第10話 母は教育する
「レイナード侯爵、デイム・アリシア。本日は当家の催しに参加してくださり、ありがとうございます」
親しき中にも礼儀は必要だが、親友の畏まった貴公子姿は普段のギャップと相まっていつもヒューバートの口の端を震わせる。
「本日のドレス姿はいつも以上にお美しいですね。このあと母のところに?」
ステファンの問いにアリシアが頷いて答えると、ステファンは『困った』という顔をしてみせる。
「恥を忍んでお願いします、今日は母の傍にいかないでください。母のために『ミセス・クロース』のドレスを誂えたため今月は懐が寂しいのです」
お道化るステファンの言葉にアリシアが声をあげて笑い、髪が揺れてちらちら見える項に数人の男が鼻の下を伸ばすから、ヒューバートは立ち位置を変える。
そして顔だけ後ろを見て男たちを睨めば、ステファンの父親であるティルズ公爵と目が合った。
「余裕がないねえ」
「嫉妬深い性質なので」
意識するより先に出た素直な言葉にヒューバート自身が驚き、その驚きが少しだけ公爵の意表を突いたようだった。そんな公爵の腕を隣の公爵夫人が叩く。
「今夜はお祝いね。アリシア、今日は来てくれてありがとう」
「お招きありがとうございます、公爵夫人」
「そんな他人行儀では悲しいわ。貴女のことを私は娘のように思っているのよ。本当の娘にできないのは残念だけど、仕方がないから未来の義娘に期待するわ」
公爵夫人の言葉に遠回しに結婚を急かされたステファンが「ははは」と笑う。実にわざとらしい。
(『本当の娘』か。アリシアを養子に迎えようとしていたみたいだな)
周囲の貴族たちが驚いた顔でアリシアと公爵夫人を見比べている。
王族の傍系である公爵家が養子として迎えたかった、それはアリシアのことを王家も認めているという意味であり、アリシアに害をなすなら『爵位を賭けて挑め』という意味だ。
(相当気に入られているな)
アリシアが力の強い貴婦人に認められることは良いことだと思うが、ヒューバートとしてはアリシアが公女にならなくて良かったと思った。
平民ほどではないが、政治的バランスをみて公女となったアリシアがレイナード侯爵家になるのも些か面倒が多い。
(それを分からない公爵夫人ではないはずだが)
ヒューバートとティルズ公爵夫人の目が合った。
その目に宿った冷たい炎にヒューバートの背筋が反射的に伸びる。
「お友だちからレイナード侯爵がメリッサ夫人とレストランで食事をしていたと聞いたのだけれど、本当かしら?」
(お仕置きか!)
「ははは、十割捏造の事実無根の嘘ですよ」
ヒューバートをジッと見る公爵夫人の目は本気で、『それだけで十分な説明だとでも?』と言っていた。カトレアと違う意味で恐いとヒューバートは思った。
「部下とのランチミーティング中に乱入されましてね」
ヒューバートは毎月決まった日、同じ場所でランチミーティングを行っている。そのことはある程度有名なのでメリッサが乱入できたのだとヒューバートは思っている。
「あら、二人きりで随分と長くお話されたと聞いていますよ」
「彼女の連れの男性が帝国の方でして、身分も分からなかったので失礼があってはいけないと部下は全員出しましたが護衛騎士は一緒にいましたよ。しかも一緒にいたのは五分以下、私は彼女にイスさえ勧めていませんよ」
「なるほど、帝国の方は穏やかな性格が大らかだから短い時間も長く楽しめるのね」
(噂を流しているのは帝国の者と……メリッサ本人か)
視界の端にメリッサが映り、公爵夫妻の異様な警戒が分かった。隣でメリッサをエスコートしているのは、メリッサが乱入したのを手助けした男だった。
「あの方はどなたですか?」
「帝国の財務大臣の、妻の従姉弟の嫁の兄だったかな。とりあえず親戚だよ」
「最近の親戚の定義は広いですね。最近私にも親戚ができまして。祖父の従兄弟の嫁の兄の嫁の妹の娘なのですが」
「それで親戚なら、私には近隣各国の王族に親戚がいることになるね」
公爵は笑っているが公爵夫人はまだ笑わない。
そのことがヒューバートはひたすら怖かった。
「幼馴染では、恋仲だったという噂もあるけれど?」
「『私と遊べばお金をあげる』などと言う幼女との縁などありませんよ。成長してからは私を傍に侍らせようとくっ付いてきましたから、それをどなたかが勘違いなさったのでしょう。それで『恋仲』ならば商会の建物にいるメスの三毛猫とも恋仲になりますね、私を見るたびにすり寄ってきますから」
ヒューバートの言葉にようやく公爵夫人が笑ってくれた。
