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いつかゲームになる日まで  作者: 白藤あさぎ
14/32

    -File 6-

前話のゲームマスターのセリフのカギ括弧表記が間違っていたので編集しました。


お待たせしました。第二章、これにて終幕です。




   −アダグチ コウの部屋−




彼は世の中をよく理解していて、人を見る目があり、人の話をよく聞いて、自分の好機になりうる情報を嗅ぎつけ、いち早くチャンスを掴むのが得意だった。


そして、自分の人生で彼が何よりも愉悦を感じる瞬間は、他人の臓物を貪りその口を真っ赤に染めるとき。

他人の不幸は蜜の味。計画通りに獲物が壊れ、並べられた収穫物に舌鼓を打つ。


全ては自分の私服を肥すため。

食べても食べてもやがて空いてしまう腹の中は、いつも誰かの不幸で満たさなければいけなかった。

___



彼の部屋には3つのレリックを用意した。

ひとつは蹲って宙を見上げた子供の置物。

もうひとつは鼻の長い少年の木彫り人形。


さいごのひとつは、空と海と少女が描かれた港の絵画。


___



「なあ、上手い話があるんだが」


それが、いつも始まりの一言。


息をするように嘘をつく。

その基本は、真実を適度に織り交ぜること。そしてなるべく、自分の経験に基づく話であること。どこかから真実が漏れてはいけない。綻びが一度見えて仕舞えば、人は信用しなくなる。


そして一番大切なのは、自分自身が誰も信用しないこと。


表に出したりはしない。適度に人間らしい感情を見せて、失敗と努力を重ね、他人に共感されやすい人間を演じる。

背面では常に達観した意識を持ちながら、そうして世間に溶け込む自我を造った。


残ったのは、剥離した機械的な思考と、ホンモノを見失った干からびた心臓だけだった。


自分の中に、見聞きしているものについての俯瞰した思考が存在していることは、物心着く頃から感じていた。


その思考は両親の自分への期待とともに育っていった。

いい学校に行きなさい。常に成績トップでいなさい。苦手は全てなくしなさい。友達は選びなさい。

言い訳してはいけません。怠けてはいけません。誰にも負けてはいけません。弱さを見せてはいけません。


重厚に、厳重に、凹凸一つないきっちり整った細い道の両脇は、コンクリート固めにされていた。

___


彼は置物に触れ、その頭をそっと撫でた。

焦がれるように青い絵画を見上げていた。

___


脇目も振らずただ歩くことが生きることだった。外の世界の音も匂いも、存在すら知らない多くのものたちに埋もれてしまわないように、必死に息をしていた。


進んでも進んでもゴールの見えない窮屈な灰色の道。申し訳程度にある格子窓から時々聞こえてきたのは、生まれたばかりの弟の泣き声と、甘くあやす両親の声だった。



『母さん、あのね…』


幼い手が袖口を引く。まだ小さな体には抱えたファイルが大きく見えた。

そこには自分の存在証明が一生懸命溜められていた。


『何?ああ…成績ね。一番なんでしょうね?』

『うん。またクラスでも学年でもいちばんだよ』

『そう。ならいいわ。今ちょっと忙しいの。あの子の迎えにいくまでに部屋を飾りつけなきゃ』

『…』


言いかけた言葉を飲んで閉口した。

母はきっと、自分が嘘をついたってわからないんだろう。ただ勘違いしてはいけない。それは信用されているわけでは決してない。


両親は、明らかに自分と同じようには弟に期待をしていなかった。

それはしばらくの間優越感ではあったが、自分よりはるかに劣っていても欲しい言葉をいつも与えられていた弟を見て、それは間違った感情だったことに気づいた。


爆発的な思いを抱くことはなかった。何か強い変化をもたらした出来事があったわけでもなかった。復讐とか恨みとか、被害者意識があったわけでも多分ない。他人に言わせればおそらくそう解釈されたかもしれないが、本当に自分の中では、そんな感情はなかった。


ただ、静かに着実に、心の中に灰色の真綿が降り積もっていた。


声がしたんだ。体から離れ干からびた心が、ひとつの答えに辿り着いた。


こんな家族いらないって。


___


手のひらの上。自分の思い通りに動き、思い通りの結果をもたらす駒。それがいつの間にか手中を離れていることも、知らぬ間に知恵をつけ逆襲される展開も、あらゆる物語の中で語られ尽くした。


