第4章 -File 1-
間があいてしまったので、前話を読んでいただければと思います…
第4章 _ _ _ _ _ _
−File 1 3日目:朝−
死刑を免れても、第二のゲームが終わっても、傷の手当てを終えて、シュウが眠っても……。僕はずっとベッドに腰掛けたまま、あかりの消えた青い部屋の一点を黙って眺めていた。
波の打ち寄せる音が絶えず聞こえてきていた。ここには窓がないけれど、遮るもののない海の塗りたくった黒い世界を用意に想像できる。
この船は、いったいどこに向かっているのか。
その答えをぼんやりと知り始めた頭が、これからするべきことを考えた。
『思い出したんだ。母さんがいなくなった日のこと』
僕が呟いたあとで、シュウは泣きそうに顔をしかめた。ぐっと堪えるような顔で、そうか、とつぶやいた。
あれは…6歳のクリスマスの日。
母さんの誕生日だった。
*
妹がお腹の中で死んでからというもの、心身ともに病気がちになってベッドで寝たきりになった母さん。乾燥した冬の室内は部屋の暖炉でよけいに酷くて、咳で痛めた喉をがさがさ言わせながら、母さんは父さんの名前を呼んでいた。
数日前にはクリスマスには必ず帰ると言っていた父さんは、その日が半分過ぎても、月がほとんどてっぺんまで昇ろうという頃になってもなかなか帰って来なかった。
僕は傍で、冷たい母さんの手を握りながらだんだん不安になっていた。はやく父さんが帰ってきて、この手を握ってくれることを必死で願った。
これからのクリスマスプレゼントは全部なくていい。
その代わり今年は父さんを早く帰して。
父さんが帰ってきてくれたら、きっと何もかも元通りになるから。
僕と…シュウからの、とっておきの誕生日プレゼント。間に合わなくなる前に…ただ、そう願った。
刻一刻とその日が終わりを迎えようとしている。
こんな時間まで仕事だなんて絶対に変だ。
そう思うと耐え切れなくなって、僕は家を飛び出した。
家の中とは打って変わって、外は裂かれるような寒さだった。針のような空気が寝巻きを纏っただけの体を布の目を掻い潜ってひしひしと刺した。降り積もった雪に取られた足は、門を越えるまでにはすっかり冷えたかと思うと、すぐに感覚をなくして、むしろ温かいような気さえした。
吐き出されるたびに目の前を覆う自分の白い息を追い越して、やけに明るく彩られた大通りに向かって必死で走った。
『アマネ!!』
シュウが後ろから走ってきて僕を呼ぶ。いつもなら絶対逃さない声も、この時だけは振り切った。もし今日がこのまま終わってしまったら。そう考えたら、自分の今の行いは決して間違いじゃないと思った。もし、今自分が考えていることを成功させなかったら、あの家はもう絶対に明るくなることはないと思った。
『アマネ!戻ってこい!』
足を雪に取られながら、ほとんど這いつくばるように進んだ。
自分の激しい息遣いだけが聞こえる、静かな夜だった。真っ白な雪が、シュウの声も遠くの神聖な調べも全部埋めるかのように降り積もっていく。
この夜と同じ色のパジャマのズボンが足元だけ真っ黒で、海に沈んだみたいだった。
顔を上げると、まだ住宅街すら出ていない路地で体が一気に重くなった気がした。父さんの職場の場所は、一度車で行ったことがあるから覚えている。
けれど車で行った距離と、自分の歩幅と、雪道と…息切れしながら頭の中でそれだけの計算をして。途方もない距離だとわかると、その場に膝をつくことしかできなかった。
『アマネ!!』
その少しの時間でシュウは僕に追いついた。腕を後ろに引っ張られて、無理やり立たされてもまだ動かなかった。
『帰るぞ。アイさんが心配する』
『……』
凍り始めた袖で顔を拭った。別段寒く感じていなかった指先が、シュウの手に包まれて初めて冷え固まっていたことに気づいた。
自分をここまで引っ張っていた思いは、たかが家から数十メートルで萎んでしまった。
こうして帰る数分の間にでも、後ろから父さんが来たりしないだろうかと、何度も振り返った。車のライトがちらとでも角を照らさないかと、そしたら、ずぶ濡れで凍りかけた心も弾けるのにと期待を込めて。
結局家の門を潜って、玄関の扉がしまったところで気持ちはもっと冷え切った。
着替えて温められた毛布を頭から被ってから、リビングのソファに膝を抱えて座った。向かいの席で、アイさんが淹れてくれたマシュマロ入りのココアマグを抱えたシュウが座るところだった。
いつもはその甘い匂いは、幸せを運んでくれるのに。
『…母さん、さっき眠ったよ。アイさんがみてくれてる』
『……』
