14. イニリ・ニシ
「ああ湖が見えてきたな」
ルクロドの言葉を受けてエルヴィラは首を伸ばして前方を見た。キラキラと輝く湖面がほんの少し見えた。
「確かこの近くの村にとてつもなく美味しいクラムチャウダーを出す店があったはずだからそこで休憩しよう」
「そんなに美味しいの?」
「少なくとも俺はあそこより美味しいクラムチャウダーを食べたことはないね」
そう言うとルクロドはマリアに道を指示して、自動車は細い道に入った。少し山間に建物がいくつか並んでおり、その中の白壁の大きめの家の前に停まる。
看板を見ると「イン」とあり一階が食堂で二階より上が宿になっているようだった。
エルヴィラとルクロドが中に入ると、まだ昼食には早い時間だったので他に客はおらず、太った中年の女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃいまし!お好きなお席にどうぞ」
「ああ、クラムチャウダーのセットを二つとエールとリモーネのソーダを」
女性は頷くと奥に消えていった。
気配からしてこの時間は女性が一人で切り盛りしているようだ。
しばらくして飲み物と一緒に白いボールと付け合わせの野菜の盛り合わせがやってきた。ボールは茶色いパイ生地で覆われており中は見えない。
「お熱いのでお気をつけてくださいまし」
鍋つかみのような手袋で女性はボールをエルヴィラ達の前にそれぞれ置いた。
エルヴィラは初めて見るそれに目を瞬かせて、少し途方にくれてルクロドの顔を見た。
ルクロドはクスリと笑うとスプーンでパイを崩して見せた。
中からクラムチャウダーの湯気が上がる。
エルヴィラも真似をしてパイを崩してみると、ミルクの甘い香りとクラムの香りが優しく鼻を刺激した。
パイ生地も熱そうだが中はもっと熱そうだ。
でも崩したパイがスープに浸された様は食欲をそそった。
スプーンでほんの少しだけすくって口につけると、確かにとても美味しく感じられた。
「美味しいわ!」
「だろ?ここのは何度食べても旨い。結構有名で、わざわざこれ目当てでカレドニアからここまで足を伸ばす商人もいるそうだよ」
「何が違うのかしら?」
「クラムが良く太ってるのとそれから牛乳だろうな。ここら辺の牛はカイロー牛と言ってサッパリとした旨い乳を出すんだ。茶色で毛足が長くて変わった牛だから、見ればすぐわかるよ」
猫舌のエルヴィラは先に付け合わせを食べてからゆっくりチャウダーを堪能した。
パイに包まれていたおかげか、時間が経ってもあまり冷めず最後まで美味しく食べることができた。
リモーネのソーダはエールよりも炭酸がきついがその分さっぱりとしていた。訊けば天然の鉱泉から湧き出した水を使っていると言う。
大満足の昼食を終え、自動車は再びイニリ・ニシを目指した。
湖を右手に道を進むと途中に古城があった。
「あれはアーカルデン城という古くからある砦だよ。今は誰もいない筈だ」
その城は石を積み上げてできたもので、確かに貴族の館というよりは「砦」という言葉が相応しい頑丈な物に見えた。
ちょっと寄ってみようか、という話になり、一行は砦の近くに自動車を停めて、敷地の中に入ってみた。
確かに誰もおらずがらんどうのように見える。
建物をぐるりと廻って湖のほうに出る。
ロッホネスは細長い湖だ。対岸まで大きな川ほどの幅しかないが、とても深いせいか、水面は黒く、底知れぬ怪しさがあった。
竜が住むという噂もあながち嘘ではないのかも知れないと感じさせた。
エルヴィラがしばらく湖面を見遣ると、何か動く物が見えた。
魚のようでもあり人間のようにも見えた。
「あれは何かしら」
「うん?」
エルヴィラの問いにルクロドは顔を上げた。
エルヴィラが指差す物を見つけると顔を顰めた。
「あれは人魚、メロウだな」
「人魚ですって!?彼らは海に住う妖精でしょ?」
エルヴィラは初めて見る妖精に少し興奮気味になって身を乗り出した。
「ここは海に繋がってるから……。それより不味いな」
「何か悪さをするの?」
エルヴィラは不安げに尋ねた。
ルクロドはエルヴィラの不安に気付き、かぶりを振って否定した。
「いや、気のいい奴らだよ。俺も昔助けられたことがある。でもメロウが顔を出すのは嵐の前兆なんだ。道を急ごう」
ルクロドはエルヴィラの背中に手をやり、守るように自動車に急いだ。
自動車の幌をセットして再び走り出す頃には暗雲が立ち込め、しばらくすると大粒の雨が降り出した。
視界を遮るような大雨にエルヴィラは生きた心地がしなかったが、マリアの運転は危なげもなく、自動車は予定通りに宿に着いた。
残念なことに途中のイニリ・ニシの街の様子が全く分からなかったが、明日には雨も上がるだろうと気持ちを新たにした。