彼の過去にも、そして彼の両親と弟にも同じことが起こった。

___



自分が自分を保っていられたのは、他でもない両親に与えられた精神力と知識のおかげだった。だからいつか“お返し”する。水面下で静かに育てあたため続けた、とっておき。


彼らの驚く顔が見たくて。


そうしたらきっとこう言う。成功以外に認めなかったのだから。


 よくやったね、さすがお兄ちゃん




木彫りの人形は、その精巧な作りに一目惚れして買ったものだった。

それから…ほんの少し自虐的な意味合いもあって、モデルになった童話に登場する少年は嘘つきだとか、妖精の魔法で人間になったとか…魔法はともかく、なんとなく自分と重なって思えた。


___


彼は懐かしむように人形に触れた。

かくんと傾いた首を人差し指で持ち上げて、輪郭をゆっくりなぞる。

___



あれは…そう、今から10年ほど前のことだ。



自分の思い通りに動く操り人形。やり方さえ知っていれば、感情も思考も操ることができる。

人形と違って、人間を操る時は注意が必要だった。なにせ目が足りないから、一度視界から外れてしまえば何かに影響されて余計な動きをするかもしれない。


だからこそ、誰かを唆して操るのは愉しくて仕方ない。


自分の言葉で巧みに操りながらも、どこかで予想外の動きをする。少しずつリスキーなゲームになっていくあの高揚感は、この退屈な日常においてヨダレが出るほど美味しい食事だった。

実験台になった家族は簡単に壊れてしまったから、もう使い物にならないし。もう両親よりも社会的地位を確立した今、あれらはゴミクズ以下だ。


『先輩!お久しぶりです。大学で何度か研究の面倒見てもらった松浦です。覚えてますか?』


4月、新入社員の一人は見覚えのある青年だった。爽やかな短髪に垂れ目の、笑った顔が人懐っこく快活で、第一印象は好感を持たれやすいタイプ。

二年ほど前の大学時代を思い出す。確かゼミの後輩に松浦賢一ってやつがいたっけ。


『ああ、覚えてる。お前もここ志望だったんだな。入社おめでとう』

『俺、先輩に憧れて入ったんすよ!また指導お願いします!』

『ははっ、教育係はまた別のやつみたいだぞ。まあ同じ部署ならいつでもなんでも聞いてくれて構わないから。よろしくな』


歯を見せて笑う松浦と握手を交わした。


松浦の自分を見る目は、羨望、憧憬、それから盲信に染まっている。とても扱いやすいタイプの人間。正直面白くはない。張り合いのないイージーモードだ。そういう奴はとことん利用するだけに限る。


松浦賢一は、実に都合のいい捨て駒だった。さほど優秀ではないからか、人より劣等感を抱きやすく、直情的な正確が裏目に出るのか友人関係も広くない。おまけに、家族仲は最悪だ。調べによれば出来のいい姉と弟を持っているせいで、どちらにも比べられ窮屈な思いをしてきたらしい。

強いて言えば、単純すぎることがリスクと言えてしまうほどに、自分の言うことを何一つ疑わず忠実に動いた。

ほどほどに孤立していて、扱いやすい。松浦はそんなやつだった。



この計画の発端は、ただの向上心から。

有り余る金が要る。

こんなちっぽけな会社から抜け出して、自分のやりたいように事業を始めるために。いくらあっても足りないだろう。だから協力者を得なければならなかった。


いざとなったらスケープゴートにするために。


そして今回の計画で、この会社ごと汚濁に塗れさせて潰す。 痕跡を完全に闇に葬り、自分に関するデータは白いままで詮索を逃れる。その上で得た金を使って新しく始める。

保障事業とは詐欺の手口に実に嵌めやすかった。グレーゾーンを行く会社には事件が起こればとことん調べが入る。それを利用して自作自演の潔白証明を行い、『犯人』を始末すれば勝手に終幕。

どんなリスクを負ったとしても、やるからには成功する以外に辿る道はない。


今までずっとそうだったのだから。



『先輩、俺…これから先どうしたら…』


松浦の顔にははっきり絶望が浮かんでいた。頭も容量も悪い、明るさだけが取り柄とも言える奴の面影がどこにもない。目は落ち窪んで幾重にも弛み、隈も酷いし、青髭が生えて頬も痩けていた。焦点が定まっていないぎょろっとした目を右往左往させて、小さな音にもびくりと怯えて肩を縮こませている。


