-File 5-
−File 5 2日目:夜−
???の手記 n番目 ・月・日
彼女は本当に世話が好きなようだ。大変なことはないかと聞くと、あっても、それ以上に幸せな思いが勝つんだって、本当にかわいらしく笑ってくれた。
帰ってきて、少しだけ散らかった部屋で、小さなテーブルに料理を並べる。食事の間ずっと彼女は、今日はあれをしたこれをした、そしたらこんなことになったって、幼い真似をしながらたくさん話してくれた。
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*
擦り切れた嗚咽が響いていた。
目的が済んだ後、他のゲストたちはゲームフロアに向かって、ホールにいるのは自分と気を失ったままのシュウだけ。
頭の奥がガンガン痺れて、視界に広がる赤がしつこく付き纏ってくる。肺を削ぎ落とすような掠れた息を数度繰り返して、再びナイフの柄に手をかけた。
グッと歯を食いしばって、聖卓に突き立てられたそれを抜こうと足掻く。
ギチギチと柄を動かすたびに、体温に温められた薄い異物が少しずつ抜かれていった。痛みに低い呻きを上げながら、最後はほとんど力任せに引っ張った。
「…が…ぁっ」
銀の重みが床に響く音を聞きながら、手を抑えるのもままならず、崩れるようにシュウのそばに膝をついた。
「はぁっ…はぁ…っ」
冷や汗がシュウの白くなった頬の上に弾けた。
傷を見ようとなぞった指が赤く軌跡を描いていく。それがシュウの血なのか自分の血なのか、混ざり合って流れてしまえば同じことだった。
そばに落ちたナイフでシャツの裾を裂いて、ひとまずの応急処置をする。幸いなのか情けなのか、傷は浅かった。血も直に止まるだろう。
とはいえ自分にとって問題なのは、シュウが傷つけられたというその事実だけ。浅かろうが深かろうが関係ない。
鳩尾のあたりがかき回されるような気持ち悪い感覚がした。持て余した感情に吐き気がして、抑えようとすると喉を詰まらせて息ができない。
「…マ……ネ…、」
シュウの頭を膝に抱いて、ひとり葛藤と戦っていると、小さく名前を呼ぶ声がした。
ほとんど音にはなっていなかったけれど、その声を聞いて、ぐちゃぐちゃにした顔が少し解けた。
「……っ…ごめん…」
薄く開いたシュウの目がそう言った僕を見てふと笑う。
目の際が熱くなって、鼻の奥がつんとなって、頬を伝うことなく涙が落ちた。喉が鉛玉のようなものに圧迫されて、声が出ないまま唇が何度もごめんと震えた。
生まれて初めてかもしれない。
シュウが傷つけられたことに、こんなに苦しくなるのは。
今までは傷つけられても、お互いに慰めあうことで乗り越えてきた。
けれど…自分の行いでシュウが巻き込まれたとなった今回は、言いようのない苦しさに押しつぶされそうだった。
自責の念、後悔。そんな言葉じゃこの重苦しさは言い表せない。
「…お前のせいじゃない…、だろ…」
シュウの冷たい指先が頬に触れた。その手を縋るように握って、今度こそ嗚咽を我慢できなくなった。
「……まぁ…俺がお前の立場だったら、同じように思っただろうけどな」
シュウはゆっくり起き上がりながら言った。そうして僕の怪我した手をとる。
「…不意打ちでびっくりしたけど、俺は大丈夫だ。大したことない。お前のこの傷に比べたら全然…大したことねーよ…っ」
怪我してない方の肩にもたれてきたシュウの重みとぬくもりが心地よかった。それに安心して、また目が熱くなる。微かだけれど、シュウもまた震えていた。
「……ごめんね…」
「もう謝んな」
大丈夫…。受け入れなくちゃいけないんだ。
シュウのこの傷が自分が招いた結果なら、僕はその責任をおわなきゃいけない。もう彼に痛い思いをさせないように。もう、自分のせいでシュウが傷つくことがないように、生き方を改めなくてはいけない。
ゆっくりと息を吐く。
ようやく少しだけ、内臓の不快感が拭えた気がした。
「…っそうだ、はやくお前の傷手当てしないと…!」
「ああ…うん、そうだね…」
シュウは、僕がさっきしたみたいに自分のシャツの裾を破いて、僕の怪我したところを止血してくれた。
肩から流れた血で自分の服は半分以上が真っ赤だった。濡れてひたりと張り付いたシャツの感触が気持ち悪い。
「出血がひどい…気分悪くなったりしてないか?俺がおぶるから、部屋に行こう」
言いながらシュウは顔を覗き込んだ。
「…お互いボロボロだね…」
不恰好に止血された額を見て笑うと、彼は何言ってんだといいたげに眉をひそめた。
僕らは鏡映しのようで、そうじゃない。僕の真っ赤に染まった部分が、シュウは綺麗だった。
今回は、それでよかったと思う。
「……大丈夫だよ。少し、眠いだけ」
「それってまずいだろ。ちょっと待ってろ、なにか…」
そっか。
