プロローグ
−プロローグ−
「アマネ、ここにいたのか」
自室の椅子に腰掛けて、本を読んでいたときだった。秋の穏やかな日差しが薄いカーテンを抜けて柔らかく揺れる。
顔を上げると、扉のところで自分とそっくりな顔がこちらを見つめていた。あずき色の髪に濃藍色の、少しだけ切れ長の瞳。
彼は僕と目が合うと、それを入室の許可として部屋に入ってくる。
学校が一週間の秋休みに入った休日の昼下がり。午後のひと時をどんな風に過ごそうか、彼は暇を持て余して訪ねてきたようだった。
「サッカーはもう飽きたの?」
自分みたいに部屋に篭って読書に耽るより、彼は外で体を動かす方が好きなタイプだ。抜群の運動神経で大抵のスポーツはそつなくこなすし、1人でボールを追っかけていても楽しめるらしい。夢中になって夕飯まで帰らないことのほうが多いから、今日みたいな天気のいい日に、昼間のうちから家に戻ってくるのは珍しかった。
尋ねる僕に、向かいのソファに寝転がった彼は天井を見つめたまま首をふる。
「いや、なんか…気分じゃなくなった」
「ふぅん…。珍しいこともあるもんだね」
そう言って笑うと、不服そうに口を尖らせた。
特に話すこともなく、会話が途切れると僕はまた本に視線を戻す。ページをめくる紙の音と、開け放たれた窓の向こうで木の葉が揺れる音。この部屋は憩いと安らぎの気配に満ちていた。
コンコン。
しばらく経った後で、毛色の違う音が割って入ってきた。まどろんだ空間に響いた軽快なそれは物語に没頭していた意識をふっと引き寄せる。視線を上げて振り返ると、開けたままだった部屋の扉の前に、この屋敷唯一の使用人であるアイさんが立っていた。そばにティーセットとお菓子を乗せたワゴンもある。
「アイさん、紅茶を持ってきてくださったんですね。どうぞ」
僕がそう言うと、彼女は頷いてワゴンを押して入る。シュウも寝転がった姿勢からきちんとソファに座って、アイさんがローテーブルに紅茶とお菓子を並べるのを手伝った。彼女を手伝う時、シュウはいつも彼女の手の甲についた引き攣れの痕を無意識に気遣っている。
「ありがとうございます。いただきます」
ちょうど目が疲れてきたし、一旦休憩しようとしおりを挟んで本を閉じる。
アップルティーの甘い香りが体の中を満たすと、ほっとため息をついた。
僕が紅茶に手を伸ばした向かいで、シュウは焼きたてのマドレーヌに噛り付いていた。それを見て、彼に気付かれないように笑った。
僕らは双子だからといって特別仲がいいわけでも、まして悪いわけでもない。四六時中一緒にいるわけじゃないし、趣味も性格も違うし、外見だって色素は同じでも決して鏡写しでは無い。一卵性の双子だけど、僕らを見分けられない人はあまりいない。
僕はシュウをみていて、自分と違う部分が綺麗に対になっていると感じると、面白いと思うと同時にとても居心地が良くなる。2人で1つとか、足りない部分を補い合うとか、そんなふうに考えたことは無いけど、お互いにバランスを取りあっている自覚はあった。
双子らしい部分があるとするなら、ありきたりだが、お互いの考えていることがわかることだろう。目を閉じていても、触れていなくても、感じていることが手に取るようにわかる。それを自覚できる時、僕らは誰の手も届かない高みで穏やかに心を委ねられる。
セットを終えたアイさんは、最後にテーブルの端に白い封筒を置いた。なんの変哲も無い、ただの封筒。そこには僕とシュウの名前が書かれていた。僕らはそれに視線をやったあとで、アイさんを見る。けれど視線に気づかず、彼女はいつものようにお辞儀をして、去っていってしまった。
「…手紙、か?」
「みたいだね」
シュウが封筒をとった。裏返して、差出人の名前を確認する。そこで彼は顔を顰めて呟いた。
「何も書かれてない。なんだこれ」
「アイさんから…なんてことあるかな」
僕らの世話係であり、唯一の使用人。生まれた時からずっと仕えてくれてるマダラメ アイさん。彼女はどういうわけか話をしない。声を出さないし、筆談もしようとしない。話す意志が無い。だから話さない訳を聞いても答えは得られなかった。