宿はインというより別荘に近く、小振りだが美しい貴族の館を一棟貸し切りとなっていた。
夕食にマスや海老を使った料理を楽しみ、デザートにはよく冷えた果物のポリッジが出た。
外は酷い嵐だったが、宿の中は快適で、エルヴィラはまたスパを楽しみ、その晩は早い眠りに就いた。
しかし早すぎたせいか夜中に目が覚めてしまった。外はもう雨風も止んだようで辺りは静かだった。
ベッドから起き出し水差しから水を汲むと喉を潤した。よく冷えた水はエルヴィラの思考をはっきりさせた。
エルヴィラは隣の居間に続く扉から光が漏れていることに気づいた。
そっと扉を開けると、ルクロドが一人酒を飲んでいた。
「エルヴィラ、起きたのか」
「ええ、目が覚めてしまって」
「まだ夜更だよ。ベッドに戻った方が良い」
ルクロドは優しく穏やかな声でそう言った。
「ねえ、聞きたいことがあるの」
「うん?何だ?」
「どうして私にこんなに親切にしてくれるの?」
エルヴィラの言葉にルクロドは少し困ったように眉を寄せた。そして息を吐くと切り出した。
「少し俺の話をして良いかい?長いけど、眠くなったら寝て良いから」
ルクロドは横の椅子を指し示しそう言った。
エルヴィラはそっと頷き、椅子に座った。
「俺は救貧院で生まれ育った。母はいたけど、病気で、ずっと寝たきりで、俺の顔もわからないくらいで、俺が四つの時に儚くなってしまった。……小さな頃の俺はただ母に笑って、名前を呼んで欲しくて毎日母の元に花を届けた。でも一度もその願いは叶わずにいた」
そこでルクロドは一口酒を煽った。
「大人になって魔導師としての地位を築いた頃、俺は実の祖父と会って母に何が起こったかある程度知ることができた。母はペンドラゴンの貴族の娘だったが罪を犯して追放され、狂ったんだ」
エルヴィラは息を飲んだ。それではまるで自分の未来にあるかもしれない話とそっくりだ。
「俺はあの日記を見て、母の代わりにお前を助けたいと思った。同じ道を辿らせたくはなかった。だから俺は……」
ルクロドは顔を伏せて、そう言った切り押し黙った。もしかしたら泣いているのかもしれないと思い、エルヴィラは声をかけることができなかった。
どれくらい時間が経ったのか数分なのか数秒なのか、エルヴィラが眠気を取り戻した頃、ルクロドは再び顔を上げた。
「あの日記は人伝に巡ってきた物だ。その時にお前の未来に起こりうることを知った。……どうか母の代わりに幸せになってくれ。その為なら俺は何だってできるんだ……」
ルクロドはエルヴィラの目を真っ直ぐ見てそう語った。
「……ルクロドはもしかして私の伯父様ということかしら?」
祖父母の誰かがルクロドの母の兄弟なのだろうと予想できた。特に怪しいのは母方の祖母だ。きっとルクロドは母の従兄なのだろう。
「……俺の母の名前は教えられない。家のことも……。だがまあそんな所だな」
ルクロドは曖昧に頷いた。
「さあ、もう一度寝た方が良い。明日は観光に行こう。船も乗るから、寝不足だと船酔いしてしまう」
ルクロドは暖かな手をエルヴィラの頭に乗せた。
「ええ、おやすみなさい。ルクロドも少しは寝てね」
「ああ」
「……ありがとう。話をしてくれて」
そう言うとルクロドは穏やかな笑顔を向けてくれた。
「こちらこそありがとう。話を聞いてくれて。おやすみ」
翌朝、名物のニシンの燻製のリモーネバター焼きが出て、エルヴィラはその美味しさに歓喜した。カレドニアやペンドラゴンに比べて美味しい物が多い。
特に魚料理が充実していることはエルヴィラには至福だった。
「カイロー牛のシチュー本当に美味しいのに、残念にゃ」
マヘスがそう言うとルクロドも頷いた。
確かにあのミルクを出す牛なら美味しそうだが、肉が苦手なエルヴィラにはあり得ない選択肢だった。
昼食でルクロドがカイロー牛のステーキを食べていたが、勧められても断固として口にしなかった。
ルクロド曰く、カイロー牛の肉は脂身が少なく、芳醇な味わいながら健康にも良いそうだが、肉は肉だ。エルヴィラにとってそれ以上でも以下でもない。
代わりにエルヴィラは生牡蠣にリモーネをかけたものを食したがそれも濃厚でとても美味しかった。
船に乗って湖を遊覧したり、生まれて初めての釣りに挑戦したり、カイロー牛の見学に行ったり、竜には会えなかったが、毎日楽しく過ごすこと一週間、あっという間に帰路に着くことになり名残惜しく感じた。
「また来年も来よう」
ルクロドにそう言われ、エルヴィラは沈みかけた心を一瞬で浮上させることができた。
ーーそうよ。何もこれっきりじゃないのよ。それにまだ行きたいところが沢山あるし。
エルヴィラは次の旅行に思いを馳せながら家路を辿った。
カイロー牛は別名ハイランド牛という実在牛です。