血が足りないのか。さっきまで平気だったのに、言われてみれば目眩のような感覚がする。
けど…動きたくない。
シュウがどこかに行こうとしたので、僕は引き止めるつもりで彼の胸に寄りかかって、目を瞑った。
鼓動が聞こえる。
…あったかい。
僕の全てが、ここで生きてる。
そっと、ぬくもりに抱きしめられた。僕が壊れてしまいそうなとき、シュウはいつもこうしてくれる。
何も言わないけれど、文字通り心臓で会話してるみたいな、そんな領域で繋がれる瞬間。
聖卓の前、自分たちがうずくまった場所に、丸く青白い光が溜まっていた。
いつの間にか月が採光窓に現れる時間まで進んでいたらしい。
「……なあ…ずっと、考えてたんだ」
シュウの声はこの空間にやけに響いて聞こえた。遠く、水の流れ続ける音に混じって、わずかな余韻が耳に残る。
僕は青白く照らされた床をぼーっと見ているだけで何も言わなかったけれど、彼は続けた。
「…贖罪って、あいつのミスリードだったんじゃねーかって」
「……」
「…全員が生き残る方法自体はきっと存在するんだろうけど、そもそもここには断罪されるために連れてこられたんだろ…。だったら多分、贖罪ってのは最初から言葉通り、死ぬってことでいいんじゃねーの」
シュウが何を言いたいのかわかった気がして、重い頭をあげた。
この断罪ゲームに、ルール上人を殺す権利が組み込まれていること。暴かれてはいけないなどと、自分の罪を隠蔽しようと働きかけていること。罪に罪を重ね、もともと償えるはずのない大罪を持ちながら、さらに身を溺れさせることが、犯人の負けの定義。
「…そうだね…。そう簡単に許されようなんて、考えちゃいけなかった」
誰もが、罪から逃れたいと思うもの。あるいは、そこから目を背けていたいと思うもの。
あるいは…それすらも利用して、聖人かのように啓発の道具にする人もいる。
ただ自分はそのどれにも当てはまらず、言うなれば、もっと傲慢な禁忌を犯していた。もっとも忌むべき考え方。善人面をして、社会に紛れ込んだ邪悪な心を持った悪魔というのは、まさに自分のような考えをもつもののこと。
『謝ってるだろ』『こんなに不幸な目に遭ってるのに』
『なんで俺ばっかり!』『他にどんな償いをしろっていうの!?』
『昔のこといつまでも引きずってんじゃねーよ』
僕が今まで出会ってきた人たちの声が、耳のどこかで鳴った。どれほど傲慢な考えなのか、僕はわかっていたはずだったのに。心底嫌っていたはずだったのに。生き残ることを免罪符にして、あるまじき考えに浸っていた。
「…でも、父さんや母さんのこと…どうするの…?」
死ぬということがどういうことなのか、多分、直前になるまで恐怖は湧かないだろう。その時になって見苦しく命乞いをするようなことには、きっとならないけど。
負け…つまり死を受け入れるということは、二人のことを諦めるということ。ここに来た目的ごと、投げ打つということ。
自分自身がそれに納得できるかどうかは、今はよくわからない。
納得という言葉では的確に表せてもいない気がするのだが、然るべきを待つ…ただ裁断を受け入れるというのが近いのかもしれない。
「……帰ってこないってのは、要するにそういうこと、だろ」
投げやりな声に、僕は静かにシュウを見つめた。シュウは僕の方を見なかった。その横顔には強い感情があらわれていたけれど、それが怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか、わからなかった。
ただ一つ言えるのは、決して、穏やかな感情ではないということ。
シュウは冴え切った冷たい目で、僕に視線を返した。
僕よりも父さんに会いたいと思ってると言った少し前のシュウは、心の奥底で、やっぱりそんな不安を押し隠していたのだろうか。
「あの時…捨てられた事実を目の当たりにした時点で、俺たちは両親を諦めるべきだったのかもしれないな」
ここに来る前は、ただ会いたい一心だった。利賀さんに手がかりをもらったことで後押しされて、探しにいくことを決めた。
けどここに来て…目を逸らしていたかったことに向き合う中で、きっとシュウの心も、いくべき方向に進んでしまったんだ。
そう思って、僕はなんだかぬかるんだみたいな気持ちになった。
「お前には言わなかったけど…顔も上手く思い出せないような人たちじゃねーか…俺にはアイさんの方がよっぽど親だよ」
「!!」
頭の奥で、音がした。
それは確かな亀裂だった。
吸い込んだ息は肺を満たすことなく、内側から冷たく引き締めるような感覚がして、声が詰まった。
あまりに冷たく聞こえた言葉に、なぜと思うと同時に衝撃が走った。
「…なんで…そんなこと言うの…?アイさんは何も話してくれないし、父さんのことでだって、きっと何か知ってるのに隠してるんだよ?」