ヒューバートは心底安堵した。
「ごめんなさいね、神経質になって。恋は戦いだから知略謀略は当たり前なのだけれど、さっきお友だちと話したのよ、大事な子の恋路はできるだけ平らに均しておきたいわねって。もう、みんな随分とやる気に満ち溢れているの。邪魔な石は退けたほうがいいかしら、それとも埋めたほうがいいかしら?」
夫人の口調は春の日差しのように朗らかだが、国外退去か暗殺かと内容は殺伐している。
とにかくメリッサが『ミセス・クロース』ファンのご夫人たちの要注意リストに入ったことは分かった。
***
「アデライド、とりあえずは満足かい?」
「旦那様」
ティルズ公爵夫人の仮面を外したアデライドは夫からワイングラスを受けとり、今夜は少し熱が入り過ぎてしまったと反省しながら腰の辺りをそっと撫でた。
アデライドはステファンたち三人の息子を産んだが、最後の出産のときに骨盤と筋組織を傷めてしまったことが原因で尿意が近くなってしまい社交に苦労していた。
貴族女性の社交は華やかだが厳しい世界でもある。
元王女の公爵夫人ともなれば挨拶に来るものも多く、トイレに行くこともできないまま茶や酒を楽しまなければならない。
重いドレスを身にまとい、同じ姿勢のまま何時間も過ごせば腰の痛みで翌日立てなくなることもあり、水分摂取を最低限にすれば脱水症状で体調を崩すこともあった。
アデライドのこの苦しみは夫だけが知っていて、三人の息子も知らない。
尿意が近いなど知られることは、たとえ息子でも恥ずかしかった。
アリシアがアデライドの異常に気づいたのは、ドレスを作るために採寸していたときだったとアデライドは思っている。周囲に秘密にしていることなのでアデライドは『いつ』と聞いたこともないし、『いつ』とアリシアが言ったことはない。
ただ少し学びたいことがあるから、ドレスの完成を待ってほしいとアリシアには言われた。
当時アデライドはドレスが一層素晴らしくなるならと待つことを受けいれたが、その間にアリシアはヒューバートを介してノーザン王立学院の医学部の教授と共に姿勢を矯正する下着を作った。
普段からコルセットを身に着ける貴族女性は矯正下着への抵抗が低く、『ミセス・クロース』から出た『姿勢をよくする下着』は貴族夫人の間で人気が出た。
––お待たせいたしました。
後日そう言ってアリシアから納められたドレスには、待たせた詫びとして『姿勢をよくする下着』が七枚入っていた。
最初はアデライドも「姿勢がよくなる」程度にしか思っていなかったが、ある茶会に出たときに尿意を感じる間隔が長くなっていることに気づいた。後から分かったことだが、日頃の社交で骨盤も筋力もある程度改善されていたことが幸いして骨盤への変化はすぐに訪れたようだった。
「あの子はね、私たちの救世主なの」
アデライドは『ミセス・クロース』を訪れ、人払いした部屋でアリシアに感謝を伝えた。
そのときアリシアは「実は私も大変だったのです」と言ってくれて、アデライドは自分が何よりも欲しかったのは『理解』だと分かったのだ。
「そのあとだったね、君が僕に話してくれたのは」
「あの子が私に勇気をくれたの。それに、旦那様は理解のある方だと信じていましたから」
妻にいつまでも美しくいてほしいと思うことは罪ではない。
ただ出産は命がけだとは知られているが、その後の母体となった体の苦労は知られていない。
母になることを義務としているのにそれは無情だとアデライドは思っている。
『ミセス・クロース』の下着を美容のためと思っているのは若い令嬢や男だけ。
母となったものはあれの真価を全員理解し、それが絆となっている。
「とりあえず今は准爵だが、もう少しすれば男爵に推薦できるだろう」
アリシアが作った『姿勢がよくなる下着』はもちろん、コルセットを使わずに着られるドレスを娘の嫁入り道具とする風習が生まれつつある。
アリシアが初めて王城に呼ばれたのも、王女の新作ドレスの製作という名目だったが、実際は嫁にいく王女にこれらを持たせたいという王妃からの招待だった。
「男爵に推薦される『理由』を詮索されないよう、それより先に侯爵夫人になっていてくれればいいけれど」
「一応釘は刺したけれどね、うちを敵に回すのはよほどの愚か者だろう」
「釘に気づかないから愚か者と言うのですわ。そのときは母たちがきっちり躾けてさしあげましょう」
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