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−File 3 4日目:夕−
???の手記 n番目 ・月・日
ようやく落ち着ける場所を見つけた。自分たちがこうして普通の幸せを享受することを許さない連中から、なんとか隠れられる小さな居場所。これから彼女はまた、安静にしていなくてはいけない時期だ。家族が増えればそのぶん賑やかになって、苦労は絶えないけれど、哀に暮れる時間は減るかもしれない。守らなくてはならない存在が多ければ多いほど、心は強くなるものなんだと、彼女と出会って過ごすことで、どんな壮大な物語を読むよりも確信を持ってそう思える。
お兄ちゃんになるんだ。
そう言われて首をかしげる様子を見ると微笑ましい。喧嘩の絶えない兄妹になるだろうか。それとも妹にはどこまでも甘いお兄ちゃんだろうか。
きっと、その両方だ。
これからもずっと、目を離せない。心配事もあるけれど、それ以上に、今はただ日々が明るいことが幸せだ。
___
*
ここにきてはじめての陪審員。とはいえ、彼らの罪…すなわちここに連れてこられた理由は知らなくてはならないから、結局のところやることは変わらない。
誰かが動く気配がして、ふと何気なくそちらに目を向けた。
Brainは冷え切った無表情で、さっさと紙を内ポケットにしまうと、食堂を出て行った。
コードネームが変わったことで、この先もしかしたら、役割で彼と相対することもありうるのかもしれない。そう思うと不思議と安心感が湧いた。
こういう場でなければ、彼はきっと誰に恨みをぶつけることもできずに、ああして心を凍らせてしまう。
彼は、本当に優しい人だから、何か悲しい時や怒りでおかしくなりそうなとき、どこまでも内側を壊すことしかできない。簡単に悪態で処理できることはもちろんあるし、そこが前面に出るせいで直情的な印象があるけれど、本当にどうしようもないことは、僕以上に抱え込む性格だ。
Eyeさんを殺した時、僕にああ言った後で、きっと彼女を救えなかった自分を散々に責めただろう。
一線を超えたことで凪いでしまった僕の心とは反対に、きっと夜中の大時化のように、救いのない絶望の中にいるのかもしれない。
「Heart、か…」
そんな呟きが聞こえて顔を上げると、Handが机を挟んだ向かいの椅子に座っていた。
「ここにきてのそのコードネーム。君はどう捉える?」
「…。別に、ゲームマスターが言ったように、ゲームの性質上必要ってだけだと思いますけど」
「…俺はさ、この割り振られたコードネーム、単純に本名を模してるだけではないと思うんですよ」
「…」
机の縁に寄りかかって、水に流された椅子がひとところに集まっているのをぼんやりと眺めた。揺れるたびに、華奢に作られた脚がわずかに擦れる音が波間に埋もれていく。
Handはこちらが聞いていてもいなくてもどっちでもいいような声音で続けた。
「それを失うって、書かれているのに…君はいいの?」
「いいも何も、僕がどうこうできる問題じゃありませんから」
「俺はよくない。この腕がなくなったら…ただのお荷物になる」
初めて聞く声だった。
ガタイのいい彼からは想像し難い、弱くどこか恐怖を含んだ音。
ただのお荷物。それは、ここから帰った時の話だろうか。腕がなければ、彼は帰るべき場所で、存在意義を失うのだろうか…。
「…。このコードネームは…たぶん…僕らの名前であり、不足であり…罪、だと思います」
僕にBrainというネームが与えられたこと。それが、Heartに変わったこと。Mouthや、Nose…Eyeですら、そうだった。
「……」
一連のゲームを経ても、父さんが用意したのだという推測を持っても…すべてこのコードネームが表す通り。
「腕、無くならないんじゃないんですか。Eyeさんはもういないし」
何の気なしに言う。Brainが聞いたらきっと憤慨するだろうと思いながら。
奪うものはもういない。執行人という役割はあっても、積極的に彼女がやっていたことをしたいと思う…いや、度胸のある人間はここにはいないような気がした。
