10.魔法使いの新たな旅立ち
論文が評価され、長年の悲願を達成したテオフラストと同様に、ユーサーやルクロドの研究も大きく進んでいた。
その切っ掛けは「レシプロエンジン」と名付けられた往復動機関の論文を発表した科学者が実験に参加するようになった事による。
公国に招かれたネーデルラントの天才科学者、ホイヘンス博士のレシプロエンジンは火薬を使う。それを「燃える空気」に置き換えて自動車を作る実験が行われた。
貯蔵や安全性、効率性という課題をクリアして、公国から自動車が各国に輸出されるようになるのはさらに五年後の事だった。
そしてエルヴィラ自身も大きく成長した。
魔法医の卵として最優秀の成績を常に修め、その精密な治療はルクロド以上の実力と言われるほどになっていった。
学園を卒業する日、エルヴィラに学園長 アイザック・バロー教授が声をかけた。
「卒業おめでとう。君の養父の様な魔法医としての活躍をとても楽しみにしているよ」
「ありがとうございます。学園長は養父ととても仲が良いそうですね」
カールマン邸にこそ訪れることは少ないが、知人や弟子はとても多いルクロド。
そんな中でも「友人」と呼ばれる人達は医師達や錬金術の教授に加えて、この数学者であり、聖職者であるバロー教授だと聞いている。
「そうだね。年も近いし、私は君の養父に命を救われた男だからね」
「命を?」
「ああ、そうだよ。私は不治の病に侵されていて余命幾ばくもなかったんだ。アングルの大学で名誉ある教授職に就いていたが、それも弟子に譲って死を覚悟していたところ、ルクロドがやって来て治してくれた。それにこの学園に招聘してくれたのもルクロドだった。『魔女狩り対策のために、聖職者を長にしたいんだ』と言われたけど、単に仕事も何もかも無くしていた私を助けてくれたんだと思うね」
「そんなことが……」
エルヴィラが入学式で感じた謎が解けた。
バロー教授はルクロドと同年代か少し上くらいだ。バロー教授が弟子に元の教授職を譲った話は、今では天才科学者として名高いその弟子の華々しいエピソードの一つとして知られているが、まさかそんな事情があったとは。
バロー教授は続けた。
「彼は大恩を押し付けるだけでなく、私の友人としても私を上手に利用してくれて、対等な関係を築かせてくれたんだ。でも本当に感謝しても仕切れない。君の養父は素晴らしい男だよ」
「……ありがとうございます。そう言っていただけると自分のことの様に嬉しいです。私も養父に恥じる事の無い様、精進します」
エルヴィラはルクロドの養女である事を誇らしく感じた。そしてルクロドの偉大さを思い知った。
バロー教授と別れたエルヴィラは、やはり式典に参列していたルクロドの所に行った。
「エルヴィラ、卒業おめでとう。そしてこれからは俺の部下の一人だな。ビシバシ扱くからそのつもりで!」
ルクロドは言葉とは裏腹に笑顔で言った。
エルヴィラは卒業後国立病院に勤務する事が決まっている。
「ありがとう。ビシバシ扱いてね。甘やかさなくて良いから、至らない時は遠慮なく怒ってね」
「おお!素晴らしいやる気だな。エルヴィラと一緒に働ける事が嬉し過ぎて、どちらかと言えば、俺が迷惑を掛けて怒られるかも知れないから、先に謝っておくよ」
「もう!何よそれ!」
二人は声を上げて笑った。
「ルクロドは沢山の人達の命を救ってきたのね」
バロー教授だけではない。マリーとその家族やエルヴィラ自身、そして多くの患者達。
きっと他にも多くの命を救ってきたのだろう。
――敵わないなあ。
少し悔しい気持ちもあった。エルヴィラは錬金術も学ばなかった。魔導学と医学は引き継いでいくつもりだが、錬金術はユーサーやテオフラスト達、その他多くの弟子達が受け継いでいくのだろう。
予知能力だってそうだ。自分には未来を知る術はない。死の運命が差し迫っているかどうかも判らないのに、そこから誰かを未然に救うなんて不可能だ。
ルクロドの奇跡の様な魔法に自分は足元にも及びようがない。
エルヴィラはそう思いながらルクロドの顔を見つめた。
「ん?どうした?」
「……ルクロドに永遠に敵いそうもないなあと思って落ち込んでるの」
「へえ。俺は逆にエルヴィラに敵うことは永遠に無いと思ってるけど」
「えっ冗談は要らないわよ」
「本当だ。……自分でも分かってるんだ。俺はお前が幸せになるためなら自分の命をいつでも差し出せる。俺は不治の病なんだ。病名はエルヴィラ依存症」
態と眉根を寄せて見せるルクロドにエルヴィラは思わず笑いを溢した。
「ふふっ。数々の命を救った天才魔導師の言うこととは思えないわね!」
その言葉にルクロドは悲しそうに目を伏せた。
「救えなかった命も多い。……俺はずっとお前に謝りたかった。お前の母を救えず、すまない……」
「そんな!ルクロドが謝るようなことじゃ無いわ。母はお酒が過ぎていたし、どの道長くは持たなかったと聞いているわ」
エルヴィラは静かに答えた。
エルヴィラの母が流行病で亡くなった時、お酒のせいで身体がボロボロで、耐え切れなかったのだと医者から聞いた。
「……日記を読んで、お前の母が亡くなる日付は分かっていた。……死因迄は流行病としか分からなかったが……。だから俺は予めお前の母の主治医やお前の母自身に会って診察もしたし、薬も渡していた。でも救えなかった……。本当にすまない……」
