5.なろうエッセイ・批判系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)
なろうエッセイに書かれた感想について、別の場所で批判的なコメントをするのはいかがなものか。――感想欄で真正面から殴り合うのが礼儀では?
2021年9月12日 タイトル修正:なろうエッセイで書かれた感想…… → なろうエッセイに書かれた感想……
なんか最近、なろうエッセイの感想欄で、感想返信では言いたいことを言わずに言葉を濁しておいて、ツイッターや活動報告等で色々と言いたいことを言う人を良く見るようになったような気がします。
……あれ、見るたびに、結構本気で思うのです。「わざわざ場所を変えなくても、感想返信で言い返せばいいじゃないか」と。
まあ、「これが小説の感想欄なら」感想欄で議論したくないと思うのはわかりますし、他の場所で一言言いたくなる気持ちもわかります。
でも、なろうエッセイはどうでしょう。何かを主張したのなら反論が来るのは自然なことですし、望ましいことでもあると思います。そして、なろうエッセイの感想欄が反論を書いたり議論をする場所として機能するのもまた、自然なことだと思います。
……と言うか、なろうエッセイのような自己主張って、不特定多数への問いかけという性質を併せ持つと思います。「私はこう思うけどあなたはどう思いますか?」と広く問いかけるみたいな感じです。で、その主張に同意する人は「そうだね」と書くし、違うと思う人は「違うのでは」と書く。それが普通だと思います。
異論、反論の類がいらないのなら、感想欄を閉じればいいだけです。感想欄を開いておいて、肯定的な意見はほしいけど反論や異論はいらないなんて、普通は考えないと思います。肯定的な意見は欲しいから感想欄は開ける。だけど異論や反論はいらないというのは、良識が欠如していると思います。
ましてや、相手との対話そのものを否定しておきながら、別の場所に自身とその賛同者で集まって相手を貶める行為は、非難に値すると思います。
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小説の感想欄は、野球の観客席みたいな感じはあると思います。こう、観戦するための場所であると同時に応援するための場所でもある、みたいな感じでしょうか。
読者は、どれだけ真剣に小説を読んで感想を書き込んでも、創作に参加したことにはなりません。作者が求めない限り、どこまで行っても「ただの観客」です。だから小説の感想欄も「好きな人たちが応援して盛り上がるための場所」としてもいいと思います。
まあ、観客も「好きだからこそ細部に物申したくなる」ということもあると思いますし、それを求める作者もいると思います。それを悪いことだと言うつもりもありません。ただ、それを受け付けるかどうかは作者の裁量です。作者は、求めてもいない読者の「細部への物申し」を聞く義務はないと思います。
……まあ、「現実問題として嘘になる」表現に対しては、何か対処をした方が望ましいとも思いますが。
実際、過去に私は、司馬遼太郎著「燃えよ剣」を読んで「斎藤一諾斎は斎藤一の雅号(創作なので真偽は不明)」という形で騙されたことがありますからね。……「燃えよ剣」はフィクションだから、斎藤一が「諾斎」を名乗ったというのも創作かもしれないとは思いました。でもまさか、「斎藤一」とは別に「斎藤一諾斎」という人が実在してたなんて、なかなか思えないじゃないですか。いや、知った時は本気で思いましたよ。――「斎藤一諾斎、実在したのかよ!」と。
やっぱりね、実在の人間二人を合体させて一人の人間にするような場合はね、そのことをどこかに注意書きしてほしいかなと、そう思うのです。……まあ、司馬遼太郎本人も間違えて書いたみたいですが。
と、少し話がそれてしまいましたが。まあ、なんだかんだ言っても、小説はフィクションです。現実と違っててもいけない訳じゃない。斎藤一諾斎のような場合は一言、「斎藤一諾斎はあります!」と書いてくれると親切だなと思いますが、そういった記載が無くて騙されたとしても、(正直くやしいのですが)それは読者の責任だと思います。
……でも、なろうエッセイの感想欄は、観客席とはちょっと違うよねと。あれは、どちらかというと、「発言自由な議場」に近いと思います。