それに、そんなに嫌なら、物は試しで懺悔すればいい。
けれどそれは都合がいいと言ってやらないのだ。だったら失うことに覚悟を決めるほかない。
「はっ…なるほど、不足ね。確かにあんたには心が足りないみたいね」
今まで黙ったままそこにいたEarが言った。
彼女は相変わらずこういうタイミングでものを言うのが好きみたいだ。
ため息をついて言葉を返さずにいると、癪に触ったのか眉を吊り上げた。
「どうでしょうね。この場合の不足は…ある意味過剰なのかもしれません」
「…どうでもいいわよそんなこと。あたしはこんなところで死ぬなんてごめんだから。今回も勝手にやらせてもらうわよ」
わざわざ宣言しなくても、そうにしか動かないだろうに。
「君はどうするんですか?」
「僕は…一応、ゲームフロアには行ってみようと思います。知りたいことがあるので」
「……」
ああ…この反応。きっと今回の犯人はHandなんだろう。
落ちた目線は暗く、哀色の感情を湛えた瞳独特の深みを浮かべている。
自分の罪はわからないと言っていたけれど…今はどうだろうか。知るのが怖いのか、確信を得るのが怖いのか…
この人も綾川と、あるいは父さんがここに呼ぶだけの何かと関係があるはずだ。
ルール上それを本人から探ることは難しい。Brainと鉢合わせになるだろうけど、時間が多いわけじゃない。父さんが僕に与えた罰と償いだけでも、せめて終わらせなくては。
「ひとつだけ、いいかな」
「?」
歩き出そうとした僕を、Handは呼び止めた。振り返ってみた顔は、初めて彼と出会った時に似ていた。穏やかそうな印象に合う、気弱な表情。
「…伝言を、頼みたいんです。もしもここから生きて出られたら、俺の家族に」
自分でもおかしなことを頼んでいると自覚があるのだろう。隠していた冷酷さは影も形もなく、そこにいるのは不安を前面に押し出したただの青年だった。
「…なんで僕に?生還する保証もなければ、万が一できてもそんな義理ありません」
「君が一番生存の可能性があると思ったから。それに、家族とか兄弟に対する執着も」
その言葉に、思わず笑い出しそうになった。
一体どこをみてそんなふうに思ったのだろう。全くの見当違いにも程がある。
「…腕のことは、悪かったです。結果的に君たちの贖罪に救われたわけだし、罪人の分際でこんなことを望める立場じゃないってことも…わかってます」
ゲームのルール上、必要だったことだ。ああいう冷酷さを見せなければ彼の心がもたなかったのだと言うことも、今ならなんとなく理解できる。今更謝られたところで関係ない。けれど、僕には伝言を伝えることはできない。
「…生きて、自分で伝えてください。約束はできません」
「……」
「贖罪、してみたらどうですか。それともまだ自分の罪はわからないんですか?」
「…何度振り返ってみても、人を殺した記憶はないです」
覚えのない罪の償いはできない。罪を罪と自覚しない限り…
Handは、ここから生きて出る気はないのかもしれない。出られないと諦めているのではなく、出る気がない。
最初は、誰よりも出る動機がある人だと思っていた。
ところどころで見てきた決意混じりの固い表情。
あれは本当のところ何を思案していたのか、憶測でしかないけれど…残してきた大切な誰かを思っていたように僕には見えていた。
「人を殺した記憶はないけど…到底許されないことなら、いくつも思い当たるんです」
何か膨らんだ思いが、彼の声を滲ませていた。打ち明けたい、隠しておきたい。そんな逡巡が瞳の中で泳いでいる。
自分を恥じて、できればなかったことにしたいほどに後悔している過去。
口に出してしまえれば楽になれるかもしれない。けれど言いたくても、人として非難されて当然の行いだと自覚しているから、怖い。
時間にしたらほんの数秒の、そんな迷いが僕を見つめていた。
「ふとした瞬間に思い出すんです。日々が充実していると感じる時も、なにもかもうまくいかないと感じる時も…」
「……」