暖炉の火が爆ぜる音が、このクリスマスの夜にふさわしく寄り添っていた。もしも父さんがいてくれたら、こんな微かな音なんて掻き消えるくらい、みんなの嬉しい声で溢れるのに。
『…おれも…同じ気持ちだから…』
僕が何も言わないのを見かねたようだ。シュウはカップから立ちのぼる湯気を吹くことをやめた。それでも僕は黙ったままで、壁の方に目をやる。
時計の針がまた一つ進んだ。今日が終わるまで、あと1時間39分。
『何かあったのかな…父さん、帰りが遅くなる日はいつも電話してくるのに…』
シュウのその言葉をしっかり聞いた後で、はっと顔をあげた。
電話。
そうだ。その手があった。
『アマネ?』
『そうだよ、でんわ…なんでいままでおもいつかなかったんだろう!』
『電話…もしかして父さんに?』
あかりが灯って、急にあたたかくなった心は飛んでいきそうなくらい昂った。
『もしかしなくてもおとうさんにだよ!』
得意げに言った僕に、シュウも名案だと思ったらしかった。
母さんの今の状態を知ったら、父さんは飛んで帰ってくる。
それに、もし父さんに何かあったのだとしたら、それだってすぐにわかる。
アイさんに教わって電話をかけた。
数回のコールのあとに、やがてプツリと音がした。
【はい。綾川です】
それを聞いた途端、安堵と嬉しさがないまぜになって、考えていた言葉が全部飛んだ。
『おとうさん!』
僕がそう叫ぶと、シュウが隣で嬉しそうに手を叩いた。
『おとうさんあのね、おかあさんが…』
言葉にするのがやっとだった。大変なの、すぐに帰ってきて。それだけを言い切るのに、息が切れた。けれど、伝わったのかどうかは確認できなかった。
その電話はいつ切れていたのか。
言い切った後で耳を澄ませてみると、聞こえてきたのはツー、ツーという虚しい機械音だけだった。
どうしていいかわからなくてきょとんとしている僕をみて、シュウが不安そうに聞いてきた。
『父さん、なんだって?』
『わ、わかんない…きれちゃった…』
そう言葉にしてみて、不安と落ち着かなさが再び押し寄せてきた。母さんの緊急事態を聞いたから、何も言うことができなかったのか。その考えで精一杯だった。
受話器を持ったまま立ち往生していると、リビングに無機質なインターホンの音が響いた。
『おとうさん!』
反射的に駆け出す。考える間もなく、廊下を出てまっすぐ玄関扉に飛びついた。
それが、開けてはいけない扉だとは当然思いもしなかった。
大きな男が二人、無言でずかずかと家に入ってきた。まるで扉が自動で開いたかのように僕には目もくれず、階段を見つけると真っ直ぐ2階に進んでいく。
アイさんが途中で降りてくるところだった。男たちをみると、抗議するように立ちはだかりはしたものの、抵抗虚しく侵入を許してしまった。
何が起こったのか、どうするべきなのかなんの考えも及ばないまま、ただそこに立ち尽くしていた。
かろうじて雪が舞い込んでくる。冷たい空気が誘うように頬を撫でて、温まっていた体がまた寒さを思い出したように震えた。
その震えが本当に寒さからくるものだったかどうかは定かではない。階段を降りてきたアイさんは僕を抱えて、シュウが覗き込んでいたリビングの扉に押し込むとまた階段を駆け上がっていった。
なにか叫ぶ声が階上から聞こえてくる。
シュウが何か僕に言っていたけど、僕は今度こそ本当にシュウの声が聞こえなくなっていた。
こんなに何も考えられないのは初めてだった。あの扉の向こうには父さんがいるはずだったのに、知らない大人が無遠慮に聖域を穢していく。
シュウはただならぬ雰囲気を察して、僕の手をつかんだと思うと、二人でリビングのキャビネットの中に隠れた。
大きな物音が頭の上から聞こえてくる。誰かが大声で喚く声が聞こえる。
狭い暗闇の中で、僕が感じることができるのはせいぜい耳くらいだった。それもひどく限定的にしか機能しない。
シュウも、くっつけていた体は震えていた。
それから一度玄関の扉が開閉され、車が遠ざかるエンジン音を聞いてからひとときの静寂が訪れた。どちらともなくキャビネットをそっと開き、恐る恐るあたりを見回してから廊下の方へ足を忍ばせる。
誰の動く気配もしない。
誰かがいる静寂ではなく、誰もいない静寂だった。僕もシュウもリビングを飛び出し、2階に上がった。
嫌な予感。止まっていた心臓が遅れを取り戻したかのように早鐘を打ち出し、ノブに手をかけた時には骨が折れるかと思うほど痛かった。
服の上から心臓のあたりをぎゅっと握り締め、ドアを押し開ける。
そこは、数時間前とは打って変わって凄惨な空間と化していた。ドアのそばでアイさんが立ち尽くしていて、母さんが寝ていたはずのベッドと床には、夥しい量の流されたばかりの血液が水溜りを作っていた。