なろうエッセイで間違ったことを書いたら、少なくともその間違いを明確にする責任が、作者にはあるはずです。嘘偽りを主張するのは無責任ですし、それが作者の意図しない間違いだったとしても、放置するのはやはり無責任でしょう。
間違ったことを言っておいて「発言は自由だ」とか「批判はよくない」とか言うのは甘えだと思います。出来る限り正しくあろうとしなくてはいけない、何かを主張するとはそういうことだと思います。
そして、自己主張には異論もつきものです。自分の立場では納得できることでも、別の立場になれば受け入れられない、そういったことも多々あると思います。そういったことを全て「自分と考え方が違うから」と言って書きこむこと自体を拒絶するのも、やはり無責任だと思います。
異論や反論を肯定する義務は無いと思います。ぶっちゃけ、その意見がアホだと思うのならそう思えばいいのかなと。ですが、そういった主張に対して、自分の見解を明確にする必要はあると思います。
主張を世に放つということは、自分の考えの是非を世に問うということです。間違っていれば批判されるし、違う考えを持つ人には異論をぶつけられる。それは前提条件で、受け入れる必要があることだと思います。
そしてそれは、批判や異論を書く側にも言えることです。間違っていれば批判されるし、異論が返ってくることもある。批判する側もされる側も対等で、双方に発言の責任がついて回ることになると思います。
そう考えると、なろうエッセイの感想欄は、観客席というよりは戦場ではないかなと。「それ、違うだろ」「いいや、違うのはそっちだ」と、そんな殺伐とした言葉が行ったり来たりするのが当たり前で大切な場所だと、そう思います。
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なろうエッセイは、感想欄に書かれた読者の反論や指摘まで含めて一つのコンテンツ、もしくは資料だと思います。ある意見に対してどれだけの賛同意見や反対意見があるのか。感想欄のやり取りを加味して真偽を判断する人は多いと思います。
だから、読者からの反論や異論に作者がしっかりと見解を述べていけば、それはエッセイ自体の価値を高めることにつながりますし、自身の主張に対し説得力を持たせることにもつながります。
反論や異論から逃げたなろうエッセイなんて、何の価値もないと思います。
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相手の言い分が気に食わないからと言って、別の場所に移動して言いたいことを言うなんて、そんな面倒なことをする必要は無いと思います。堂々とその場で返事をすれば良いのかなと。「お前はアホだ」、そう思ったのなら堂々と「お前はアホだ」と相手に伝えればいいのです。その結果、戦争が起こるかもしれませんが、自己主張には戦争がつきものです。恋人、家族、国家、SNS、自己主張の先に待っているのはだいたい戦争です。
と、言うかですね。多分何か勘違いをしている人がいると思うのですが、すぐに見つかるようなところで人を貶せば、それは陰口にすらなっていない、ただの挑発行為です。そんなことをすれば、感想欄がさらに過熱するのは当たり前だと思います。
……まあ、「お前はアホだ」と思っても直接相手に言えないと感じる方が普通だとも思いますが。でも、それなら、別の場所で「あいつはアホだ」と言って盛り上がるのも避けた方が良いと思います。
というか、「お前はアホだ」と思った理由を相手にぶつけないのが問題なのです。その理由を考えて、一つ一つ丁寧に言葉にしていけば、それなりの意見になるはずです。そして、そういう言葉があれば大抵の場合、「お前はアホだ」という言葉は不要になります。
反対意見が「お前はアホだ」になるのなら、それは単に、言葉が足りないだけの場合が多いのです。ちゃんと言葉にすれば相手も何かを考えるし、その様子を見ている第三者にも、より多くのことが伝わると思います。
その上で、「お前はアホだ」と正直に伝えるのが礼儀だと思うのなら戦争を始めればいいし、戦争は避けるのが礼儀だと思うのなら避ければ良い、たったそれだけのことだと思います。