「幸せな時に思い出すそれらは、俺に幸せであることを許さないような感じで…。不幸な時に思い出すと、あのことの因果応報なんだって知らしめようとするみたいに…」
ほとんど独白のように、Handは止まらなかった。彼の何の、どんな記憶がそうに苛んでいるのかはわからなくても、そんな感情に覚えはあった。
フラッシュバックする記憶はその人自身や場面によって種類が違うけれど、僕の場合、よく蘇るのはふたつ。
ひとつは、自分が傷つけられた記憶。
もうひとつは、自分が、誰かを傷つけた記憶。
この二つのうち、真っ先に浮かぶのはどちらだろうか。
Handは後者だ。
そして今、その行いの見返りを怯えながら待っている。
「そんなに酷いことをしたんですか。命を奪うよりも酷いこと?人格を壊して、死んだ方がマシだと思わせるようなこととか」
「いえ、そういうんじゃなくて…幼少の頃のことで…話しても、他者からしたら子どもにありがちな些細な傷つけ合いだと思うようなこと、かもしれない」
幼少の頃のこと。
お互い様だと割り切ることはきっと許されるだろうけれど、他でもない自分自身がそうしてしまってはいけないと、切り離された意識が忘れさせない。
僕には覚えがありすぎて、今その話題は苦しい。
「…傷つけ合い、ってことは、いじめみたいなことじゃないんですね」
「……。どうだろう。俺には俺の言い分があったし、一般的に想像するいじめみたいに一方的で理不尽な攻撃をしたとは思ってない。でも、いじめって受け取り手次第だから、いじめだったと言われても仕方ないことではあると思う」
気に入らないことをされた。はじめに傷つけられた。だから腹いせに、攻撃した。
それがどれだけ行き過ぎたとしても、報復というのはする側の縮尺次第。子どもの頃なら『やり過ぎた』という感覚よりも『気が済んだ』と思うことの方が優先される。
あとになってから、わかること。
「自分でこう思うことが偽善的だってわかってます。反省とも、違う。俺はただ…ふとした時に苛んでくる記憶が苦しい。俺だってたぶん人並みに傷つけられて、自分を守るためにしたことだってあるはずなのに、思い出す過去全てが、誰かを傷つけて始まることばかりなんだ」
まるで自分が、わけもなくいきなり他者を攻撃したかのように。
助けて欲しいと、言っている気がした。誰にもどうにもできない、Hand自身にしか救えないことだと、十分わかっていながら。
出口のない迷宮で自分の輪郭すらも失われた暗闇の中、もがき続ける苦しさが彼を歪に弱くする。
Handの、ある意味懺悔とも言える話を聞きながら、僕は自分自身が分裂していくような、内側の剥離を感じていた。
僕には、正しい記憶を持つ脳も、共感する心もない。
本人が言う通り偽善的で、彼に傷つけられた当事者がそれを聞いても、ざまあみろとしか思わないのだろう。それでは気が済まないとさらに呪うことも、馬鹿馬鹿しいと一蹴することも“被害者”には容易い。
けれど…ここに呼ばれたゲストの中で一番、罪と償いがどう言ったものかを実感しているのはおそらく彼なのではないかと思った。
まるで自己暗示をかけるように、自分の行いを、自分が一番辛く苦しい方法で悔いる。誰にでもあったかもしれないことを、だからと言って手放すことができないでいる。今現在どう思っているかもわからない“その人”を勝手に慮って、自分だけはそこから逃れてはいけないのだと自らに枷をつける。
多くの人は言う。
誰も傷つけたことがない人間なんていないと。
だから、傷つけたことを反省して、二度と同じ過ちを繰り返さなければいいのだと。
そうして傷つけられた誰かの当時の心を置いて、自分を前に進めていく。
僕はHandの気持ちは半分しかわからないけれど、彼の在り方は一種の贖罪の答えだと思った。
彼はきっとこの先、一生自分を赦すことはできない。
最愛の誰かと結ばれても、幸福真っ只中の大団円を迎えても。当時の事実はフラッシュバックするたびに少しずつ歪められ、経緯も何も定かでなくなっても『傷つけた』ことだけは強固になっていき、それだけが全てで…
その行為は、当時泣いていたかもしれない自分を慰めることより重要なこと。