これほどまでに奴を追い詰めたのは、他でもない詐欺の被害者たち。ものすごい大金を巻き上げていてくれたおかげで、積み重なった憎悪の対象としてしっかり精神的に追い詰められている。

訪れた松浦の部屋の玄関扉は、何重にも死ねだの償えだの、金を返せと散々に張り紙がされていた。そのうち剥がすのもしなくなったようで、中途半端にテープの跡が残った部分もある。部屋の電話線は抜かれていたし、カーテンも締め切られていた。


口の緩みを抑えるのが限界に来ていた。

これだけ精神的にやられていれば、奴がとる行動はひとつ。

あとほんのひと匙を舌に垂らしてやるだけ。


『正直…お前は誰かを騙せるような奴じゃないと今でも思ってる。こんな大きな詐欺一人じゃ無理だろうし、犯人ならもっと堂々としてそうなのに…』

『っ…信じてください、俺…ほんとに…っ』


鼻に詰まった声は疲れ切った顔も合間ってか余計に悲痛さを増した。

松浦が疑われるように仕向けたのも、個人情報が漏れたのも、全部裏でそれとなく口利きしておいたから。できれば自ら死んでくれたら楽なんだが、最終的にはやはり自分でやった方が確実だろう。


とはいえそれはかなり最終手段だ。準備はしておくが、まだ自殺の引き金に手をかけておく。

誰かの“自殺”が、自分の匙加減であることを噛み締めるこの瞬間がたまらなく愉しくて仕方がない。


腕時計を見て時間を確認する。今日ここにいることは誰にも知られてはいけない。用意していたアリバイ工作のタイムリミットまであと27分。それまでにこいつを眠らせ、首に縄をかけておけば起きた時にはすでに手遅れ。勝手に死ぬだろう。ここのマンションの監視カメラは昨日から故障で取り替え中だし、たとえ誰かとすれ違ったってこの一度しか来たことのない自分が疑われることはまずない。


失敗しようのない完璧な計画。


『とりあえず、お前の営業ファイル見せてみろよ。もし何かしらおかしいところがあればどこかに痕跡があるはずだろ』


そういうと、松浦は腕で目を擦った後で頷いて、仕事用のカバンを漁り始めた。


『けど…ほとんど会社に没収されて警察にも調べられたんで…オレの手元にあるものも少ないです…』


松浦の目が完全に逸れた時を見計らって、大量の睡眠薬をカップに入れた。奴がこういう状況になってから飲んでるハルシオンの粉末。睡眠薬で自殺しようとしたがうまくいかず首吊り。そういうふうにシナリオを書いてある。


飲んでも飲まなくてもいい。これが残っても大して問題はない。警察は自殺のために用意したと勝手に解釈する。


これから垂らす本当の『薬物』は、こんな睡眠薬なんかより強烈な錯乱状態をもたらすだろう…


『…老夫婦が自殺したってな…今回の事件で多額の負債を抱えて、保険金欲しさにやむなく、だっけか』


何気ない口調で落とした言葉は、目に見えずとも松浦の耳にじんわりと入っていくのがわかった。

コップの縁に溜まった水を溢すのは、爪を掠めるだけで十分。


ニュースでも大々的に取り上げられたある夫婦の顛末。松浦が人殺しと罵られることになった、数多くのうちの一つ。家庭崩壊や闇金の被害、上記の動機で何件か殺しも起きたらしい。

詐欺の犠牲者の末路を、メディアは悲惨に悲痛に、まるで松浦が全て原因とでもいうように報じた。


追い詰めようと言った言葉に、松浦は大袈裟なほど息を吸い、剥いた目はぎょろぎょろと焦点が定まらず、頭を抱えて叫んだ。


『オレのせいじゃない!!オレのせいじゃない!!オレのせいじゃない!!__!!