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ただまあ、アレですね。仲間うちで盛り上がるためにそういうことをする人って、どうなんでしょうね。ほら、いるじゃないですか。自分と異なる意見を大々的にツイッターとかで宣伝をして、人を指さして盛り上がってる人たちが。
大勢で言いたいことを言って、よってたかって相手を嗤う。知名度を利用して自分の方が正しいと思う人を集めて、数の力で正しさを演出する。正しいと思わない人はその騒ぎをスルーして無言を貫き、だけど人間関係は維持し続けて、いつでも自分が正しい側に立てるようにしておく。
そうやって、「自分たちは正しい、相手はおかしい」という空気を作りあげて、継続する。
――あれ、見ててかなり不快なのですが。そこまでして読者を人気や金に変換したいのかなと。
正直、そういう人たちって、自分たちの言う「毒者」よりも中身のない発言をすることが多いように見えます。本人はきっと「テクニックのひとつ」とか思っているのだと思いますけどね。
ホント、小遣い銭や閲覧数なんてことのためによくやるなあ、なんて思います。まあ、物書きなんてヤクザな商売ですし、意識しないとそういうことをやらかす風土があるのかな、とも思いますが。
うん、ああはなりたくないなあと、かなり本気で思います。こわい、こわい。
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まあ、なんだかんだと言いましたが、結局は各人の自由だと思います。その行為の積み重ねによって集まる人が変化するだけです。これだけ多くの人がいれば、どうしたって多種多様になる。自分には理解できない人たちだって現れると思います。
ここで活動する理由も人それぞれですからね。色々な集まりがあっても良いとは思います。自分はあまり、陰口や反論の来ない環境で誰かを嗤うのは好きではなくて、カッとなるとこういう文章を書いてしまう人と、ただそれだけの話です。……そうですね、これだって明らかに欠点ですし、理解できない人だっていると思います。それがおかしいとは思いません。
小説の感想欄で批判を嫌うのはわかります。でも、ぶっちゃけ批判を嫌うのは、ランキングに載って大量に感想が来るようになってからで良いとも思います。零細のうちはどんな感想が来てもまずは落ち着いて、丁寧に返すことを心がけた方が良いのかなと。一つや二つの感想にピリピリする方が、色々と損をすることになると思います。物理的に対応できるうちは丁寧に、誠実に対応した方がいいのかなと、個人的には思います。
そして、小説にしろなろうエッセイにしろ、感想欄で言われたことに対してYESと答えないといけない訳ではありません。YESならYES、NOならNOと答えればいい。どう答えるのかではなく、どう向き合って答えるかが大切だと思うのです。それが本当に必要なら、「お前はアホだ」と、根拠と論拠に裏付とさらに適用条件まで記載して、この上ない説得力で相手の逃げ道をふさいで力ずくで間違いを正すような論じ方をしてもいいと思います。
……そんな喧嘩腰の対応でもね、反論のない場所で相手を嗤うような対応よりは、遥かに誠実なのかなと。
正直、感想欄に書かれたことを他の場所で貶すという行為は、多分自分たちが思っている以上に危険な行為だと思います。それは多分、周りの見る目だけじゃない、倫理観とか生きる上で必要な美的感覚とか、そういったものを次から次へとドブに捨てていくような行いです。そんなことをする位なら、堂々と喧嘩をした方が良いと思います。たとえ戦争になったとしても、小細工して逃げまわりながら自分だけは非難されないように立ち回るのに慣れて喧嘩も出来なくなってしまうよりは、遥かにマシだと思います。
反論にも異論にも対峙せずに、でも自分の意見には共感を求めようというのは、結構ろくでもない考え方です。そんな考え、捨て去れるのならとっとと捨てて、できるだけ早く戻ってきた方が良いと、私は思います。
なお、このエッセイは「感想欄による読者からの批判や異論に対して、そのエッセイの作者が感想返信では当たりさわりのない言葉や内容のない言葉で返信しておきながら、別の場所でその感想を非難する行為」に対する批判を行っています。「なろうエッセイの批判は別の場所で行っていけない」という主張をしているつもりはありません。それは別の議論になるかと思います。
その点、言葉足らずだったと思うので、補足しておきます。