開き直ることとも前を向くこととも、反省することとも違う。
日々の中にいつでも潜んでいる因果に不意に襲われる恐怖と死ぬまで隣り合わせ。
人によっては、ある種の最大の罰であり、償いであるのかもしれない。
だから…傷つけた相手に傷つけ返されることは、一番優しい報復…
僕は俯けていた顔をあげてHandに言った。
「…伝言て、なんですか?」
「…!」
「約束はできないし…ここから出られるとも限りませんが」
これは気まぐれ。届けることを思い描いているわけじゃ決してない。
だけど、彼を待っている家族がいる。彼が今どんな状況で、何を思ってここにいるかを知らずに、帰ってくることを疑わずにいる家族が…
それを想像すると、また自分の中の色が鱗のようにひとつ剥がれた。
「…ありがとう。紙に書いて後で渡します。もちろん、自分で言えるのが一番だけど…」
Handは心の底から安堵した微笑みを浮かべた。
水面からの反射が彼の瞳を輝かせ、いくつもの光がこぼれ落ちていく。
この船に乗ってから初めて見る、とても綺麗な光だった。
*
ゲームフロアの自分の部屋に着くと、まず濡れた靴と靴下を脱いだ。昨日の今日で着替えまでは元の部屋から持ってこれてないが、Brainのいないタイミングを見計らって少しだけ衣服を持ってきておいたほうがいいかもしれない。
幸いというか、用意が良すぎて不気味だけれど、この部屋にもシャワー室はあって、お湯が出ることは確認済みなので、本当に生活には困らなずにすみそうだ。
とはいえ、ここともあと数日の辛抱。今更何がなくても文句は出ない。
ソファに座ってタオルで足を拭きながら、テーブルに広げられた思考の跡を目にする。
Noseの…猪鼻琵琶の手帳に綴じられていた、おそらく母さんの幼少期と、その兄の写真。
写真に写っているのが自分よりも年下の少年だからか、この人が伯父かもしれないという認識はできなかった。
見れば見るほど、儚げな表情と華奢な体つきが母さんに似ている。母さんの顔はよく覚えていないけれど、少年の顔のパーツが持つ雰囲気の柔らかさや色素の薄さに、記憶の片隅で微かに引っかかる面影があった。
この人は今、どこで何をしているのだろう。
生きて、いるのだろうか。
答えは決まっている。
母さんの話に一度も出てこなかったこと、父さんが連絡を取るべき人の中にこの人がいなかったこと…そして何より、Noseが彼の名前を騙っていたこと。
あの白く甘い煙の中で、焼き付けて消えない火傷にしてでも掠めてしまいたくなかった名前。
この写真から推測できることはそう多くないけれど、想像はいくらでも膨らんだ。綾川に及ばないまでも名門であるはずの東條家の生まれの母さんが、幼少をこの教会で過ごしていたとなれば…
綾川総裁が父さんとの結婚を頑なに認めなかった理由も読めた気がする。利賀さんは意地だと言っていたけれど…母さんの生まれについて、僕らに濁しただけなのかもしれない。まず容易に想像がつくのは婚外子だったことだ。
そこまで考えたところで、僕はいつの間にか力が入って痛くなった眉間を押さえた。
これがただの空想だったとしても、あまりに両親を取り巻くものが多すぎて、勝手な苛立ちから思い切り髪を掴んだ。皮膚が爪の尖りをなぞって熱くなっていく。
ただそこにいた。幼いだけの、自分が。
東條の家のことなど知るわけがない。否、話せるわけがない。過去のことなど、伯父のことなど、住む場所が日毎変わるワケだって。
知らなくて当然で、何もできなくて当然で…
だからこそ、何もするべきじゃなかったんだ。
声にならない声が、喉の奥で熱の塊になって気道を圧迫している。
苦しくて仕方ないのに、吐き出すことができない。泣きたいのに、悲しくない。
悲しいんじゃない。
ただ僕は。
知りたかったあらゆることを、どうにもできない今になって知ることが、こんなにも苦しい。腹が立って仕方ない。誰も責めなくても、だからこそ自分がどんどん憎たらしくなってくる。
だってあの日。自分の世界はとっくに終わっていたあの夜、僕は…
母さんを、救いたいわけじゃなかった。