彼女がイノハナを告発しようとしたのはきっと、僕らが父さんのことを知るのを阻止しようとしてるから。
シュウにいうのを躊躇ったのは、シュウがアイさんのことを好きなのをわかっていたからだけど…
父さんや母さんのことをまるで他人みたいに言うシュウに、少なからず反感があって、言わずにはいられなかった。
けれど、こんなにも心が覚束なくなっているのは、僕自身にもほんのわずかに、ふたりのことを幻か何かだと思ってる節があったからだった。
「もういいんだよ父さんのことなんか…!何を隠されてようが、アイさんが俺たちに知ってほしくないからだろ…だったら知らないままでいいんだよ!」
言いながらシュウの目には涙が溜まっていた。
死が償いだと言ったことも、こんなふうに取り乱すのも…きっとシュウも、この状況にいることが限界なんだと思った。アイさんへの信頼だって、なんだか投げやりだった。
兄でいてくれようとしていることも、きっと限界なのかもしれない。
「父さんが大事なのは俺たちじゃなくて、母さんなんだよ…。じゃなきゃ、母さんの子どもである俺たちを見捨てるわけねーじゃん」
「…普通ならそういう感覚になるなのかもしれないけど…綾川の家が二人にしてきたことを思えば、きっと夫婦である以上に強い思いがあるんだよ」
「なんでお前がそんなことわかるわけ?そうだったら捨てられても仕方ねーの?どっちにしろ、アイさんがずっと面倒を見てくれたことには変わりない」
赤く充血した目が、月明かりの下で心許なく光っていた。
「そうじゃないよ…!二人がいなくなったのは、そもそも僕らのせいなんだよ?このことはもうとっくに受け入れてたはずでしょ?」
「…わかんねーよ……っ」
理性的に考えられている今だから言えること。かつて僕だって、捨てられたんだと知った当時はシュウのように思った。
涙を拭おうと思って伸ばした手を、シュウは払い除けた。片膝を抱えて顔を埋めたまま、低く唸るようにもう一度言う。
「自分のせいだってわかってんのに…なんで…あの日のこと思い出せねーんだよ…!」
悔しそうな声を聞きながら、行き場を失った手が力なく床に垂れた。
あの日。
母さんが、血溜まりを残して消えた日。
僕は、その日のことをよく覚えていない。
覚えているのは…視界にチラつく強烈な赤と、黒と、白。鼻にこびりついた血の匂い。シュウか僕のかわからない繋いだ手の震えと、口の中の唾の味。父さんの潰れそうな叫び声………
僕の記憶の始まりは、いつもそこからだった。
「…でも……もう全部関係ない。このゲームが終われば俺も終わりなんだから」
「…そういう投げやりな気持ちじゃ、償いにならないよ」
「……お前はどうなんだよ。そのいいようじゃ、父さんのこと諦められないんだろ」
相変わらず僕を見ないまま、シュウは言う。
諦められない、と強い感情かどうかはわからなかった。父さんのことを思ってみても、“償い”を考えると、ここに来た時ほど生き残らなくてはと思ってもいない。
「アイさんにしたことで、死が償いだって言うなら、抗おうとは思わないよ。ここでこれ以上罪を重ねる気もない」
僕ら自身が、贖罪の方法や赦し赦されを決められない。人が生み出したものである限り、“神様”にだってそんなことできやしない。
だから、自分にできる向き合い方で背負っていくしかないんだ。
シュウは、少しの間何も言わなかった。
「…この先の未来を断つことが、生きた16年分の償いになるなら、自分の一番の目的は果たされる。だから諦めるっていうより、やっと踏ん切りがついたって感じ」
父さんに会いたかったのは、本当は自己満足のごめんなさいを、言いたかったからだ。席が埋まることも、家族の日々を望むことも、ただの幼い願いに過ぎなくて。
会いたい。それつまり、ただ償いたかったってこと。
その方法をずっと考えていたから、最初からここでいう償いに身を委ねればいいだけの話だった。
自分の気持ちに答えが出たら、もう、大しけだった大海もやがて穏やかに凪ぐだろう。
「死ぬってやっぱこえーのかな…」
幾分か落ち着いた声色に頬が緩んだ。
「死ぬことより、死ぬ前の方が怖いかも。どうする?漫画みたいに一本ずつ手足ちぎられるとかだったら」
「餓死するまで絶妙に生かされんのも嫌だな」
「それこそ最初に言ってたみたいに、死んだ方がましだって思うくらいの罰じゃないと償いにはならないかも」
もしも自分の大事な人を奪われたりしたら、絶対そうすると思う。
少しした後で、シュウは神妙な顔で言った。
「……俺、お前には生きてて欲しい」
「そう…?僕は一緒がいい」
そう言うと、困った顔で笑った。
青い夜の部屋は、そこに在るものを不安げにも、弱々しい優しさを帯びているようにもみせた。月明かりが神々しい光で僕らを包むあいだは、その幼さを守ってくれてるような気がした。
ゲーム版のシナリオは少し改変します…