僕が言ったことで、シュウは封筒を開けて手紙を取り出した。言ってはみたけど、正直彼女からだとは思っていない。案の定、僕の予想は外れたみたいだ。シュウの表情がそれを物語っている。手紙を持ったまま微動だにしない。
「どうしたの…?」
「…意味わかんねぇ…いたずらじゃねえの」
そういって差し出された手紙を受け取って読んだ。いや、見たといったほうが正しい。そこには目を通すほどの内容はなく、たった一行。
Brain 考えるもの
ワープロの均整な文字でそう綴られていただけだった。
「…脳?」
「考えるっていったらアマネ向きだろ…」
いたずらと決めたのか、面倒くさそうに呟くとシュウは紅茶を飲んでまたマドレーヌに手を伸ばした。
アイさんが持ってきたということは、ポストに投函されたものだ。けれど郵便を介した形跡がなく、封筒に名前だけしか書かれていないことを踏まえると直接入れられたのは間違いない。
いたずらで片付けようにも、なんだか薄気味悪い。送り主の意図がなにも見えない。
とはいえ、それ以上どうすることもできずに僕は手紙をテーブルに戻した。
「アイさん、不審がらなかったのかな」
「不審がっても、俺ら宛の手紙を勝手に開けるわけにいかないだろ」
「…そっか…」
僕はそこで初めてマドレーヌを口にした。甘くて素朴なプレーン味。アイさんの料理はなんでも美味しい。優しい、どこか母さんの味に似てる。
もうほとんど覚えていないのに、あたたかい温度だけを色濃く遺していった母さんの記憶を、ぼんやりと巡った。柔い食感を口に感じながら、甘さの中に身を溶かしていくように。
沈みかけた太陽の強いオレンジが背後から部屋の中を照らす。向かいに座っているシュウの髪が、その光で金色の筋を煌めかせていた。
「今…どこにいるかな」
唐突に呟いてみる。シュウがいるけど、彼に問うわけでもなく。
それでもその声に、シュウは僕を見た。脈絡のない言葉だったのに、なんのことを話そうとしているのかわかったようだ。
「…どっちが?」
「…どっちも」
言いながら、なんとなく気持ちが弱くなっていたことに気づく。この夕暮れ時の空の色が、僕をそんな不安に誘う。紫ともオレンジとも、ピンクとも水色とも言える中途半端な空の色。追ってくる夜の気配が滲んでいた。怖い、という言葉では言い表せない漠然とした不安を掻き立てるのに、なぜかとても優しい。
時々思う。父さんも母さんも、この淡く切ない夕空の向こうにいるんじゃないかって。2人が幸せに愛し合える場所は、そんな遥か遠くにしかないんだって。
「どこにいるかより、どうしているかのほうが俺は気になる」
「……」
僕は答えられなかった。それは、目を背けていたい問題だったから。
考えないようにすればするほど、逆にその事実を認めていることになるのだとしても、甘さにずっと浸かっていたい。
「どうして俺たちの両親のことなのに、俺たちが何も知らねんだよ…」
シュウの声はとても掠れていて消えそうだった。僕はこれにも何も言えなかった。苛立たしげに立ち上がって窓の方に歩いていく背中を、ただ見つめるだけ。
冷たくなった風がシュウの前髪を撫でて揺らす。表情は見えなかったけど、きっと僕と同じ顔でいるのだと思う。
何も知らない。
今どこでなにをしているのか、帰ってくるのか、だとしたらそれはいつなのか、何も知らない。
母さんは、僕らが幼いころ…まだ物事を理解出来る年齢ではなかったころに、血溜まりを部屋に残していなくなった。
いなくなったとしか、いいようがなかった。一瞬のうちで、姿がなくなってしまった。
その事件で僕が記憶してるのは、視界にチラつく強烈な赤と、黒と、白。鼻にこびりついた血の匂い。シュウか僕のかわからない繋いだ手の震えと、口の中の唾の味。父さんの潰れそうな叫び声。
なにが起こったのか、そのあとどうなったのかはまるで覚えていない。
ただその事件が、それまでの幸せな記憶を全て塗りつぶしたのはまちがいなくて、この家の中は一瞬で灰色になった。
