第8話 我を失う
長めです。
「ヴァルは大丈夫でしょうか。近くで馬を見ることも初めてなのですが」
「心配ない、セロシアは気の優しい穏やかな馬だ。それに周りにいる騎士たちはセロシアが暴れても抑えられる」
「馬が暴れることがあるのですか?」
「いや……脇から狼が出てきて吃驚するとか、ここでは滅多にない例え話だ。不安になるようなことを言ってすまない」
ヒューバートの言葉では完全に安心できないのか、アリシアの目はパーシヴァルとその傍で笑っているステファンから離れない。そんなアリシアの姿に、ヒューバートの中の嫉妬が大きくなる。
「そろそろ見るのをやめないか? 視線を感じて馬もパーシヴァルも緊張してしまう」
「あっ! 気がつかずに申しわけありません」
彼女の視線を窓の外から自分に向けたくて言った適当なことにアリシアが恐縮すると、ヒューバートは自己嫌悪に陥る。
「さ、寒くないか?ひざ掛けなら……」
「いいえ、大丈夫です。何もしないでいるのも落ち着かないので刺繍でもしていますね」
アリシアは隣に置いてあったバッグから仕掛かりの刺繍を取り出し、針を動かし始める。話しかけると今度は自分が彼女の邪魔になるとヒューバートも仕事に戻る。
(パーシヴァルがいてくれれば……)
馬車の中のギスギスした雰囲気は自分のせいだとヒューバートも自覚していたが、恋情で燃える嫉妬の炎の消し方など分からず、消えるどころか些細なことで火の勢いが強くなる。
(このまま王都に着いたら二人と一緒にいる理由がなくなる。パーシヴァルは息子だからこれからも会えるだろうが……)
誤解や行き違いだとしてもアリシアからすれば見捨てられたと同じで、アリシアが「会わない」という選択をしても仕方がないとヒューバートも頭では分かっている。
しかし自分を警戒しているアリシアがステファンには気を許しているようで、その姿を見るとヒューバートは冷静ではいられない。
恋をろくに経験していないヒューバートは嫉妬と焦りに振り回されて感情が制御しきれていなかった。ここに恋愛の経験が豊富なステファンがいれば的確なアドバイスがもらえたかもしれないが、ステファンはいないし、ヒューバートの嫉妬の対象でもある。
(何か話題を―――なんでもいいから)
気まずい緊張感を解消したくてヒューバートは話題を探したが、仕事以外の趣味もなく、社交も最低限しかしてこなかったので話題が思い浮かばない。女性が好みそうな話題となると皆目見当もつかなかった。
(こんなことならミシェルともっと会話しておけば……)
「そろそろ休憩場につきます」
外から掛けられた騎士の声にヒューバートはハッとする。悶々としている間にかなり時間がたっていたようだ。アリシアを放置する形になってしまったが、彼女はヒューバートのジレンマなど一切興味がないのか刺繍針を規則的に動かしている。
(王都に着いた『先』を考えているのは俺だけか?)
ジリッと胸が焦げ、アリシアの手元を見てそこにあるティルズ公爵家の家紋に嫉妬の炎が燃え上がる。「やめろ」と頭の奥から自分の声が響いた気がしたが、嫉妬で理性が燃えてヒューバートの口が勝手に動く。
「ステファンに、か?」
「ヴァルが公子様のお世話になっているのでお礼にと……侯爵様?」
(……やっと俺を見た)
萌黄色の瞳に自分の顔が映ったことにヒューバートの気分は少しよくなったが、戸惑いと緊張で強張るアリシアの目に自分がいつもと違う顔をしていることに気づく。
気づいてもどこか他人事で、ヒューバートは自分を止められなかった。
「せっかくなのだから、赤色の刺繍にすればよかったのに」
「……せっかく、とは?」
「ステファンは独身だ。こうして縁もできたし、君のような美人に好意を寄せられて嬉しくない男はいないさ」
まるでステファンとの再婚を勧めているような言葉。
それに気づいたらしい、アリシアの目が大きく見開かれたあと、スッと温度を失くす。
「私は誰とも再婚する気はありませんわ」
「そうか、ミセス・クロースだったな。もう服と結婚しているということか」
ヒューバートの喉の奥から嗤いが漏れる。自分でも驚くくらい冷酷な声に、奥から響く『やめろ』と言う声が叫びに変わる。
「しかし君にも寂しい夜があるだろう? そんなとき服が君を慰めてくれるか? 服は君を包むことはできるが、温もりを与えてくれることはないだろう?」
瞬く間に理性が頭の中を後悔一色に染める。
ここでアリシアが同意したらどうするのか。
したくもない想像がヒューバートの頭に浮かんでは消えていく。
「寂しさを公子様で埋めろ、と?」
アリシアの硬質な声にヒューバートは顔を向けることができなかった。
このときアリシアの顔を見ていれば、強く唇を噛むアリシアの瞳が哀しみがあったことにヒューバートは気づけただろう。
「お気遣いありがとうございます。でも私の『これから』に侯爵様は一切関係ありませんから、余計なお世話は結構です」
***
先に到着していた休憩地でパーシヴァルと共に愛馬を労っていたステファンは、停まった馬車から降りてきたアリシアの様子に驚く。
(なんか、めちゃくちゃ怒っていないか?)
