第7話 花婿は失敗する
花が綻ぶ様なアリシアの笑顔を見たあとはどうにも落ち着かず、ヒューバートは宴の最中に落ち着きを取り戻すことを願っていた。
(駄目だ、全然落ち着かない)
アリシアをエスコートして退場するまではよかったが、いま侯爵邸を二人きりで歩いていることや、『この先』を意識するとヒューバートは落ち着くことが全くできなかった。
「若旦那様」
成人するまでは『坊ちゃま』、成人後は『ヒューバート様』と呼んでいた元乳母で家政婦長のマリサに『若旦那様』と呼ばれたことで、ヒューバートは戸惑いや羞恥が消えて自分がアリシアと結婚したことを強く意識した。
「妻の準備を頼む」
アリシアをマリサに預けると、ヒューバートは自分の部屋に入る。
握っていた手を開いて、手の平にびっしり汗をかいていたことにヒューバートは苦笑する。花嫁とは初めてだが、貴族の男として閨の作法は学んだし、長く婚約者だったアリシアには口が裂けても言えないが先輩商人に誘われて花街に行ったこともある。
(アリシアのほうがもっと不安だろう)
いま社交界にはアリシアを貶める噂が色々あるが、ヒューバートは全く信じていなかった。離れからすら碌に出ないアリシアの引き籠りっぷりを知っている自分としては、その事実無根さ加減に笑うしかなかった。
身支度を整えて、隣の部屋に続く内扉をノックするとアリシアの小さな声が応えた。
扉を開けると部屋の中央には顔に『どうしたらいいか分からない』と描いたアリシアがいて、ヒューバートはおかしく思うと同時に庇護欲をそそられた。
アリシアに近づき、アリシアの手をとる。
風呂上りのはずなのにアリシアの手は冷たく、その手が微かに震えていることからアリシアがここに覚悟を決めて立ってくれていることに心が温かくなる。同時に彼女を頭からぱくりと食べてしまいたいという衝動が湧くのだから、男というものはしょうがない生き物だと思いながらアリシアの手を握る手に力を込める。
アリシアがビクッと大きく震えた。
「君に触れる許可をくれないか?」
首を縦に振って体を寄せてくれたアリシアに、ヒューバートはずっと自分の腕の中で彼女には笑っていてほしいと強く思った。
「口付け……」
口付けの許可を取ろうとしたが、これからすること全てに許可を取るのも変だと思ってやめる。頬に触れていた手を顎に滑らせ、小さな顎に指を絡めて顔をあげさせ、朝露に濡れた花びらのように初々しい唇に唇を重ねた。
そこからは無我夢中だった。
戸惑い混じりの小さな甘い声も、自分の肩に刺さる爪の痛みも、ヒューバートの記憶には断片的にしか残っていない。
ヒューバートにはアリシアしか目には入らなかったし、アリシアの潤んだ瞳にもヒューバートしか映っていなかった。
翌朝は、まだ夜が明けたばかりの時間に扉をノックする音で始まった。
短時間の睡眠で事足りて寝起きもいいヒューバートにとって明け方のノックで起こされることはいつもなら苦ではない。しかし、今朝はまだ寝ていたかった。
(昨夜は夫婦の初夜だったのだから起きなくてもいいだろう)
起きない理由もあるし、腕の中で眠っているアリシアの温もりは離れがたいものだった。
(しかし……煩い)
気づかなかったことにしようにも、ノックの音がしつこい。
寝ているアリシアも身じろぎを繰り返して目を覚ましそうだったので、ヒューバートは無視することを諦めた。アリシアの枕になっていた腕をゆっくりと抜き、むき出しの肩に掛布をかけて静かにベッドから出る。
(無理をさせたか?)