その咆哮は、訴えるなんて生やさしいもんじゃなかった。喉が裂かれ血が噴き出すんじゃないかと思うほど鋭く、かといえば乱暴に叩き殴るように潰れて飛散した叫び。

針のような息をゼェゼェと吐き出す。肩を激しく上下させ、頭を掻きむしった爪には皮膚が血とともにむけていた。


ごくりと一度唾を飲む。それが自分のだったのか、松浦のだったのか。


いつだって達観した意識を持っているはずなのに、その時の彼の叫びが耳の奥にねじ込まれるようで、痛みを感じた。

あまりの激しさに面食らったか…もっと言えば、それは警告だった。操る側の人間が飲まれるなどそんなことは許されない。


計画の失敗は、文字通り存在の破滅だ。


もう問答無用で締め殺す。そう決意した時だった。

松浦は急に糸が切れた人形みたいにだらりと腕を垂らし、宙を見つめたまま動かなくなった。


『…おい』


あかりのない部屋の中で、松浦の体だけがぼんやり浮かび上がっている。その異様な存在感が、タチの悪い不気味さをもって背を這う。


投じた匙は思った以上に松浦を壊すことができたらしい。

手を下す必要がなくなったのか…?まだ迷いながらも、縄を握りしめていた力を少し緩める。


『先輩』


やけにはっきりした、それでもさっきの名残で掠れた声で松浦が呼んだ。


『もういいや』


嫌な予感がした。まさかここにきて開き直るつもりか。

いい加減覚悟を決めなければ、これ以上は待てない。松浦の死角で縄を取り出した矢先。


松浦は不気味なほど凪いだ笑顔で言った。



『オレを、殺してください』





手の中の日記帳の一部をぼんやりと見つめながら、端にライターを近づけた。炎はそれを世界に溶け込ませるように輪郭をのみこんでいく。


>明日 コウさんが来てくれる。多分、それが最後の予定になる。

ひとりじゃ怖くてできなかった。何度もやろうとしたのにできなかった。

けど、先輩がいてくれるなら、見届けてくれるなら


破いたページにはそう書かれていた。


松浦の奴、こんなものを書き残すとは捨て駒の分際で気が抜けない。さいごに何を必死に手を伸ばしていたのかと思えば…危うく自殺関与で疑いがかかるところだった。同意殺人といえど経歴に傷が着くのはごめんだ。書面があるわけでもなし、立証もできない。


さっき渾身の力を使った腕が、まだ震えている。人の首を絞めるのには存外力が要るようだ。その後体を吊し上げるのにも大人の男一人の体重は容易ではなかった。痕跡が残らないようあらゆる準備はしていたし、毛髪一本もみつからないだろうが、疲れた。


アリバイ工作のタイムリミットまであと2分。多少の誤差は仕方ない。暮れの空に悠然とため息を吐き出して、ゆっくり帰路についた。



全ては筋書き通りに。

松浦の遺体が発見され、会社も責任を追求を逃れることはできず当然のごとく倒産。路頭に迷った社員もいる中で、自分は部屋でひとり甘いワインを揺らしていた。グラス越しに見た街並みはブラッディレッドに塗りたくられ、多くの人々の血と涙から精製されたワインは心地よく喉の渇きを潤す。


そうして事件は目まぐるしく巡り巡る世間に散々に食い物にされた後で、音もなく風化していった。


___


これからの未来を見据えていても襲ってくるこの渇き。何度繰り返し満たし埋めようとも、際限のないことに絶望さえ覚えた。

どれほど上に昇り詰めようと、それに終わりがくることがない。どれほど自由を手にしていようと、結局自分は、幼い頃のようにコンクリート固めの道を歩かされているような気がした。


抜け出す方法がわからない。

そこから逃げたくてたまらないのに、気づけば自ら望んで進んでいる。その意識がまた自ら首を絞めている。


満足できない。有り余る金を手にしても、誰もが羨む地位を築いても…追い求めて成功を収めた先に、『自由』はない。


永遠に渇き続け、満ち足りることはない。





蹲って宙を見上げた子供の置物は、物言わずその絵画を眺めていた。


彼も、その絵画から目が離せなかった。


そこに描かれているのは、彼のもっとも忌むべき重罪。

そしてかつて、彼の利己的な偏愛主義の犠牲となった人物への弔い。


彼は理解した。

『彼』のいう己の罪がなんなのか。

この船がなんなのか。この場にいるゲストと呼ばれたものたちが、一体なんの罪を背負っているのか。


一度は揉み消したはずのその罪は、再び彼の前に死の戦慄を突きつけた。

遠く記憶に掠れていた埋め殺したはずのその罪は、再び彼に、敗北という名の屈辱と憎悪を掻き立てた。


最後のレリックは、彼の愛憎そのものだった。

それは松浦の死よりもさらに前の出来事。まだ彼が学生だった頃のこと。


ある二つの出会いが、彼を暴食の悪魔へ身を売る原因となった。


___



徹底的に叩きつけられた圧倒的な力の差。頭脳だけじゃ無い。研究開発も経営も、商戦も、あらゆる面において何一つ敵わなかった。自分の信じてきたもの。積み重ねてきたもの。血反吐を吐く思いで成り上がってきた忌まわしい過去全てを嘲笑い、軽視するかのように。

