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−File 2 道標−
「私が最後に柳士さまにお会いしたのは、今から三年ほど前になります」
利賀はそう切り出すと、ぽつぽつと語り始めた。
「それ以前は、飾さん…あなた方のお母上が失踪されてからというものお会いしてませんでしたので、その間はさらに数年の時を経ていました」
失踪と言ったのは利賀なりの優しさだったのかも知れなかった。
久しぶりの来訪に彼は随分喜んだそうだが、父さんはそうではなかった。
思いつめた顔でこの時、すでに僕らの前から姿を消す決心をしていたのだ。
「これからしばらく連絡がつかない、探さないでほしい。2人には、時が来たら自分の口から説明する、と」
「時が来たらって…いつまで待てばいいんだよ…」
「おそらく、全てお話しするのにはまだ幼いと判断されたのでしょう…。それほど、あなた方家族を襲った闇は深いということなのです」
僕たち家族のこと。
母さんが、血まみれの部屋から忽然と消えてしまったこと。
父さんが、3年前から行方をくらまして連絡も何もなく帰ってこないこと。
僕らが『大人』になったら、知ることができる真実。
当事者である僕らが知らされない、大人の事情。もどかしさも悔しさも、そんな勝手な都合でどんどん膨らんでやり場がなくなっていた。
朧に揺蕩うあの始まりの事件の記憶が、僕の胸を深く抉る。その痛みを癒すことはできないまま。
「私が今日お伝えしたかったのは、あなた方のご両親の過去と、お父上の居場所の手がかりについてです」
「父さんと母さんの…過去…?」
「僕らが生まれるもっと前の話?それに、手がかり、って…」
利賀は頷いた。
「順を追ってお話しします。お二人が生まれるもっと前、柳士さまと飾さんを襲った不幸は1つにとどまりませんでした。彼らはとても悩み苦しみ、それこそ水の中で永遠ともがき続けるかのような息苦しさとずっと戦っていたのです」
きっと僕らには想像できない苦しみがそこにはあった。ただ守られるだけの存在だった自分たちに、辛い中でも愛情を注いでくれていた両親を思って、勝手に胸が苦しくなる。
「綾川が…なにかしたんですか。円満な結婚じゃなかったのは察しがつきます」
「ええ…総裁は猛反対でした。当然ですが、柳士さまには総裁が決めた婚約者がいたのです。もちろん飾さんも良家ではありました。より良いお家と婚姻を結ぶのが上流階級の通例というもの。それでも柳士さまは反対を押し切って、飾さんとご結婚なされたんです」
多分、そのあたりからだろう。父さんと本家の折り合いが悪くなって、反発が強くなったのは。もともとシキタリとか柵の多い家だ。当たり前といえばそれまでだが、誰に選ばれて生まれた訳でもない。家というのは生まれて初めての不本意というやつだから、なおさら強く心は締め付けられていただろう。
「もちろん柳士さまは、飾さんと結婚するために課された条件はすべて成し遂げたのです。もともと優秀な方ですし、後継として遜色もなく、むしろ独り立ちされたら業界としても厄介なレベルでした。ですが総裁は約束を破り、2人を引き裂こうとしました」
「どうしてそこまで反対したんですか?母さんの実家になにか問題でも?」
「いいえ。とても馬鹿らしい理由だと思われるでしょうが、意地というものが総裁の首を絞めていたのです」
利賀の言葉に、僕はなんとも言い知れぬ熱が腹のうちにたまるのを感じた。
声を上げて激怒したいときの感情と少し似ているかもしれない。でも、どうにもできないもどかしさがそれを阻む。膝の上に置かれていた拳にぎゅっと力が入った。
馬鹿馬鹿しい。本当に、子供かと罵ってやりたいほどに。もしも生きていたなら、それこそ一度死ぬほどの目にあわせていただろう。
「そんな…クソみたいな理由で父さんと母さんは苦しんだって…?結果俺たちの今の状況ができあがって、2人は行方不明で、老害どもは罪滅ぼしもせずに勝手に楽になりやがったんだな」
「……世間では自殺ということになっていますが、実のところ私は…いえ、本家のもの誰1人、そうは思っておりません」