身じろぎはするものの目覚めないアリシアに少し不安になりながら、ヒューバートは天蓋を下ろして、床に落ちていたガウンを拾う。扉を開ける前にもう一度ベッドを振り返り、天蓋の中が見えないことを確認して扉を開けた。
「煩い」
扉が開くなりの苦情にレイナード商会で副会長を務めるアランが申しわけなさそうな表情をしたが、それでも報告しようとする些か焦った姿にヒューバートは何かあったと察して執務室に場所を変えた。
「コールドウェル子爵が罠から抜け出しました」
「どうやって? アリシアの準備金として渡した金を使っても最低入札額に届かないはずだ」
「領地にある子爵家の別邸が二軒、我々の予想より遥かに高い価格で売れました。領主代理の仕業です」
「彼か……近頃動きがないから油断したな。作戦を練り直す、時間がない」
コールドウェル子爵の子はアリシアだけで、アリシアがヒューバートの嫁になれば直系はおらず、傍系の者が子爵の養子にならない限りは『継嗣なし』でコールドウェル子爵家は断絶する。
コールドウェル子爵という名前すらも残さない、これが自分を買ったコールドウェル子爵家へのヒューバートの復讐だった。
(しかし、その前にアリシアが男児を生んだら、その子がコールドウェル子爵位の継嗣となってしまう)
「やはり離縁して……」
「それはできない。離縁は……離縁は無理だ」
アランの言葉をヒューバートは即座に否定する。
昨夜自分の腕の中で、ヒューバートの顔を萌黄色の潤む瞳に映して微笑んでいたアリシアを思うと、一度アリシアと離縁して、子爵令嬢に戻ったアリシアを他の貴族の養女にして再び娶るという手間が惜しかった。
「仕方がない、子が生まれる前に片をつけよう」
「もう子が? それはやはり……いえ、何でもありません。馬車は用意してあります、直ぐに仕事に取り掛かりましょう」
***
「君たち、ずいぶん臭いけれどいつから風呂に入ってないわけ?」
商会に顔を出したステファンの言葉にヒューバートは首を傾げた。
「俺の結婚式が終わったらティルズ領に行くと言っていなかったか?」
「行ったよ。行って、お前の結婚式のあることないことを両親と弟たちに話して、その夜は酒を飲んで、次の日に帰ってきた」
ヒューバートはステファンの言葉に慌てて今日が何日かを訊ね、結婚式から三日たったことを知って顔を青くした。
家の者はヒューバートが帰ってこないことには慣れているし、ヒューバートもいちいち連絡しないで帰る直前に先触れを出すだけ。しかしアリシアはヒューバートのそんな習慣を知らない。
「新婚早々に五日間の外泊って、僕がお前の嫁なら実家に帰るな……仕事で、くらいは知っているよな?」
「分からない。何も言わずに出てきてしまったし」
「え……手紙も残さなかったの? 初夜だったのに?」
ヒューバートが頷くとステファンはこの世の終わりのような顔をした。
「お前、明日にでも離縁されるぞ」
『明日にでも』ではなく、とっくにアリシアが離縁を表明していたことを知ったのはヒューバートが屋敷に帰り、「アリシア様からです」と言って執事長のボッシュから離縁状を渡されたときだった。
「アリシアは?」
とにかく謝らなくてはいけない。
そう思ってアリシアの居場所をボッシュに尋ねたが「アリシア様は屋敷を出ていきました」と言われた上に「アリシア様が若旦那様に報告は必要ないとおっしゃったので報告しませんでした」と言われて唖然とする。
経験豊かなボッシュの普段の仕事振りからは信じられない発言だった。
「それでは、アリシアは子爵邸にいるのか?」
「存じません」
「存じないとは、どういうことだ?」
貴族の女性は移動に馬車を使うし、その馬車を自分で動かすわけはないから必ず御者がいるはずだ。
仮にアリシアが実家から馬車を呼んだとしても、迎えを呼ぶために子爵家に手紙を出したはずなのだ。
「アリシアはどうやって出ていった? まさか、彼女が歩いて出ていったとでも言うのか?」
ヒューバートの言葉にボッシュがため息を吐いた。
「門の傍に見知らぬ馬車がありました。おそらくアリシア様はその馬車に乗ってでていかれたのかと」
「まるで計画的に出ていったかのようだな。それに『おそらく』だと? アリシアがその馬車に乗るのを確かめなかったのか?」
「アリシア様がご自分で……」
「だから、それを見たのかと言っている」
ボッシュが視線をそらすと、ヒューバートはため息を吐いて他の使用人に指示を出した。
「子爵邸に人を送れ、まずはアリシアの無事を確かめろ!」
「お待ちください」
ヒューバートの指示に割り込んだのは家政婦長のマリサだった。
「もしかしたらアリシア様は最初からそのご予定だったのかもしれません」
「マリサ、また『もしかして』だぞ。それで、外出の予定? 結婚式の翌日に?」
「それは……会いに行ったのではありませんか?」
「会いに、誰に?」
「ア、アリシア様のお腹のお子様の父親です。私たちも知っております。アリシア様は若旦那様との結婚をする前に、他の男性との間に子を……」
最初はマリサの言うことが分からなかったが、ヒューバートはアリシアに関する噂を思い出して彼らの行動の理由が分かった。分かったが、理解できなかった。
「噂なんて不確かなものを理由にお前たちはアリシアを放り出したのか? とにかく急ぎ人を子爵邸に送れ。謝罪も言い訳も聞くのはそれからだ!」
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