その血の持ち主だけが忽然と消えている。
瞬きするたびにその光景を脳裏に焼き付けていた。そうしたくなくとも、逃れることはできなかった。血のまだらが蛍光灯のフラッシュで陰影になって焦げ付いていく。
いまやシュウと繋いだ手は痛さを通り越して感覚を失い、頭の中でぐわんぐわんと悲鳴が反響していた。あまりの痛さに、沸騰した血が吹き出し今にもそこに新しい池を作ろうと言わんばかりだ。
どれくらいしてか、再び玄関扉が開閉される音を聞き、数秒後には待ち焦がれた人影が扉の前に立った。
その人の目はみるみるうちに虚の穴となって、そこに心も時間もすべて閉じ込めてしまおうとしていた。潰れた激しい咆哮が嗚咽の合間に部屋に木霊した。
怒り、悲しみ、苦しみの渦に飲み込まれ、もがきながら、やり場のない慟哭を叩きつける。そんな叫びだった。
その声だけは今もまざまざと思い出すことができる。
*
僕は意識して一度深呼吸した。
書き換えていた記憶を修正し、“あの日”を間違いなく思い出した。
起こったことはこれで全て。自分が関わっていた部分だけだとしても、何が起こったのかは大体想像ができる。
あの日父さんは、何かトラブルがあって帰ってこれなかった。
それは当時もわかっていたこと。だけど今改めて考えてみると、あの電話の相手は本当に父さんだったのだろうか。
今となっては不自然極まりない状況だった。あの日起こったことは、タイミングからもうおかしい。
自分の愚かさには底なしに嫌気が差す。
ベッドから立ち上がって、机に歩いた。
少し考えれば、電話もインターホンも父さんじゃないとわかったはずなのに。
そして自分の罪の大部分は、記憶を書き換えたことだ。
全部僕一人がやったこと。家を抜け出し、電話をかけ、扉を開けた。
シュウは何もやっていないのに、僕はいつからか“二人で”やったことだと思い込んだ。なんの罪もないシュウに僕“たち”のせいだと宣った。
父さんも母さんもいない家を、他の誰でもない僕が作った。
僕が、全ての元凶だったのに。そこに、シュウを巻き込んだ。
考えれば考えるほど、自分を殺してしまいたくなる。
歯を食いしばって、さっきシュウが手当てしてくれた穴の空いた手に、机にあったペンを突き刺した。あっという間にじゅわりと温かい血が漏れ出た。
このゲームもそうだ。
シュウは何ひとつ罪を犯していない、むしろ僕の被害者なのに、ここにいる。本当ならここには僕一人でいるべきだった。
シュウだけは、何があってもここから出す。僕が本当に“執行人”になって、これ以上汚れてもう自分がわからなくなっても、シュウにもう二度と怪我は負わせない。
机に血が広がって、縁を若干粘ついた鮮血が垂れた。
痛みは感じなかった。だからもっと深くペンを沈めた。
止まらない血を、無心で見つめた。
父さんのこととか、イノハナのこととか…確かめるチャンスがあるならもちろんそうするけど、あくまで二の次だ。
シュウの眠っている背中を振り返って、気持ちはどんどん沈んでいった。
シュウはずっと事実を間違えず記憶していたのに、僕に二人でやったことだと言われ続けていたことを、どう思っていただろう。
シュウはシュウなりに責任を感じてくれているから、僕の言葉を否定したりはしなかった。
僕が全て思い出したと言った時のシュウは…あの堪えるような顔は、怒りの感情だったのだろうか。
負い目があるせいか、シュウの気持ちを想像することができない。
これからどんな言葉をかけていけばいいんだろう。そうしたくはないのに、自分自身が彼の態度全てを穿って見てしまうと思った。
そしてシュウはそれに気づく。
今までのこと。今のこと。それに…これからのこと。
ごめんって言ったところでまた、自己満足を重ねるだけ。
現状は何も変わらない。
だったら僕にできることは、シュウにとって今より悪くなることだけは絶対にさせないってこと。
僕らのコードネームは【Brain】。
ゲームの役割も、二人でひとつ。賞金の設定も、人数分用意されているとは言っていたが、Brainをひとりとする宣言をしたということは、多分半分。まあ正直、脱出した後の賞金の割り振りなんてどうでもいいか…。
ゲームでは確かに有利に働くこともあるかもしれないが、単純に考えればペナルティーのリスクも倍ということになる。
アイさんももう頼ることはできない以上、僕ら双子が、始めにEarが心配したような脅威になれるとは自分でも思えなかった。
それでも…
この手の傷に誓って、どんなに残酷で非道に成り下がっても、僕は【Brain】として、このゲームに必ず勝つ。
こっちはこんなに暑いのに、このお話は冬真っ只中。