父さんはそれ以来、変わってしまった。僕らを抱き上げることも、頭を撫でることも、怒ることもしなくなった。
朝早くに仕事に行って、真夜中に帰ってきて、休日は部屋に篭りきり。家事も僕らの世話も全部アイさんに任せて。
そして、今から3年ほど前。僕らが中学に入学すると同時に、父さんはいなくなった。仕事に出て行ったきり帰ってこない。置き手紙もないし、なんの前触れもなくいなくなった。
いや…前触れならもう、母さんがいなくなった時点であったのかもしれない。母さんがいなくなってから、父さんの心は少しずつ水に浸かっていくように青くなっていった。悲しみすら通り越して、心が透明になっていくのが目に見えていた。
「ずいぶん調べたのにね…結局なんにもわからないままだ」
父さんの失踪を機に、物心ついていた僕らは母さんが消えた事件のことも、父さんの居場所のことも、思いつく限りを尽くして調べた。一番はじめに問いただしたのはアイさんで、けれど彼女は決して口を割らなかった。本に出てくるようなセリフで脅しても頑として話さない彼女に折れて、僕らだけで調べなくてはならなかった。
けれどまるで操作されているようになんの情報も得られない。当時13のこどもが大人に何を聞こうと相手にされなかった。警察も、僕らは当事者だというのに、父さんの行方を探すどころか、母さんの事件のことすらまともに取り合ってくれなかった。得られた情報はせいぜいニュースになったことくらい。けれどそれも、僕らの曖昧な記憶を補うだけで、新しいことはなにも得られなかった。
「綾川本家が圧力かけてたに決まってんだろ。それがわかったから、いくら調べても無駄だって、追うのをやめたんだ」
「…そうだったね」
綾川家。この国指折りの財閥。政界の重役は、ほとんどこの綾川家の血族と言われるほどの名家。
父さん、綾川柳士はその綾川家総裁の一人息子であり、次期当主の座が確立されていた。僕らが自分たちの姓である綾川について知ったのは、色々調べまわってからのことだった。
学校で僕らを見る周りの目が一線を引いていることは漠然と感じていたけれど、深く考えたりはしなかった。自分の名前にそこまで大きな意味と権力があることを知らなかった。
「ねえ、何にもわかんなくないよ」
視界に入った白い封筒。置き去りにされたそれを見て、シュウに声をかけた。気配でこちらを振り返るのがわかる。
僕はシュウの顔をみないまま、言葉を続けた。
「僕、2人がいなくなった原因ならわかる」
「……」
Brain。考えるもの。僕らに足りなかったそれが、2人がいなくなった理由。
「あの日、僕らがもっと大人だったら…もっと考える力があったら、母さんはいなくならなかった。父さんの気持ちをわかってあげられてたら、甘えるなんて残酷なことしなかった。嫌になったから、二人ともいなくなったんだよ」
今ならわかる。子どもでいたことがどれほど罪深かったか。責める声はなくとも、責めることに意味がなくとも、僕らが一番許せないのは、子どもだった僕ら自身。
記憶の中にある、たった1つ確かな事件の真相。僕とシュウが分かち合う、誰にも癒せない傷。
「だったら2人とも、もう帰ってこないだろうな」
シュウの言葉に、僕は微笑んで頷いた。
どこかでわかりきっていることがある。
もう2度と、幸せな家族には戻れないということ。なによりもその原因が自分たちにあるのだから。
「この手紙…事件に関わる人が、僕らに戒めのつもりで送ったのかもね」
「…確かに。だとしたら、何も言えねぇな」
自嘲気味に言って、シュウは窓とカーテンを閉めた。部屋の中が一気に暗くなって、僕はサイドテーブルのランプをつける。ぼんやりとしたオレンジ色の光が、テーブルの周りだけを浮かび上がらせた。
「俺、アイさんを手伝ってくる。夕飯できたら呼びに来るから」
「うん。わかった」
シュウを見送って、僕は本に手を伸ばした。
まだ温かくて緩い甘さに浸かったまま。無機質な手紙は、オレンジの光の中で白さを失わずにそこにあった。
新しく長編を始めていきます。
更新ペースはとても遅いです…