生まれた時から完成された人生を約束され、欲しいものを全て手に入れていたあの憎むべき化け物。


何年も自身を苦悩に追い込み、舌は味覚を失い、食事は喉を通らず、悪夢にうなされ薬に浸る日々を強いられた。


奴は自分から全てを奪った。金も地位も権力も、なによりアイシた人も。


だから奪い返してやっただけのこと。だから、この苦しみに到底及ばない、ささやかな不幸を贈ってやっただけのこと。それを今更蒸し返し、執拗に追い詰め報復されるなど冗談じゃない。


内側から激しく殴られたように何度も心臓が脈を打ち、痛みに汗が吹き出した。血が急激に滾ったせいか鼻血が垂れ、全身が拒否反応を起こす。


底の無い水の中で、永遠と首を絞めながら沈めていたはずの存在が、いつの間にか泡に紛れて消えていた。



そして今、その存在に命を握られている。


___



湿った冷たさに短く息を切った。

どれほど意識を失っていたのか、思い出したように咳き込んで呼吸する。

Noseは…執行人は犯人を殺し損ねた。我ながらしぶといなと嘲笑を漏らした。


天井に開いた穴の奥にあった手がかりを取るために体ごと入ったはいいが、まんまとNoseに裏切られるとは…。ここにきてから感覚が鈍ったか…。寝転がった状態で下から首を絞められるなんて、完全に油断した。喉を引っ掻きもがくうちに、かけられた首の縄にかろうじて指を入れられたおかげで、一時的に意識は飛んだがなんとかまだ生きているらしい。


…仮死してからどのくらい時間が経ってる…?

まだ酸素が周りきっていない。頭がぼーっとする…

今戻ってもNoseが何か画策しているかも知れない。このまま死んだことにされていた方がいいのか…?とにかくここじゃ見つかるのは時間の問題だ。執行人にバレるより、様子を見る方が得策だろう。


そう思って、とりあえず穴から下を覗こうと体を動かした矢先だった。


気配もなく覗いていた顔に、心臓が氷を刺したように固まった。息も声も、何にもならなかった。


まっくろい虚のような目が、瞬きもせず見開いたまま、無表情でじっとこちらを見つめている。

いったいいつからそこにいたのか、得体の知れない気配に何か底冷えするものを感じて、冷や汗が首元を伝った。


声にならない声が喉を引っ掻く。掠れた息でようやくそいつに言った。


『…なんだ…あんた…』


意味のない問いかけ。自分でも何を聞けばいいのか、ただそいつが纏っている異常な空気感に脳はとっくに支配されていた。


目玉があるはずのその黒い穴の中に、無様に恐怖と困惑を浮かべた男が転がっていた。


そいつは問う。


『口か、耳か、目か、鼻か、手か。どれがいい?』


形のいい唇が、言葉に合わせてゆるやかに動く。そのもったいぶった微動から目が離せなかった。とても耳馴染みのいい声。涙が垂れるのは、息がうまく吸えないせいか、自分の犯した罪とやらの正体に慄いているせいか。

そいつが問いながら、まだ首にかかっていた縄をギリギリと絞めていた。


選べば何をされるのか。


【何もしなければ あなたはそれを失います】


ゲームマスターの声が遠鳴りのように聞こえた。

答えなければ殺される。何か言おうと喉を開けるが、息が通らず咽せることすらままならない。


『がっ…ぁ、…っ…』


首を思い切り締め上げられているせいで、意識が再び朦朧としてきた。苦しくて耐えられず必死に喉を開こうとしても、舌が突き出るばかりで何も考えられない。


それを、応えととったらしい。

そいつは光のない目をしたまま、愉しそうに喉を引き攣らせた笑い声を立てると、首の骨を折る勢いで縄をさらに締め上げた。


明らかにNoseより深い殺意を前に抵抗する術がなかった。

その人物は、知っていた様相とは程遠かった。


さいごに脳裏に蘇ったのは、一欠片も届かなかった懐かしい愛おしさだった。



___



           人間だけに許された叡智の象徴

          時には心 時には事象 時には虚実

        人を生かし 殺す 最も罪深い力を持つもの


       愛を囁き 誓いを立て その証に口付けを交わす

           最も崇高で尊い熱を持つもの




           その扉は永遠に閉じられた。





第二章



死 人 に 口 な し

— — — — — —




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