第12話 バスマットをやめる
環境の変化と精神的な疲労によりアリシアの風邪はなかなか治りにくく、家事と育児にアリシアが困っているとカトレアに『テランのメイド』を紹介された。
テランのメイドは利用者の希望に合わせて専門的な教育を受けた使用人を派遣してくれるサービス。手頃な価格で利用できるので平民にも人気がある。
やってきた家政婦はリュシカと名乗った。
今日も朝から彼女はリビングとキッチンを動き回り、遅く起きたアリシアはソファに座ってその様子を眺めていた。
「ミロ様とプリム様がいらっしゃいました。お坊ちゃまはミロ様と公園に、プリム様は水回りの工事に立ち会うため午前中はお店に、昼頃に皆様こちらに戻るそうです。昼食までできておりますが、他にご用件はありますか?」
今日の昼までの五日間の契約、最後までリュシカはよく働いてくれる。
「何もありません。ありがとうございました、ご飯が美味しかったです」
「こちらこそ楽しく仕事をさせていただきました。今後もお困りの際はテランのメイドをご利用ください」
リュシカが去って部屋に一人になると、アリシアは大きく体を伸ばした。五日間ほとんど寝ていたので体が強張っている。
ヒューバートは屋敷の使用人をアパルトマンに寄越そうとしたが、アリシアが気後れすると止めたカトレアは正しかった。
他人に頼むことをアリシアは甘えと考えがちで、もっと頼れとプリムにも叱られる始末なのだ。
(カトレア様みたいに私も上手に人に頼れたらいいのだけれど)
ヒューバートが聞いたら「あれは頼るではなく使うだ」と文句を言っただろうが、アリシアはカトレアの強さに憧れていた。
人に頼れるということは、その人を信じられると強さがあると思っているからだ。
「私は、何をしようかしら」
プリムを信じるなら店に行くべきではない。家事はあまり好きではないので掃除や洗濯を必要以上にやりたいとは思えないし、時間をかけて作る料理は思いつかない。
「何もしないのは落ち着かないし」
――どうして?
頭に浮かんだ問いに戸惑う。
真っ先に浮かんだのはパーシヴァルのことだが、パーシヴァルにはもう自分しかいないわけではない。
いまもミロが遊び相手を務めてくれているし、おそらくその指示をミロに出したのはヒューバートやカトレアだ。
辺境の街を出てからヒューバートの持つ色々な面を見せられ、かつて見ていたほんの一部で知った気になっていたことに気づいた。
パーシヴァルといるときの父親の顔、カトレアといるときの息子の顔、そしてアリシアに向ける男の顔。
(あんなに甘い人だったとは……果物も買ってきてくれたし)
あの日、カトレアたちとの食事が終わる頃にヒューバートがアパルトマンに来た。
遅いと咎めたカトレアにヒューバートが答えた理由は仕事ではなく、アリシアたちの好きな果物が分からず悩んで時間がかかったというものだった。
結局、散々悩んでありふれた林檎に落ち着いたらしい。人任せにしたくなかったヒューバートの不器用さをカトレアとミロは笑っていた。
(誠実さを見せてくれる人を信じきれない自分が嫌だわ)
アリシアは他人の好意を受け入れることに慣れていない。
その欠点を私生児を言い訳にして改善していなかったことにアリシアは気づく。
「自分の卑屈さを正当化していたなんて、最低だわ……」
自分のために行動したことはあっただろうか。
そう考えてアリシアは一度だけ自分のことだけを考えたときのこと、レイナード邸から逃げてどこか遠くに行こうと決めたときのことを思い出した。
あのときだけはヒューバートの花嫁とか、パーシヴァルの母親という肩書も何もなくアリシアは自由だった。
(すぐに警ら隊の目を気にするようになったけれど)
「シャワーで汗を流してスッキリしてこよう」
何かを掴みかけているのに、掴み取れない。
そんなモヤモヤした気持ちをスッキリさせたくてシャワーを浴びたのだが、どこか上の空だったのだろう。バスルームを出たところで、アリシアはいつものところにバスマットが敷いていないことに気づいた。