駆け寄ってきたパーシヴァルを抱きしめるアリシアは微笑んでいるが、全身から怒りのオーラが吹き出ている。
女性経験が豊富なステファンはヒューバートが何か失言したのだと察した。
「ヴァル君、セロシア号へのご褒美の続きをお願いできるかな?」
「任せて。お母さんも一緒にセロシアに角砂糖をあげよう」
パーシヴァルがアリシアを馬のほうに連れていくのを見送って、アリシアが離れたことでようやく馬車から降りられたヒューバートに目を向ける。表面はいつも通りでもヒューバートの目は死んでいる。
「ヴァル君を引き受けて馬車に二人きりにしたのに、どうして険悪になるんだ? 何を言ってアリシア嬢をあんなに怒らせたの?」
「……言いたくない」
スッと目をそらしたヒューバートの姿に、自分に嫉妬して見当違いのことを言ったのだとステファンは察した。そして呆れた。
「君、時間がないこと分かっている? 一気に距離を詰めなきゃいけないところを、どうして逆向きに全力疾走するのか」
「……完全に間違えた」
「金儲けばかりしていないで、女性とお付き合いもしておくべきだったね」
ステファンは少し離れたところにいるアリシア母子を見た。
初めての乗馬に興奮し、矢継ぎ早にセロシア号のすばらしさを語るパーシヴァルをアリシアは優しい目で見つめている。
(もう少しセロシアに乗せてあげようと思ったけれど)
「ステファン……パーシヴァルを返してくれ。次の街まであと少しとはいえ、いま彼女と二人きりは耐えられない」
(……だよねえ)
「分かったよ。とにかく急いで謝ってこい。それで、何か口実を探して彼女を食事に誘え」
「は?」
「君たちの場合は段階を踏んだほうがいい気がする。糸布の街でデートしたんだから、次は食事だ。中央公園の傍にお勧めの店があるから、豚肉の臓物煮と赤ワインが美味しい。酒を飲んで、話をして、いいムードで……駆け足で頑張れ。ヴァル君は僕が引き受けてやる」
「赤ワインはちょっと……」
ステファンはヒューバートが赤ワインを飲まないことを思い出したが、「そこじゃない」とステファンは頭を振る。
「白でもいいから! 酒の種類なんて重要じゃないから! 分かっているか、今夜がラストチャンスなんだぞ!? 明日の夕方には王都だからな! 『さようなら』だからな!」
「お別れとか、さようならとか、あんまり不吉なことは言わないでほしい」
(駄目だ、すっかり弱気になってる)
項垂れるヒューバートをステファンは一人その場に残し、愛馬が角砂糖を食むたびに感嘆の声をあげる母子の元に向かったステファンは手際よくパーシヴァルだけを誘い出した。
***
(虫捕りだなんて、どうして男の子って虫が好きなのかしら)
理解できないと首を横に振っていると、ヒューバートがこちらに向かって歩いてきていることにアリシアは気づいた。
(……謝るときのパーシヴァルと同じ顔だわ)
愛する息子と同じ顔をしたヒューバートに怒りを抱き続けることは難しいとアリシアは思った。
「先ほどはすまなかった。昨夜はよく眠れなくて、それで君に八つ当たりのような真似をしてしまった。あと……君に相談したいこともあったし」
「相談、ですか?」
謝罪は想像していたが、ヒューバートから相談されるとは想像していなかった。
その驚きを拒絶と誤解したらしいヒューバートが「もちろん断ってくれても構わない」と慌てて付け足す。
「いえ……すみません。侯爵様から相談されるなんて考えてもいなくて。何でしょうか?」
「実はミセス・クロースに頼みたいことがあるんだ」
ヒューバートの言葉に「レイナード侯爵がミセス・クロースを探している」という話を思い出した。それがヒューバートの街に来る少し前の話だから、てっきりミセス・クロースがアリシアだと知っていて探していたのだと思っていた。
(本当に相談があったのね)
ミセス・クロースへの依頼は順番待ちをしてもらっている状態だが、いま自分はヒューバートの時間と力を借りているのだと思ったアリシアはヒューバートからの相談を優先させることにした。
「それで……できれば二人で話がしたい」
「分かりましたわ」
アリシアが了承すると、ヒューバートが「え?」と驚く声を上げた。
ヒューバートはアリシアが二人きりになることを了承するとは思っていなかったようだが、ミセス・クロースは依頼主の秘密を守ることを信条としている。
「それでは話は宿で……」
「それなのだが、良ければ夕飯を外で食べないか? パーシヴァルならステファンがみていてくれると言うし、ミロたちもいるから」
(デートの次は食事、まるで恋人みたい……いいえ、そうじゃなくて)
アリシアは首を横に振って、ヒューバートに了承の返事をした。
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