生前の母がルクロドと会っていたとは思わなかった。驚いたが、日記を読んだのだからルクロドがそう行動したのは納得できる。
ルクロドは人の不幸を見過ごせる様な冷血漢では無い。逆に何としても救おうとする優しい人だ。それはエルヴィラが一番実感している事だし、周囲に慕われている様子からも、本心から誰にでも優しい人間なのだとエルヴィラは思った。
「嫌ぁねえ!謝らないでって言ってるじゃない。私は今ルクロドのお陰で幸せよ。母の死は悲しいことだったけれど、今は素敵な養父と、恋人、友達、とても大切な人が増えて世界も変わったわ。妹とも仲直りできたし、あのまま公爵家で母と暮らしてたら、きっと日記の通り罪を犯してたわ。……だから、ありがとう、ルクロド。私を救い出してくれて……」
エルヴィラは消え入りそうなルクロドの背を抱きしめながらそう言った。
その数年後、エルヴィラは奇跡の魔法医と呼ばれるほど多くの人達を救った。
テオフラスト達の薬物研究所はマリー達薬草師と製造所と協力し、薬学を発展させ、平民でも気軽に薬を摂取できる様な流通網迄作り上げ、疾病治療に多大な貢献を果たした。
公国の錬金術を活かした魔導具も数々輸出される様になり、他国の衛生面や生活の質も徐々に向上していった。
そしてエルヴィラとテオフラストは結婚し、カールマン邸で一緒に生活をする様になり、三人の子供にも恵まれて、静かだったエルヴィラとルクロド二人の頃に比べて、毎年の様に賑やかになっていった。
エルヴィラが公国に来てから三十年近い月日が経ち、エルヴィラ達に初孫が生まれた頃からルクロドがだんだん寝込む様になって来た。
日に日にベッドにいる時間が長くなり食が細くなるルクロドに、エルヴィラはとても辛い気持ちでいたが、それでも毎日笑顔で献身的に看病した。
「ルクロド、具合はどう?」
今日もベッドに眠るルクロドに静かに声を掛ける。
ルクロドが薄っすらと眼を開けてエルヴィラを見て弱々しく笑った。
「ああ、エルヴィラ……。今日は気分がとても良いよ……」
その様子にエルヴィラは安堵した。ここの所毎日、いつルクロドの姿が消え去るのか不安に思っていた。女神との約束の日がいつなのかエルヴィラには分からなかったが、後悔しないように必ず毎日ルクロドと過ごす時間を多めに取り、言葉をかける様にしている。
「マリーの所のシャルルがね、結婚するんですって。マシューさんの工房でも責任者になったみたいで順調よね」
シャルルはマリーとマシューの長男だ。父親に似て魔道具の開発に才能があり、とても期待されている青年である。
「それから、アーシュラが仕事に来週から復帰するのよ。無理はしなくて良いと言ったのだけど、魔法医が足りないから正直助かるわ。でもダニーの事を考えたら可哀想にも思うし、悩ましいの」
エルヴィラの娘、アーシュラはエルヴィラと同じく魔法医として活躍していた。その息子のダニエルはまだ一歳に満たないので、乳母を雇うことになるだろう。エルヴィラ自身もそうやって三人の子供を育てたのだが、やはり孫の事になると自分を棚に上げてしまう。
「……そうか、シャルルも、アーシュラも楽しみだな……」
「ええ。ああ、ダニーはもう掴まり立ちが出来るのよ。きっと歩くのももうすぐね!」
「……それはすごいな……」
ルクロドは目を開けるのも辛そうに見えた。
エルヴィラはルクロドの額にキスをした。
「さあ、無理はしないでもう一度寝てて。後でポリッジを持ってくるから」
「ありがとう、エルヴィラ。……愛しているよ」
「私も愛してるわ。Tá grá agam ort!おやすみなさい」
扉が締まり、ルクロドの閉じられた眼から一筋の涙が溢れた。
「迎えに来たわ」
美しい女の声が聞こえ、ルクロドは再び眼を開けた。そこには赤髪緑眼の美女が立っていた。
「……モルガンか。待ちくたびれたよ……」
「ふふっ。願いは叶った?」
「ああ。言葉も、キスまで貰えた!弟や妹も産まれて、甥まで会えた!……全部貴女のお陰だ」
「じゃあ、行きましょうか。皆とお別れの挨拶をする?」
「いや、良い。エルヴィラにこうなることは随分前に伝えている。それに、マリアに手紙を託しているし、テオ達にも後のことは任せてある。……何より会うと余計に別れが辛くなるものだろ?」
ルクロドはベッドから身体を起こして杖を振り、身なりを整えた。
その姿は年老いたものでは無く、凛々しい若者の姿になっていた。
「女神よ、願いを叶えてくれてありがとう。これからの俺の全ては貴女のものだ」
ルクロドは跪いてそのドレスの裾にキスを落とした。
「嬉しいわ。では行きましょう。…林檎の実る場所へ!」
後には空のベッドだけが残った。
明日はいよいよ最終話になります!
皆さんお読みくださりありがとうございました!
また感想、評価、ブックマーク、誤字報告も本当にありがとうございます!皆さんのお陰でここまで辿り着きました。
残り1話、是非お付き合いくださいませ。
また感想や評価をお寄せいただけたら幸いです。
※水素自動車が現実の世界で登場するのは1807年です。