「あるものだと思っていたから……」
なんでシャワーを浴びる前に気づかなかったのか。
いつもみたいにここを踏んだときに違和感がなかったのか。
自問自答したアリシアはふと気づく。
「自己主張がないのがいけないのだわ」
実際バスマットに妙な自己主張があっても嫌なのだが、渦巻くアリシアの思考は混沌としていて考えが明後日の方向に向かう。
「そこに在って当然と思われたら価値には気づかないわよ。踏まれたら痛いんだって、嫌なんだって言わなきゃ」
本当にバスマットが声を発したらどうするのか。
このアリシアをヒューバートが見たらまた酔っているだろうと思われたに違いない。でも幸か不幸かヒューバートはおらず、アリシアの思考を止める者は誰もいない。
「なくなって初めてその価値を分かってもらえるなんて……それじゃあ惨めじゃない」
零れた言葉がストンとアリシアの胸の奥に落ち着いた。
ヒューバートと再会したときからずっとグラグラ揺れていたのが嘘のように胸の中が一気に凪ぐ。
「私は惨めでも……ましてや、可哀そうでもない」
惨めだったかもしれないし、可愛そうだったかもしれないけれど、アリシアはいまの自分に満足しているのだ。
愛しいパーシヴァルがいて、プリムという信頼できる仕事仲間もいる。
惨めな『私生児』にも、可哀そうな『七日間の花嫁』にもいなかった大切な存在がいる。
(私はもう踏みつけられることを我慢なんてしたくない)
「きっと踏みつけたことなど気づいていらっしゃらないでしょうね」
いつもそう、踏みつけたほうは簡単に忘れてしまう。でも踏みつけられたほうは忘れられない。
「私と一緒にお茶を飲むとき、あの方が見ていたのは目の前の私ではなく子爵だった。領官代理の目を通してそれを知るたび、私はあの方にとって無価値だと思い知らされた気がしたの」
アリシアは濡れた足のまま、いつもバスマットのあるところに立つ。
あっという間に足元には水たまりができて濡らしてしまった罪悪感がわく。
こうやって、実際に無い状態にならないとその存在の価値も、申しわけないという気持ちもわいてこない。
「初夜の床に私を一人残してあの方は仕事に行ってしまった。伝言も、手紙すらも残すことなく。それもきっと、私ならそれを許すと思ったからかしら」
アリシアは小さく笑う。
「でも一番悪いのは、そうされても怒らないと思われる態度をしていた私。そして本当に怒らなかった私」
我慢を美徳にして、踏みつけられても面倒を嫌って怒ることはしなかった。
嫌だったなら嫌だったと怒ればよかったとアリシアも反省する。
「私生児だと蔑まれることに怒ればよかった」
アリシアがなろうとして私生児になったわけではないのだから、その扱いは不当だと怒る権利がアリシアにはあった。
子爵を軽蔑しろと言い返せばよかった。
「婚約だって子爵と前侯爵様が決めたこと、文句ならば二人に言ってほしいと怒ればよかったのだわ。そもそも借金を膨らませたのは前侯爵様だし、さらに言えば貴族なんだから結婚相手をお金や地位で選ぶなんて普通のことだわ。私で憂さ晴らししていたのよ」
資金援助でも後ろ盾でも、何かしらの利益や旨味があるのが政略結婚であるし、政略結婚は貴族社会では一般的である。それなのになぜアリシアの政略結婚だけ哂われたのか。
それは自分が不本意な政略結婚をさせられることへの怒りをぶつける相手を探していて、アリシアがそれに丁度よかっただけに過ぎない。
「もう我慢はしないわ」
少しだけ自分のために生きてみようという気持ちがアリシアの中にわき始める。
パーシヴァルのためだけでなく、パーシヴァルと自分の納得のいく未来を掴むため。
「一生懸命考えるわ。時間がかかっても、私が幸せだと思える未来のために」
時間をかけて納得のいく形を見つけたい、それでいいと思える自分がアリシアは誇らしかった。
読んでくださり、ありがとうございました。感想をお待ちしています。
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