「…父さんがやったって…?」
「……現場を見る限りでは、自殺としかいいようがないのです。不自然なほど。あまりに綺麗すぎて、逆にあの方にしか成しえないのではと思えてなりません。頭脳も行動力も、あの程度のことをやるには有り余るほどでしょう。敵に回せば恐ろしい人材だ」
利賀は身につまされたように苦しい声を出した。
同情なんてする余地ない。それに、本家の人が薄々気づいていながらも表沙汰にしなかったということは、きっと父さんは本家の弱みを握っているんだ。
敵に回せば恐ろしい。
幼い頃の記憶を辿れば、ただただ大きくて温かい手と腕に抱かれてばかりだったから、正直想像つかない。
母さんのことが大好きで、俺たちのことを愛してくれていた父さん。
浮かぶ姿は薄く霞んでいるけれど、注いでくれた愛情はこの身を柔く包んでる。
そんな人が、たとえ計り知れぬ恨みを抱えていても人を殺すなんて。
認めたくはない。けれど、一番真実に近いという確信に板ばさみにされていた。
「総裁のことは僕らには関係のないことだ。それより父さんの居場所がわかって、すぐに会いに行ける手がかりが欲しい。利賀さんは、それを僕らにくれるんですよね」
「はい。私が最後に柳士さまにお会いした日、彼は人に会いに行くと言い置いていきました」
「その人が誰か、知ってるんですか?」
「イノハナ ビワという新聞記者です。お二人は柳士さまの行方を探すのにお調べになったそうですから、ご存知かもしれません。以前、この記者にご自身のことを書かれたんです。飾さんとのご結婚を駆け落ちと題して、避難の目を向けられるように」
イノハナ ビワ。聞いたことがある。父さんの仕事部屋に、確かその男の記事がスクラップされていた。
父さん自身の記事だったかどうかは忘れてしまったけど、調べればすぐにわかる。
「総裁がその男に書かせたんだろ」
シュウが尖った声音でそう言った。利賀の言う、引き裂こうとした、とはこれのことだろう。
「その通りです。結果お二人は、世間から隠れるように暮らさなければなりませんでした。記事が書かれた事の顛末をどこかのタイミングで知ったのでしょう。20年ほど前の話ですので、なぜ今更会いに行くのかと不思議だったのですが、総裁がこうなった以上、辻褄が合います」
確かに。今になってようやく父さんが姿を消した真意がぼんやりとわかり始めた気がする。僕らの前からいなくなって3年…暗く閉じた心で何を探して、何を見つけたのか、全く想像つかないわけじゃない。
復讐、しに行ったのだろうか。
わからないけど、今までから考えるとその記者の情報は手がかりとしては十分すぎる。
「最悪、その男はもうこの世にいないかもしれません…」
「やめてください。総裁夫妻のことだって、きっと偶然です」
利賀が呟いた言葉に、僕は自分でも驚くほど早くそう口にした。決して強い口調ではなかったが、心は正直だった。握っていた拳に爪が食い込んでいく。
シュウが、横目で少しこっちを見たのを気配で感じる。
状況的に父さんが一番怪しいのも、得をするのもわかってる。でも僕は…僕の心のまだ幼い部分が認めたくない。
たとえ、なにがあったって。
父さんは僕らの父さんで、大切な家族。
だからなんだっていい。生きていてくれるなら、なんだっていいから。もう一度会えるなら、なんだって。
「…そうですね…。お伝えしたかったことはそのことです。色々と苦労をなさった方ですが、その記事が始まりだったように思います。柳士さまがいつかご自身の口からあなたがたにお伝えするとおっしゃった以上、私から全てをお話しするわけにはいきません…しかし…」
「わかってます。俺たちも、父さんから直接聞く」
シュウが頷くと、利賀はわずかに安心したように、強張らせた顔を一度緩めた。そして、どこか諦めの混じった弱い声で言う。
「……柳士さまを…必ず見つけ出してください。これは綾川としてではなく、私個人としてのお願いです。あの方がこれ以上水の底に沈んでしまう前に、どうかすくい上げて欲しいのです」
水の底。暗くて冷たくて、光の届かない場所。空よりも遠くて深くて、閉塞的な恐ろしい場所に、父さんは今も沈み続けているという。
