第16話 襟を緩める
「お疲れですね」
ヒューバートからの先触れを持ってきた使者が帰ると直ぐにチャイムが鳴り、アリシアが覗き穴から見るとヒューバートが立っていた。
先触れの意味はあったのかとアリシアは呆れたがヒューバートの疲れ切った顔を見て何も言えなくなった。
「君に甘え過ぎているのは分かっているけれど限界で……すまないが、泊めてくれ」
リビングにあるカウチソファでいいというヒューバートにアリシアは苦笑する。
「侯爵邸に帰ったほうが疲れは取れますよ?」
窓際にあるカウチソファはすっかりヒューバート用のベッドになってしまったとアリシアは思う。
ヒューバートがこのアパルトマンに泊まることは侯爵家にも定着していて、朝になればヒューバートの着替えなどがここの一階に届けられる。
この『お泊り』をどれだけの人が知っていて、生温かく見守っているかと思うと気恥ずかしさしかない。
「ここにはカウチソファしかありませんわ」
「侯爵邸には君がいない」
「……卑怯です」
アリシアは赤い顔を背けたけれど、その頬にヒューバートが軽く口づける。
男女のそれよりも気軽な、家族の挨拶以外の意味はない軽い触れ合い。
「おやすみ」
そう言ってカウチソファに横たわったヒューバートは、一分ほどで寝息をたて始めた。
(ネクタイも緩めないまま)
すでに深夜の一時を回っている。
戦の兆候があることはヒューバートから聞いた、その可能性を見つけたのがパーシヴァルだということも。
「ありがとうございます」
アリシアは机の上にあるカトレアからの手紙に目を向ける。
手紙には領内に破落戸が増え、カトレアも襲撃を受けることが増えたとあった。
(レイナードの、水)
懇意にしている帝国の商人から帝国のあちこちがきな臭いとは聞いていた。
彼に「気をつけて」と言ったときのアリシアには他国のことだったが、自分や親しい人の近くにもきな臭さが近づいているらしい。
アリシアも変化に気づいていた。
アパルトマンの警備員は二人だったのが六人に増えているし、アパルトマンを出てから帰ってくるまでの間ずっとアリシアを守ってくれている護衛も確実に増えている。
(お隣の花屋さんも隣国に行っていた息子夫婦がしばらく同居すると言って、とても狭そうだもの)
「ん……」
ヒューバートが顔を顰めて襟元を手で探るから、アリシアはヒューバートの手を避けてネクタイを緩めたが途中で手が止まる。
(これって……)
誤解を招く行為ではないか。
開襟部分から見えた動く喉仏に男女の違いを大きく意識したアリシアは慌てて体を起こし、カウチソファの脇に置いてあったブランケットをバサッと大きな音を立ててヒューバートにかけた。
「寝惚けているのね、私も。一時だもの、そうよね。これだけ片づけたら、また寝ないとね、明日も早いしね」
言い訳のような、何かに言い聞かせるような妙な話し方のまま、ギクシャクとカウチソファに倒れ込む前にヒューバートが脱いだまま放置されていたスーツの上着を手に取る。
そのままコートフックの傍へ行き、一本だけ何もかかっていなかったハンガーを手に取ってスーツの上着をかける。
(これじゃあ、まるで……)
ヒューバートのために準備してあったとしか言いようがないブランケット、ハンガー。そして当たり前のように世話をやく自分。
(奥さん、みたいじゃない?)
