が「自分に代わって領地を治めてみるか」と言ったのは怠惰と気まぐれが理由に違いないとアリシアは思っているが、知識を形にできることに興味がわいたことと今以上に悪くなることはないだろうと思ってアリシアは領主代理になった。
領主代理になって分かったのはヒューバートの子爵家への怒りの苛烈さだった。
いつも自分とお茶をしながらこんなことを考えていたのかと、子爵家を破産させるためにヒューバートが敷く罠はえげつなく、アリシアは怖いを通り越して感心してしまった。
アリシアにも現地で指揮を執ってくれる領官たちがいたが、ヒューバートほど数はおらず近くにもいないのでアリシアは子爵領に悪影響があるものだけを邪魔して、子爵当人が借金漬けになろうと放っておくことにした。
(今までの礼と思って破産を免れるようにしたことが役に立つとは)
結婚式の前日、領主代理として最後の仕事だと思い子爵領にある別邸を二つ売った。
当時は餞別のつもりだったが、今ではあのときできた資金のおかげで子爵家はいまそれなりの資金があり、それがあればしばらくはあの二人が自分を探すことはないだろうとアリシアは思っている。
(必要にならないと私のことを思い出さないから。まあ、直ぐに使い果たすだろうから……もって一年かしら)
まだ三日しか働いていないから辺境にある街までの路銀が貯まるのにどのくらいかかるか分からない。いざというときはアルマの言葉に甘えてお金を借りようとアリシアは思った。
「今日から一泊、部屋空いてる?」
少し違うイントネーションに顔をあげたら、真っ先に黒髪が目に入った。この宿は異国の人も多くいて、色や風貌が王国人と違う者も多い。
(この国では黒髪は珍しいけれど……)
型通りの手続きをしながら、目の前で揺れる黒髪を見ているとどうしてもヒューバートを思い出してしまった。あの朝の気怠さも痛みももうないが、翌朝一人で目覚めた寂しさはアリシアの胸に澱のように残っている。
(感傷的な気持ちにもなるわよね、離縁したんだし……離縁届、きちんと受け取ってくださったかしら)
レイナード侯爵家の使用人たちの自分への扱いを思い出すと不安ではあったが、「離縁届」と言ってきたのだからヒューバートに渡っているだろうとアリシアは自分を納得させた。レイナード侯爵家の使用人は結束が強く、皆がヒューバートを慕っていた。そしてヒューバートも彼らを大事にしていた。
使用人自慢の主に、悪名高いコールドウェル子爵の娘が嫁いでくるのは許せなかったのだろう。
アリシア自身を見てほしいと言う気持ちはあるが、こればかりはどうしようもないとアリシアは思っている。
––ヒューバート様と離縁してください。
あの朝、サイドテーブルにあったベルを鳴らしたら来てくれたマリサと名乗る家政婦長はアリシアにそう言って頭を下げた。結婚式後の宴でアリシアを囲んだ人たちと言っていることは同じだったが、マリサの包み隠さない言葉はアリシアの胸を突いた。
マリサによるとヒューバートは呼びに来た部下と執務室でアリシアと離縁することについて話していたという。神殿に出す離縁状も渡され、用意周到だとアリシアは笑ってしまった。
離縁することになるだろうと思っていたから、アリシアは「いよいよ来たか」と思っただけだった。
アリシアは自分が記入しなければいけないところにペンを走らせた。
子爵の手伝いのおかげで公文書の扱いは慣れている。呆気なく離縁届の半分が完成したことにアリシアは自分でも笑ってしまった。
カバン一つで嫁いだため、荷造りは直ぐに終わった。
その荷物の軽さがアリシアに自由に生きていくことを決意させてくれた。
(あのドレスはきちんと捨ててくれたかしら)
ワインで胸元が染まったウエディングドレスは売れない。しかし捨てて誰かに拾われたらその人の想像力を掻き立てて騒ぎになるかもしれない。そう思ってレイナード家の使用人に処分を任せたが、ミシェルのことを思うとヒューバートに見つかる前に焼却処分してくれることを願う。
(そう言えば、子どもがどうとかって……)
何のことかとアリシアは首を傾げたが、自分にまつわる噂に「下男の子を孕んで嫁ぐ」というものがあったことを思い出した。どうやら自分の噂は使用人たちにも蔓延していたらしく、それであの態度だったのかと納得できた。
(子ども、ですって)
アリシアはお腹に手を当てた。確かにヒューバートには何度も愛されはしたが一夜のこと。それで子どもができるならば不妊に悩む夫婦などいないとアリシアは思った。
「お腹がどうしたんだい? 空いたのかい?」
「……ちょっと小腹が」
レイナード家を出てきたときのことを思い出して口の中が苦くなったので、アルマがおやつ用にクッキーを焼いていたことを思い出して強請ってみることにした。
アリシアの目論見通り、クッキーが二枚置かれる。この宿は旅人の利用者が多いので、移動で疲れて空腹な彼らのためによく見るクッキーの倍の大きさだ。
「アルマ、さっきの警ら隊だけど」
「聞いた話ではお貴族様からの依頼で人を探しているらしい……コールドウェル家だろうね、気をつけな」
アリシアも詳しく聞いていないが、アルマは没落した男爵家の令嬢だったらしい。
浮気性の父親のせいで爵位を返上したのち一家は離散し、平民となって行く当てのないアルマをこの宿のオーナー夫妻が保護して養女にしたらしい。
「大丈夫だよ、あんたは私の従姉妹ってことにしたし。髪色だって、宿の看板娘として有名な私も金髪だからまず疑われないよ」
「ありがとう、アルマ」
お礼を言うとアルマに手をとられた。
「幸せになるんだ。それで余裕ができたら、その幸せを誰かに分けてあげておくれ」
幸せなら、自分以外の人の幸せも祈る。それは今は亡きアルマの養母の口ぐせだったらしい。
「今はまだ余裕がないけれど、余裕ができたら頑張ってみるわ」
「あんたのそういう素直なところ、大好きだよ」
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