そして、その一端に。
父さんの計り知れない悲しみの一部に、僕らがいる。
あの日…あの事件。感覚全てが狂ってしまったあの日に、僕はこの手で最大の罪を犯した。
それが罪だと気付いた頃にはもう遅かった。
父さん。
僕はもうわかるよ。
父さんが何も言わずにいなくなったのは、誰かに復讐しにいくためでも、母さんを探しにいったのでもない。
僕らに、笑いかけることが辛かったから。
頭を撫でて、抱き上げることに疲れてしまったから。
僕らのせいじゃない、って、言えなかったから。
幼さを武器にした僕らを責められなくて、愛情と憎悪に塗れて潰れてしまいそうだったから。
全部わかってるから、もう帰ってきて。
そうしたら、甘えるなんて残酷なことしない。罪を罪と受け入れて、どんな罰でも受けるから。僕がかわりにいなくなって、きっと母さんを父さんのもとに帰すから。
ー*ー
アイさんが利賀を見送っている間、僕はまだじっと座り込んで、目の前の冷め切った紅茶を見つめていた。水面に細い糸みたいなほこりが浮いていた。
その間に流れていた思考は何もなく、手がかりを得たというのに体は次に動かない。
「アマネ」
隣に立ったシュウの呼ぶ声にようやく顔を上げる。
僕と違って切れ長の目が、じっと見下ろしてくるのを少しだけ身構えて受け止めた。
「なに…?」
こういうとき…具体的な瞬間は覚えてないけど、シュウがなんとなく、兄として見える時。その言葉にはなんの間違いもなく、いつも正しいことを知っている。
だから怖い。
言ってほしくないことだし、きっと言われてもすぐには受け入れられない。
「これから、父さんのことを探しに行く。それでいいんだよな」
「…どうして…?聞くまでもないことでしょ?」
ああ…
やっぱり見破られてる。
僕の中にある迷いと不安と、ずっと癒えない傷を抉る恐怖を。
「だったら、覚悟しとけよ。父さんに会うの。俺たちが見つけた父さんが、俺たちの思ってる父さんとは違っても、何があっても、何を…言われても。ちゃんと全部受け入れるって覚悟」
「……必要ないよ…。父さんは父さんだ。僕らの理想を押し付けちゃいけない。だから思ってたのと違うなんて、そんな心を抱くはずもないよ」
「…それもそうだな。俺、まだ甘えようとしてんのかな」
違う。今のは強がりだ。
わかっててシュウはお兄ちゃんになってくれた。
甘えてるのは僕の方だ。
「会いたいって、すごく思ってる…。お葬式に行きたいって言ったのも、会えると思ったから…でも、やっぱり同じくらい、怖い」
「……」
「嫌われて当然だし、恨まれて当然だけど…僕は…父さんにそう思われるの怖い」
精一杯の本心を言った。
多分、自分の抱く全ての心に僕は恐怖を感じる。自己暗示のように、そうする癖がついてしまった。
悲しいとか、寂しいとか、傷つくとか。そうじゃなくて、怖いんだ。
「当たり前だろ。怖がっちゃいけねーの?」
「…わかんない。ダメってことないと思うけど…」
「お前、ちょっと色々考えすぎ。会いたいって、今はそれだけでいいだろ。たとえばその結果傷ついたって、それこそ罰だと受け入れればいい話だ」
シュウは困ったようにため息をついて、僕の頭を撫でながらそう言った。強くも弱くもなく、シュウの加減で行き来する感覚に、次第に心まで撫でられていく。
膝の上で握っていた手がそのときようやく少し緩んだ。手のひらをみると、薄く爪の痕が残っていた。
シュウの言葉に頷いて、僕はようやくごちゃごちゃ考えるのをやめた。今は会いたいって気持ちだけでいい。それだけを原動力に追いかけて、会えた先のことはその時考えよう。
「ありがとうシュウ。手がかりを探そう。父さんの書斎に、イノハナ ビワの記事があったはずだから」
立ち上がってそう言うと、シュウは頷いた。
会いたい、怖い。
僕らは僕らの周りの感情にばかりとらわれて、これから知る真実にまで気が回っていなかった。
追い求めていずれ直面する事実がどれほどのものか、全てを知っているその人物は、静かに目を閉じて、双子がたどり着くのを黙って待つことを選んだ。