「本当の妻だったときにはこんなことをしなかったけれど……」
***
目が覚めたヒューバートはすでに太陽が高い位置にあることに驚き、身支度をすませて「よく眠れましたか?」と笑いながらコーヒーを渡してくれるアリシアの姿に「いつの間に結婚したんだっけ?」と本気で悩んだ。
(いやいや、ないない)
寝坊を詫びながら体を起こす。
その拍子にいつもより大きな輪で首からぶら下がるネクタイに気づき、いつ緩めたか首を傾げながら、狭いカウチソファで凝り固まった体を伸ばして解した。
ボッシュがアパルトマンに届けてくれた服と新しいスーツに着替えて、レストルームで身支度を整えてリビングに戻ると優しいにおいがした。
「いいにおいだな」
「簡単なシチューですが、お食べになりますか?」
礼を言ったヒューバートをダイニングテーブルにつかせ、アリシアはキッチンに行って二人分の朝食の準備を始める。
洗顔して目は覚めているが、夢のようだとヒューバートは思った。
(気分が悪くなる話なんてしないで、この幸せを味わいたい)
「ヒューバート様」
「ん?」
「メリッサ様のことでしたら何も説明はいりませんわ」
「ぐっ」
意表を突くアリシアの言葉に喉が詰まり、咽るヒューバートにアリシアは「あらあら」と笑って水の入ったコップを渡してくれる。
「ヒューバート様がメリッサ様とまた会っている、そう教えてくれる親切な方がいまして」
「違う、押しかけられたんだ」
反射的に反論してしまったが、『分かっています』というように微笑むアリシアに肩の力が抜けて安堵の息が漏れ出る。
「午前中だけで二回、『息子』を連れてきた。ここ連日、朝から夜まで、多い日で五回もきた日がある」
「焦っていらっしゃるのでしょうか」
「だろうな」
この件についてはメリッサの独断だとヒューバートは読んでいる。
メリッサはヒューバートを手に入れる目的で訪ねてきているが、一昨日来た皇弟の指示を受けた者はヒューバートを殺そうとしていた。
「どうした?」
黙り込んで考え込むアリシアにヒューバートが尋ねると、アリシアは顔をあげたが口を開くのを躊躇った。こういう時、ヒューバートはアリシアが話してくれるまで気長に待つ。
アリシアは抑圧されて育ったため自分の意見を言うのに慣れていないが、慣れていないだけで自分の意見がないわけではないと分かっているからだ。
「その子どもはメリッサ様が生んだ子どもなのでしょうか。このままメリッサ様が捕えられたら……処罰を受けてしまうのでしょうか?」
(親の罪を子が負うのは理不尽……アリシアが放っておけないわけだな)
コールドウェル子爵に苦しめられたことを思い出しているのか、辛そうに顔を歪めたアリシアの手に自分の手を重ねてヒューバートは優しく撫でる。
「他国の皇族でも簒奪の共犯となれば相応の処罰を受けるのは仕方がない」
「でも……」
言いかけた言葉をアリシアは唇を噛んで堪える。
(俺ならなんとかできるはず、そう言ってもいいのに)
「アリシア」
ヒューバートは名前を呼んでこちらを向いたアリシアの唇を撫で、「強く噛み過ぎだ」と優しく嗜める。
「メリッサが子どもを生んだという記録はない。あの女は俺への愛を貫くために隠れて生んだからと言っているが、こうなったら好都合だ。あの子どもはあの女が帝国で拾った浮浪児とする……俺の勘だが、それは間違っていないはずだ」
ヒューバート自身はメリッサと子どもに会っていないが、ヒューバートの目の代わりとなる者たちが何人もメリッサと子どもを観察している。
(使用人を置物と思っている貴族が多いと聞いていたが)
使用人とはいえ他人の目の前で「どうにかしなさいよ」と子どもに怒鳴り、ときに「汚い」と言って子どもの頬を張ることもあるという。メリッサは子どもの母親ではない、それが彼らの一致した意見だった。
「子どもに本当の家族がいるならそちらに返すが、孤児またはそれに類する子どもならばこの国で生きていける道を国に用意してもらう」
「ヒューバート様の子を騙った罪は?」
ノーザン王国の法では「貴族の子を騙った場合は例外なく死罪」となっていて、母親がそう主張して連れていた子も「積極的に関与した」とみなされて処刑された事例も少なからずある。
「貴族の子を騙って『混乱を招いた』場合は罪になるが、俺の子ではないと分かっているから俺もレイナードも微塵も混乱していない、だからそんな罪はない」
「ヒューバート様のそういうところ、とても好きですわ」
あまりに自然に『好き』と言われたので、アリシアがヒューバートの頬に口づけるまでヒューバートは呆然としていた。
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